subtle
ほう、と大層興味深い、というように彼はしみじみとその書物たちと向き合った。
本当に、彼が手にしていると、彼の白衣も相まってすごく立派な専門書のように思える。いや、それらは他でもない、私の取るに足りないただの資料や趣味の本なのですが。
えっと…、と声を掛けようにもどうしたらよいか分からずに行き場を無くしている私に気付いたのか気づいていないのか、彼はふと書物に目を通しながら言った。
これは、君の用いる言語か、
と。
てっきり彼は私の言語を理解してそのように話しているものだと思っていたのだが、どうやらそうでは無いらしい。
つい「貴方の話している言葉ですよ」という旨を告げると、彼はさも驚いたように口元に右拳を添えた。
ふむ?とでも言いそうな彼にその動作はよく似合う。まるで教授か研究者のようだ。…あれ、研究者…なのかな。白衣を着ているところからすると、あながちその推測も間違ってはいないかもしれない。
ふいにそのやわらかなクリーム色を反射するその金髪が、ゆらりと揺れたので私は急いで視線を再び彼に投げ立ち上がる準備をした。
大丈夫ですか、とも言葉を発する前に、私はただ彼の容態に見入っていた。何が起こったのか、私には分からなかったが、何か気に障ったのだろう。良かれ悪かれ、なにかを思い出した、のかも知れない。
まさか…、そんな、…嗚呼・・・
その断片断片の自問自答の言葉が私の心配を揺るがす。
「確かに、私は・・・ああ」
今度はその右拳をそっと額に添え、頭を落ち着けているように窺えた。
…そういえば、記憶喪失の人が過去の記憶を思い出す際に、激しい頭痛を伴う事があると過去に耳にした。
彼は、もしかしたら今その状態なのではないか、とひやりとした寒気と共に一つの推測が飛び出した。
しかし下手に関わっては悪化させてしまう可能性が無いとは言えない。ただ私は、心ばかりの膝立ちのまま彼を何もできずにひたすら心配に見守っていたのだった。
そして、何か決まりが付いたのか彼はそっと、やおらその面を上げた。目を少し見開いたまま、そっと。
「だ、大丈夫ですか」
そう辛うじてついに出せた音は悲しくなるほどに小さく、震えてさえいた。
その声で私の存在を再び思いだしたのか、彼はそのまま視線だけちらとこちらに向けて、そしてまた視線を本に戻しつつ言った。私のそれとは反して、やわらかで、落ち着いた声だった。
「さまざまな形があるのだな、この…、何語、というのか、…そのまま、先ほどの国名を取って、日本語、と言えばよいのだろうか、」
しかし、文字の種類は多けれど、随分規則的に思える、
興味深い。
と。そう彼は観察結果を淡々と私に報告してくれた。
きっと彼は学問にずいぶん長けてそうだから、これを使いこなすのにも多くの時間は必要ではないだろう、と私は踏んだ。それになにより、今彼は現にそれを喋ることは私よりも巧く出来ているのだから、あとは筆記と読書のみである。
「そう、ですか…。あの、さっきは・・・?」
「ああ、・・・いや、何か…あったのかも知れぬが、……何であったか・・・。」
彼はまた考え込んでしまった。やはり、何かを思い出す一歩手前まで来ていたのだろう。
ふたたび考えさせてしまったことを悪く思い、私は切り出す。
「その、貴方には、色々あったのだと思います、イングランドからここは、相当遠いのですから。
ですから、その、あな、貴方には、ゆく場所が、決まっていたのですか?
どこかに、りょ、旅する、予定だったのでしょうか」
もしかして、を抑え込みながら、私は訊かなければならないことを聞いた。
ひどく臆病になってしまった。なぜなら、もし彼にゆく場所が無かったとしたら、
「…旅、では、無い
…前、居た書斎から、瞬時にここに飛んできたのだから…可笑しなものかい?一番可笑しいと感じているのは私なんだがね…」
それを聞いて私はひやりと青ざめてしまったように感ぜられた。
もしかしたら、それは私が危惧していたようで密かに願ってもしまっていた、この突然のぼんやりとした、ひたすら不思議な異邦人さんと、ここに
「それでは、…」
住むという事を、心底お人好しな私にはっきりと意味するからであった。
突然の、しかし話の流れからして突飛でもない提案を耳にした彼は、意外にもゆっくりと顔を上げ、私の方を見た。その視線は何も感じられない無機質なものだったので、幸い私は彼の視線を辛うじて受け止めきれることができた。
彼は鼻で笑って一言、
「おせっかいなかただ」
と、一拍おいて、
「本当に、悪い、それは。だが私は、実を言うと何故か、…君にはもう明かそう、そう、わくわくしているのだ。知らないものがここには沢山ある、と私は推測する。今にも、私は我が身に起こる数々の奇妙なことが恐ろしくも大変面白く、」
君が良いというなら、ぜひ…、――本当に嫌でなく、本当にそう言ってくれるなら、少しの間、一日でいい、何も構わなくていいから。
彼の言葉は多く述語を欠いていたが、その意味は彼の瞳と言い方で十分に理解できた。
彼は私に悪いと思いつつも、彼の好奇心には抗えぬようだった。
「何も構わなくていい」という言葉が私を意外にも一番安心させた。昔から気を遣うのが下手な人だったから。密かに、自分の気の利かなさで支障がでるのを心配していたのかもしれない。
それからだった。夢のような、どこか現実味の湧かない、白い羽衣に包まれた彼と儚くも見事な思い出を描く日常の風景に包まれるのは。