lassitude
「イングランド」。その国名を受け取った私と、そのイングランドから来たらしい訪問者さんとの話はそれからしばらく続くように思えた。
しかし彼は大分見るからに参っているように見えた。疲れているのであろうか。
イングランドから来たと言ったが、まさか一瞬でここに来たわけでは…多分、恐らく無いであろう。
とすると、彼は長旅で疲労していたとしても無理は無い。
さらに彼の「元居た世界」を問い直す前に、私は「大丈夫ですか、」と声を掛けないではいられなかった。
先程の彼の微笑が、私の、知らず知らずのうちに固まっていた緊張を少し和らげたのだろう。私はようやく、彼のその、なんとなしに彼の周りに纏わりついている「けだるさ」に気付くことができた。
それまで気づかなかった事が恥ずかしく思えるほどに、彼は明らかに弱っていた。身体も疲れているのかもしれないが、きっとこのような訳の分からないことが身に起こって、少なからず精神と思考を消耗しているのであろう。
その心ばかりの言葉を耳に入れると、彼は一瞬はて、というように目の照準を私の瞳に合わせてぴたりと止まった。それはごく僅かな時間で、すぐに彼は言われた事を飲み込んでまた下を向いて言葉を零し始めた。
その一瞬、はっきりと自分の目を彼が捉えた瞬間は、きっと彼にとっては何とも思わない、何気ない、――という以上に無意識な――動作の一部であったろうが、その一瞬は私の時を強いて止めたかのように思われた。
きっと時間に換算すれば1秒経ったかどうかだったろう。しかし彼の瞳がしっかりと私を見た瞬間、喉から心臓にかけて何かがこみ上げるような変な感覚に囚われ、同時に、私の肺から生まれた息はその喉を通る前にせき止められて、私が吸うはずだった息も私の口元で行き場を無くしてしまったのである。
物珍しいアベンチュリン色の瞳が、私の世界を捕らえた。
ともかく、その一瞬は私にとってはそれほどの事を引き起こすのに値した。
私はふと我に還り、疲れていそうな彼に飲み物を差し出すことを思いついた。
そうでもしないといけない、と私に思わせるほどに、彼は全身から疲労を滲ませていたのであった。
ちょっと待って下さい、今飲み物を持ってきますね、と断りを入れて私は立ち上がった。
彼は、それをゆるりと視線で追ってから、引き留める気もないのか何も言を発さずにそのまま静かに私を見送った。
ドアをいつもより静かに開け、そして響かないようにそっと閉めた。
一階に降りて、真白な陶器のカップをコトン、とテーブルにひとまず出してから、あれまと思い出した。
何を淹れればいいんだろう。イングランドから来たって言ったから、やっぱり紅茶かな。
その問題は、彼が好むかどうかを別にして案外簡単に解決し、私はロイヤルブレンドのティーバッグを取り出した。
「ロイヤルブレンド」。
紅茶にも色々種類はあるみたいで、実際その他の種類のティーバッグも私の手元にはあったのだが、なんとなしに「ロイヤル」という言葉が私には高貴な印象をもって響いて、「お客様向け」というイメージを浮かび上がらせ、今の状況の私の目を引いた。
家にあまり“お客様”なんて来る機会がないからか、私は知らず知らずのうちに、その他人用の紅茶を淹れることに心を躍らせていたのだった。
折角だから、綺麗なティーポットにそのティーバックを入れて、お湯もそこに注いだ。
普段はカップに直接ティーバッグを入れるのだが、ちょっと「特別」を演出したい気持ちもあったのだろう。
自分のカップも食器棚から取り出して、気持ち早めにもう紅茶を注ぐ。自分のカップに注いだものを少し味見する。
…うん。良いみたいだ。
彼の分も注ぎ、ティーポットを一旦テーブルの端に追いやった後、食器棚の下の方に普段使わずしまってあったお盆を取り出す。そこに湯気の立ち上る二つのカップを置く。
そっと気を付けながら階段を上った。