陸続きの不慣れ
私が…知らぬ間に彼女の家に訪れてから数週間が過ぎた。
こうして少しばかり落ち着き始めると聞き質したいことも次々浮かんで来た。幾ら心身が参ろうが、生れ付きの好奇心は私を離してくれないようだ。仕方ない、昔からこうだった。
否、それは心身が回復した証拠かも知れぬ。確かに、もう思い出せぬ…というより抑々能く覚えて居ないが、此処に来た当時は全てがどうでも良い様に思えて居た気がする。何に関しても興味が持てない、如何にでも成れ、…其んな気だるい何かを抱えて居た。だからこそ私は…確か、窓から飛び降りたのだ。
次の日には向うに戻ったかと思いきや、また彼女の軒先に倒れ込んでいたり、どちらか分からない部屋に戻って居たり、眠っているのか夢の中なのか、現実なのか本当に目を覚まして居るのか、疲労でそれすら覚束ない時間を過ごした。もうあれが何日なのか、抑々日を跨いでいたのかも定かでない。
彼女の部屋には随分珍しい本があった。声楽から数学、天文学などもあった。恐らく文学もあっただろうが、生憎私には未だ読めない。言語体系が相当に異なっているらしい。と言いながら彼女と言葉を交わすときに私が口にしている言語は彼女の使うそのものであるようだから、妙なものだ。逆に私がここに来る際向こうから持ち込んでいたらしい手帳の記載は読めなくなっていた。いや、読めそうではあるのだが、どうも見当が付かない。恐らく私の字ではある、と直感と経験が告げるが、何を云って居るのかもうさっぱりだ。その不明さは時を経るにつれてはっきりと私を支配し出した。忘れる、というに近いらしい。此方の言語が私の以前持っていたそれを追うように、砂が新しい風で流れてゆくように、追い込まれて忘れていく。
先日彼女の好意でまた外に出て、星を観測した。観測と云っても彼女の家には望遠鏡があるでもなしに、肉眼での観察となった。それでも、どこか見知った配置を眺め観ると、私の居場所が地球である事をなんとなしに知る事が出来るようで、妙に落ち着く。暗いのも良い。昔から、深い青に沈み込むようにして張り巡らされた輝きを追うことが好きであった。
彼女は女性にしては天体に詳しいようであった。それから蔵書にしても、あれは空想の類であろうが、天体の彷徨いやもっと遠くの…太陽を越えた遠くの、我々の兄弟のような恒星についての図像が描かれて居たり、興味深いものばかりであった。それから数式だ。取り出した本には相当の記号が散りばめられ、きっとお偉い方…頭の固い旧教連中は見ただけで匙を投げだしたくなる構成であった。私があれ程無意味な批判を避けようと努力して古典的なそれに則ったのに、この著者はなんて冒険的で、向こう見ずなのだろうと呆れ返る。まあ彼女の世界ではそんな心配が無いのかもしれない。技術にしてもそうだ、見た事も無いような細工が当然のように転がっている。窓の細工もだが、あれ程美しく簡素でいて丈夫なものは珍しいように思える。
暦も多少詳しいものを手帳に拵えて居るなど、訊きたいことは生じたし、彼女なら私の考えを話してもいいような気がしないでも無かった。しかし止めた。まだこの国の事も能く分かっていない上、私は多少混乱しているのだ。いや落ち着いて来たからこそ、またあの猜疑心とやらが顔を出しそうなのだ。
彼女は悪い者ではない。今のところ、酷く、此方が疑問を覚える程にお人好しであり、それは純粋だった自分の過去を想起して重ねてしまえば寧ろ可哀相な位であった。最早同じ人間かどうかも定かで無い。だから無根拠に彼女を疑うようなことはしたくない。傷付けるようなことはしたくない。何故ならそれは幼いあの頃の自分自身を痛めつける事のように思えたからだ。
彼女は孤独である。こんな一軒家に女性一人だなんて、恐らく相当の理由があったに違いない。それに関わらず毎日よく笑う。哀しみなど微塵も見せずに、一見本当に幸せそうに此方を見るのだ。それが分からない。
学校に通って居ると聞いた。大学、といった気がするが、そんなに彼女のところでは教育が普及して居るのかと最初は信じられなかった。そう言われずとも、書棚にあるのは随分先進的な本だ。彼女は…変わり者と周りに呼ばれるような人なのであろうか。それとも皆がこの国では女性も学問する事を男性同等に見ているのだろうか。普通に考えて…彼女は況してや女性であるのだから、一人で自然科学の本を読んで学問に興味を持っていることが知れれば世間にどう言われるか分かったものでない。
彼女なら或いは……、私の理論を、…理解するのではないか?
いや、止めておこう。矢張りまだ恐ろしい。リスクは避けたい。まだ確定しない彼女との争いは避けたい。もう疲れてしまった。これ以上人に異を唱えられたり無益な口論に巻き込まれるのは、それだけは御免だった。半端に重なる知識は時に衝突を生む。もういい。私はただ、静かに、大海の側を散策したいだけなのだ…。
…そしてそれを、そこで得た綺麗な貝殻や石などを、彼女に見せることが出来るようになるのだろうか?いつか、そんな日がくればよい。戯言だろうか。
自分でも可笑しくなって乾いた笑いが出た。
未だ不安定だ。私は酷く不安定だ。今思えば、今この瞬間だけを嘲るような資格は私にないのだと気づく。私は、疾うの昔から、随分覚束ない精神を抱えて居た。不安定だ。欠けていた。だからこそ虚勢を張った。人に侮られるような事は避けようとした。其れは恐怖であったか知れぬ。私は、今だから思うが、弱かったのだ。虚勢は弱さの体現であった。それすら認めたくも無かった。意図的に目をそこから背けていた。否定が怖かった。それは自分自身の否定ではないか、と時に飛んでもない推測に至り、本当に懼れた。もう、……戻りたいとも思わない。少なくとも今は。
疲弊した。すっかり摩耗されてしまったのだ。向こうの身体は今頃どうしているだろう。
魂が今ここにあるとすれば、死も同然ではないか?神は何を見せたかったのか?告げたいことは何処にありや。
ああ、まただ、思索が空を浮いて居る。一人で沈めば、昏い事象はどんどん己を引き摺り込む。こうして猜疑は私を巣食い、養分を己の物として肥大化していくのだ。
今は人と話す気も起きない。ただ、彼女が、自分の事には気を遣うなと云って呉れた、あれだけが心の微かな拠所だった。言い訳となれた。人に気を遣わないというのは、そしてもう死んだような身として奔放に、半ば適当に振舞うのは楽であった。いや、この身こそ本来の私だったのかもしれない。昔に知らぬまま死んだ私の、幼心に似た生来だったのか知れない。
これから如何なるかなど、考えられもしない。もう死んだとすら思って居たから。いっそ死んだものと思って己を見放し、多少自棄になっている位なのだから。