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19/19

laceration

今日の帰りは外が薄暗くなってからだった。もう空には澄んだ月が懸かって辺りをぼんやり明るく見下ろしていた。

二階のいつもの部屋に行くと、彼が居た。ちょうど、窓の外を見上げていたようだった。


「今日の月も明るいですねえ」、と私は窓の外から室内までにもよく映り込む光を眺めて、のんきに言った。

部屋に入って来た私に一度だけ目をやった彼は、また窓の方に視線を戻した。蒼い空に、ぽかんと月だけがいた。星はまだ姿を現さないらしい。


今日は珍しく、彼から話が切り出された。


「人は何故、月を見ると幸せになると思う」


彼はぽつりと零すように言った。その瞳の色はよく窺えなかった。此方から見ると、ただぼうっとしているようにしか見えなかったけれど、何か深く思う所があるのかもしれない。床には数冊の本、…美術と、幾何学と、物理基礎の教科書、等が広げられていた。昔、私が使っていた筈のもの。でも今は彼の方が、私以上にその本たちを十分利用してくれている。ずっと持ち主だけに抱えられるより、今の方が教科書も幸せかもなあ、なんて単純に、ちょっと他人事ながらに思った。


「きっと、遠くの光が自分の知覚を通して実感できることに歓びを感じるのであろう」


彼は先程零した問いに自答した。そういえば会った直後は形式的に敬語を使われていたのだけれど、いつの間にかそれも無くなっていた。何の心境の変化か分からないながらも、そっちの方がより自然に近いような気がしたから、まあいいか、と気にせずにいた。


「月は幸せとともに哀しみも運んでくると思わないかね」


―盲目の者は、はじめから月を見た事が無いので、月が見えなくとも悲しむ事はない。その感覚を知らないからだ。我々は、素晴らしい月が時に雲に隠れてしまい見えなくなると嘆かわしく思う。私は雲を憎み悲しく思う。

月がみえる喜びを知らないから盲目の者は月が見えない悲しみを知る術はない。きっと恐らく、私達よりも彼は幸せである。

知覚する経験が無ければ、哀しみとも出会わずに済む。


彼は一人で語っていた。その背中が、ひどく「独り」に見えた。きっと彼の心象を写していたのだった。私は卓袱台の前に、ちょっと彼から斜めの位置に座った。そっちの方が、真後ろよりも表情が窺えるような気がして。


「人の愛情だってそうだろう。だから私は幸せなんだ」


彼の横顔は薄らに笑っていた。それとも、笑っているように見えてしまっただけなのか?月を見上げる彼の目は、故郷を懐かしんでいるのだろうか?否、故郷に愛なんて無いのだろうか。いや、そんなはずはない。誰だって、故郷は自分の拠所であるはずなのに…。

そして私がもう一度月を見上げたその間、彼の口が、少々悲しみにより苦しそうに固くつぐまれていたことに私は気付かなかった。


「…悲しむことがないと、いう事ですか」


きっと面と向かっては言い辛かったので、私はそのまま彼と目を合わせる前に、月を見つめながら呟きに近いような言葉を零して、それを応答にした。


「はっきり言おう。私は、喪うのが怖い」


彼は何か、一度向こうに戻って思い出したのだろうか。それともここに居る内に、過去に思い当ったのだろうか。言い終わってから、その頭がゆるりとこちらを向き、ちらと目が合った。短い煌めきだった。その瞳は少し暗く輝いているように思えた。


――「いずれ貴方も私を裏切るのだろう」、とでも言いたげな、何も信じていないのだというような諦観を映した目だった。もしそんなことを言われたら、私は考えなしに取り繕うのかもしれない。でもそんな保証はどこにもなかった。いつ居なくなるのかは私にも分からない。極端な話、明日死ぬ可能性が無いとも言い切れないし、確実なことなど存在しないに等しいのだった。


…ああ、彼は傷付いていた。遠い過去に何を視たのか分からないけれど、柔らかいクリームの髪が、今ばかりは疲弊しているように見える。

私は机上に置かれた彼の手帳に目を落とした。前と同じく、筆記体で何かが書きつけられていた。随分変質しているから、此方に来る前の書き付けに違いなかった。色褪せた紙に随分馴染んで居た。


「あなたはよそ者だ。私も余所者だ。妙な事を言ったな。」


ちょっと謝るような口調で彼は続け、それから目線を床の本に戻していた。ぱらりと適当にページをめくる。

「他人への優しさ」を向けられた私は、どうも締め付けきれないような、遣り切れぬような、同情とも言えないもどかしさを覚えた。いくら私が「こちらに構わなくていい」と言っても、どうしても全くの無関心では居られなかったのだ。どんなに疲弊していようと、その根はやさしさを失ってはいなかったんだろう。きっと、こちらに来る前もそうして気を遣って、凡人には想像も及ばないような仕事に身を削りながら、心身ともにすり減らしていたのかもしれない。彼の過去についてなど、私にとっては想像の域を出ない。此処は、彼にとって休める場所で在れるのだろうか?


「…だが私は、自然を見続けるのだろう。魅入られ続けるだろう」


半ば自嘲するようにも聴こえる声調でそう言った彼は、もう一度窓の外へ頭を回した。はっきりと光が当たらずに霞んだような瞳が、こちらからも窺えた。

彼のその言葉は、きっと「自然科学者」としての定めを静かに映し出すものだった。天職とは、こういうことなんだろうな。難しそうだし、まだまともに働いたことのない学生の私には、ちょっと遠いものに見えるけど。


彼がこうして、比較的に明確な「かなしみ」を言葉にしてくれたのは、初めてだったかもしれない。勿論、ぼんやりとした靄のような、疲れのような負の要素は何となく察知していたけれど。きっと、更に表に顕わさない、深く、暗い底が、彼を巣食っているのかな。無理に聞こうとは思えない。それでも、その予想もしえない重い霧が、どうか晴れてくれればいいな、と無責任にも思ってしまった。

それがいつのことになるのか、はたして向こうに彼が帰った後にその時が訪れるのか、分からない。

突然の来訪者を迎えた私は、この世界で確かにささやかな、魔法のような小さな幸せを彼から貰っていた。それを思い返すにつけても、偶然とはいえ、この出会いに感謝さえしているのだ。


いくら靄を纏ったような不思議な存在だといっても、彼も、人間であるし、心を持っているはずだった。現に、彼は僅かな、確かなやさしさを、何度か私に覗かせていた。わざとではない、自然と零れてくる優しい性格だった。

彼は私よりきっと、もっと長く生きて、沢山の別れを経験したのかもしれない。彼の横顔に映る瞳の影を見るにしても、その老成が窺えてしまう様だった。


いつの間にか星空が顔を出していた。暗さがずっと深みに沈んでゆき、本当に夜に傾いていた。一番星を見つけたと思う瞬間に、私の目は二番、三番と、いつも通りの星座を追っていた。こんなに星が出ていたとは気付かなかった。ここで初めて、私は自分が思うよりも彼の様子に目を奪われていたことに気付いた。

どんな言葉でも、彼が発するとぐっと私の気を引いた。実感が込もった言葉ばかりを口にするからだった。彼の動き、言の葉、すべてに偽りがないように見えた。シンプルで、最短距離を辿るようなその軌跡は、単純に、しかし本質的に、私やこの世界に訴えていた。ただ、彼がその心の内のすべてを、誰かに打ち明けるようなことはないんだろうなと、彼だけの纏う独特の空気を感じる度に思った。孤独、というものを、ベールのように掛けながら、自分で抱え込んでいるみたいだった。


私にも自分だけの知る感覚があるように、彼にはもっと自分だけの真実や問題があるんだろう。私には、どうしようも出来ない世界なんだろうな。もし、それを理解できるくらいの素質があったら…、なんて、途方も無い事を考え出してしまう。少しでも私を逸せば、それは私ではないのに。


ただ、彼も、喪う怖さを十分に実感している、ということだけはさっきの言葉で分かった。その怖さは早くも私が数日前に、彼によって再認識させられたものだった。彼が急に居なくなってしまったとき、血がさっと引いて、疑いと悲しさと焦りが私を動かした。それを端的に言えば、私は彼を「失うのが怖い」のか。どうも自分は文系に進んだくせに言語化が苦手だから、ぴんと来なかったけれど…、彼の正直な言葉を聞いた後、そうだったんだと合点が行った。

…彼は、それを経験したのだろうか?


はっとして目に映した彼のペリドットの瞳は、相変わらずその見詰める先の夜空に溶けてしまいそうで、綺麗に、控えめに煌いていた。

この日の彼の瞳と、かすんだ私感は、幾度も私の想い出に顔を覗かせては、胸をざわつかせたのだった。これでさえ、宝物のような記憶なのだから、何もかも、彼との風景は綺麗に映るようになっているのかもしれない。

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