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それから数日が平行的に過ぎて往った。彼はあまりものを口にしようとしなかった。動くのにこの世のものは殆んど必要としないように見えた。ありえない筈の話だけれど、彼は夢の間にここへふらりと現れているのだ、と思えばそれも納得してしまえるように思える。そしてふと居なくなる。平日の昼間は大学に出向いているから知りようもなかったが、休日、家で過ごしていた時に、風が消えるように自然に彼がいなくなってしまったのでまた驚いた。しかし今度は、以前彼の言葉…、これは向こうとの世界とを繋ぐ夢であり、こちらにまた行き来できるかもしれないという可能性、を思い出して比較的期待を持って待ち受けていた。すると三時間、四時間ほど経ってだろうか、ぱっと、視界のわきに目をやると彼がまたこちらに来ていたのだった。降りて来た、の方が感覚としては近い。どこからやって来たのか見当もつかない程、音もなく、光のように、そこへ元々いたかのような佇まいで訪れるのだ。



彼は相変わらず口数も少ない。寝る場所は、隣のオーディオルームに布団を敷いてそちらを使ってもらうことにした。以前家族が使って居たものだ。遠い砂塵のような匂いの思い出が心を掠めそうだったが、今は目の前の彼の事で精一杯だ。


私は、あれから学校帰りに文房具屋に立ち寄ってノートとペンを彼にプレゼントした。カートリッジ式の万年筆。今思えば、鉛筆でもボールペンでも良かったし、そちらのが便利かもしれなかったのだが、彼のなんとなく古風な出で立ちへ無意識に感覚が引っ張られてしまっていたのだった。それに、彼も喜んで(目に見えて明らかな表情の変化は示さなかったものの)受け取ってくれたようだから今更別のものをプレゼントするのは後でいいかな、と思えたのだった。万年筆は白衣の彼に良く似合っていたから。


こうして私は、消えたり現れたり、まるで点滅を体現するような彼の存在と共に、ゆるやかな「日常」を新しく塗りかえるように築いていった。これが日常になりつつあった。我ながら慣れるのも早いが、はじめからどこか理由も知れぬ親しみを抱いていた時点で、心に新たな訪問者を受け入れる素地は備わっていたのかもしれない。難しい事は抜きにしても、私はなんとなく、彼の存在を否定できないでいた。近しいような、遠いような不思議な佇まいが、逆にいつもはっきりしない私に寄り添うようで、何故か安心したのかもしれない。つかみどころがないのが、寧ろぼんやりとした安らぎに思えるのかもしれない。


今日は授業終わりに友達と二人で話し込んだ後、学校帰りにゆっくり買い物に寄ったため、家に着くのが少し遅くなった。

そのため帰り道には月が既に浮かんでいた。


家に着き、買い物袋を片付けてから二階の部屋へ。

私の部屋のドアを開けると、そこにはあの訪問者さんがいた。てっきり、彼個人に充てたスペースであるオーディオルームに居るのかと思ったから少し驚いた。


彼は、あの日に拡げていた音楽の教本を傍らに、ぼうっとしていたようだ。私がドアを開けた時には床に足を伸ばして座り、空に飛ばしていた目線をふとこちらに何気なく向けていた。が、彼は何か深い考え事をしていたのかもしれない。その心意は私に掴めそうにない。自然科学に造詣の深い彼は、私とはもう正反対の存在だし、だから私が彼の行きつくような考えに及ぶことはないんだろうな。


「今日は月がとても明るかったですよ」

私は入室するなり、挨拶代わりに声を掛けた。


確か満月だったっけ…と月齢付きのカレンダー手帳を見る。机の引き出しから手にとったそれは、前に行きつけの雑貨屋の福袋で貰って、でももう一つの元から持っていた手帳の代わりになることなく、奥でいつも眠っていたものだ。でもたまに、取り出してメモを書き留めておく為にも使っている。思いつきや、不図気付けた事を心に辛うじて留めておくため。


――ああ、満月だ。道理であんな綺麗な円を描いていたわけである。

納得し手帳をもとに戻しつつ、満月らしい、と彼に告げた。


彼は世間話のようにそれを受け流すかと思ったが、案外話を繋いできた。顔をこちらに少し乗り出すようにして、「それには暦が載っているのか 詳細に」と。

月のことかな、と思い、「はい、月齢も載っています」と返す。

彼は、小さくほう…、と呟くように言ってから、少し話を続けて来る。

観測データが入ってくるのか、…観測を続けている友人がいるのか、…それは何処で手にしたのか…、

一通り聞いてから、彼はまだ何か聞きたそうにもしていたが、ひとつ頷いてそれを一先ず切り上げた。


彼は、月が好きなのかな。自然科学一般…、と前に言っていたから、天文学は当然のように彼の範疇にあるのだろう。そう思うと、急にも思える質問の羅列に納得も行く。


ふと、行けるかわからないけれど、ひとつの誘いが浮かんだ。


「月、を見に行きませんか」


たった数秒で行ける距離。この二階から玄関まで。それが、今の私、――と、おそらく彼――には、この“ドアの外”に出る事が大変な出来事に思えていたのであろう。口にする私も、それを聞いた彼も、ひとつのイベントを受け止めるかのような、ちょっと大層な面持ちだった。


彼は矢張りそのためか、一瞬ためらった。ただそれもほんの一時のもので、 よろしい、

「行こう」と。彼の口は確かにそう紡いだ。


以前に一回、彼は外に出ようとして大きな躊躇いを抱いて戻って来た様子だったからどうかとも思ったが、彼の意がそうと告げるのならば私はそれに付き合うしかないのだ。段々と、こちらの空気にも慣れてくれるといいな、勿論すぐさまに、とは言わないけれど。


ともかく、何気なく口にしてしまった言葉に、いざ彼が本当に同調してくれると少々驚いた。


坐っていた腰を上げて彼は私と共にドアの方へと、その外へと歩き出した。

彼を玄関まで招き案内しながら思った。そうか、彼はやはり天文学が好きで、それで月を見るのも好き、であるのか。

彼を覆う白衣を改めて認識し、そう一人で理由を付けていたのは向こうには内緒である。


一応、彼の靴はこちらで預かっていた。いくら室内が汚れないといえ、なんとなく靴の儘上がられるのは気が引けたため。文化の違いを、案外彼はあっさり受け入れてくれた。

その靴を履かせて、とんとん、としっかり彼が身に着けたのを確認してから、また、彼に「開けますね」と確認して、玄関のドアをゆっくり開けた。

私が先に出て、ドアを持って待っていると、彼もそっと外に足を踏み入れる。

一歩、一歩と外へ。そして私はドアを閉めた。


辺りは暗い。車も通らない。彼は地上の周りよりも、ずっと空を見詰めている。

その先は、月だった。その横顔につられて見入ってしまいそうだったが、咄嗟に前の出来事を思い出し、体の様子は、大丈夫ですか、と問うた。


彼はその問いで初めて、あの時よりも外の空気との違和感を纏っていないことに気付いたようで、あぁ、と小さく声を出し、「今は、何ともない」と答えた。その声色は、心なしか少しほっとしたようにも聴こえた。


「多分、明かりが無いので他の都市よりかはよく見えると思います」


月が一面を照らす。


この時は改めて、家の周りが田んぼなどの緑だらけで他に建物も全くないのを有難く思った。田んぼを挟んで遠く向かいに見える道路の先、その辺りからしか人家は無い。平らな所で良かった。…きっと、久々に月を眺める彼にとっても。


静かでいて、重いような軽いような、じっとした時間が流れた。遠い空を眺めていると、私の周りの時間までゆっくり流れているように感じる。遠くを見ようと視線を高く飛ばしていると同時に、ともすると圧されるような、大きな世界を目の当たりにして、自分が小さく低くなっていくような気もする。


「私の実家……をふと思い出した」


どこも同じだ、と彼は目元を緩めた。彼も、確か田舎の出だと言っていたっけ。おそらく、少しだけ笑んだのが雰囲気からもなんとなく伝わる。暗くて、それこそ目視は難しいけれど。辛うじて認められる横顔の、綺麗な天然石のような瞳がいつもより細められていて、きらりと光る部分の面積が少なくなっていたから、そう判断できた。


それから彼はまたいつもの瞳に戻って、空を凝視した。星の並びを一つ一つ確認しているような眼。

全て頭に入っているのかな。私には想像もつかない。夏の大三角形とか、いくつかの目立つ並びの星座ぐらいしかわからない。かみのけ座だとか小さな星座はどこにあるのだか覚えてもいない。小学校の時に貰った星座盤があった筈だけれど、部屋にあったっけ。


…彼が声ならぬ小さな音を喉から発したので、そちらを見た。…見ると、彼が軽く頭に手を添えようとしながら、ふらりと傾く所だった。すぐに立て直したが、咄嗟に私も手を出しそうになった。大丈夫ですか、と、その他に思いつかない台詞を吐いて。


こちらに来た直後など、相当身体が参っているようだったから今も本調子ではないのだろう。やっぱり誘うのは間違いだったかな、など自責の念に駆られるも、彼は満足そうだったからそれも複雑だった。

問題ない、という彼への心配は尽きないため、まずは戻りますか、と、半ば決定事項のようなことを提案すると、彼も何も言わず頷いた。


「まだ身体が、向こうから来る前の…、参ったままらしい。大分、こちらに来て楽にはなったが……」


家に入る間、彼はそう側の私にだけ伝わる声量で呟いた。それから、「外に出なければいつも通りだ。ただ外の空気がまだ慣れぬらしい」と、あまりに心配を顔に出している私を一瞥して付け加えた。逆に気を煩わせてしまっただろうか。


私の部屋に戻ってからも、彼はまだどこか月を見上げているようだった。星空に包まれているようだ、と思った。彼にはぼんやりした白いもやをいつも思わせられるが、深い青に小さな光る粒を乗せた背景も似合いそうだった。藍色も、その白と対照的でとても彼と調和するように思えた。ただ、白を彼が纏うのに対し、藍の方は、彼を包んで、自分のものにしてしまいそうだった。


またいつか、一緒に、今度は星をゆっくり見てもいいですか、…と、出過ぎたようなお願いをしてみたけれど、彼は「こちらからも願いたい」と思ったより好意的な返事をくれた。単純に、天体観測がしたいんだろうな。彼が相変わらず何を考えて居るのか、私にはその大部分が分からないままでも、その分からないことが逆に居心地の良さでもあるような気がした。分からないなりに隣にいるのが他の人にはない面白さでもあった。それは彼も同じかもしれない。得体のしれないもの同士、何故か一緒に一週間以上もなんとなく居られるのは、妙なぼんやりした霧を、お互い常に纏っているからかもしれなかった。

取り敢えず、一階に足を運んで、彼の分もココアを淹れてこようと思った。また飲めるか予想もつかないけれど。そして、部屋に帰ったらまたいなくなっているかもしれないけれど。


そういえば、彼が向こうへ戻る頻度が低くなってきている気もした。こちらに来たばかり、…二、三日の間は特に、すぐふと居なくなってしまったものだったが。彼の言う「安定」が、もしかしたら此方に傾いてきているのだろうか。そうだとすれば、…彼の為に、どうも複雑な気持ちにもなる。心の端で、どうしようもなく、偽りなく、それを嬉しいと思っている自分が居るのだから。


…情が移るのが早い。最初の時も思ったが、そればかりではなかった。純粋に、彼自身に興味深さを感じていたから。もっと彼の言葉の端を、この世界におとしてくれないだろうか。彼の紡ぐ言葉、記号、…それを見られたらいい、だなんてとんでもない思いが、私の頭を少しずつ占め始めていたのだった。

人が家にいるのに、確かに居心地がよかった。寧ろ幸せが上に重ねられたようだった。何故かははっきりしない。最早、はっきりしないことすらも肯定へと繋がっているようだったから、我ながらおかしなもので、なんだか笑えてきてしまう。幸せとは、確かなものほど輪郭のはっきりしない形を持っているのだろうか。

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