quiet talk(閑話休題)
それから、次の日の授業はぱあっと光に包まれたように明るく見えた。
我ながら単純なことだ。彼が、一日越しにふと戻ってきてくれた、それだけ。そのひとつの要素が、私にとってどんなに大きな、すてきな出来事だったろう。
昨日は彼に一通り家具や家電の使い方を教えて、一日学校で家を空けてもとりあえず大丈夫だろう、…くらいには説明できたはず。本棚にある本はすべて自由に読んで下さいと言ったら、「それなら幾ら時間があっても平気だ、気にしないでくれ」と返された。彼が学者で助かった。あんまり退屈されてしまうと気の毒だから。
それがあまりに自然な返し方だったので、彼がまだこちらの言語の読み書きに慣れて居ないという事に思い当たれなかったくらいだった。だが、…端々はつかめている様子だから、彼のことならきっと私なんかが何も言わなくともすぐ自分のものにしてしまうんだろうな、と、妙な信頼というか、安心感があった。
学校帰りに、そういえばシャンプーが切れそうだったことを思い出して、ドラッグストアに寄った。薬剤師さんの白衣でさえ、私にとっては彼を思い起こさせるよい要因だった。
『――やわらかいのに、芯がある。』
プロモーションだかCMだかのワンフレーズ。店内の小さな画面から静かに流れるその映像は、女性が髪をなびかせている他愛もないものだった。画面はすぐに次のプロモーションを映し出す。
その残像をぼう、と見つめながら、先ほどのフレーズにどこか覚えがある、とひとりで思う。何だったか…。
柔らかいのに、芯がある。
ふと思う。実に理想的な髪質である。そうではなく、…聴いた瞬間、先ほど見た瞬間、心にすぅ、としみるかの様な、或いはくさりと核心をつくような心地に見舞われた。
はて何であったか。何かのモデルであろうか。この違和感は一体、
家に戻ろうとする際、手作り菓子コーナーの一隅に置かれ並べられていたケーキスポンジが目に入った。なんとなしに、先ほどのキャッチコピーが頭にちらついた。
ただいま、と心で合図する。何も、口に出せばいいものを。しかしいつもこうなのである。
買い物してきた商品を片付けて、すっかり身も家の中の気分となる。気がゆる、と軽くなった気がした。ほんの少し、僅かだけれど。
たたた、とつい駆け足気味で二階に上がる。予定も無いが、…なんとなく、見たくなった。自分の部屋が。
否、自分の部屋の、…皆迄言わずとも自分には痛いほど分かっていた。そこに在ったやわらかな髪色。うたた寝をしている様だ。あの時のように、向きこそ違えども、彼はそこに居た。膝まである上着…白衣が、彼の身を優しく包んでいる。木洩れ日が降りそそぎまるで妖精の類を見ているかのような錯覚に陥る。くらりとした。
森の中に居るような心地となり、自らの部屋のはずが、彼の居所を訪れるような気分となってしまっていた。そろりと足を踏み入れる。
さらさらと光を反射する髪はやさしくもしっかりと彼に寄りそっていた。もう一歩、そろりと足を踏み入れる。ここでようやく、自分は其処が元々自分のテリトリーであったという事を思い返した。少し滑稽だった。
ふと、さぁと砂の吹くようにあのプロモーション映像の女優が頭をかすめる。
そしてあの台詞。
さぁぁ、と風が吹き、窓の外では木が踊る。それと同時に彼の上に注いでいた木漏れ日も揺れ踊る。
あぁ、そういう事か。簡単な、思っていたよりも近い答え。その事実に一人腑におちて気が抜けると同時に、ひどく納得した。
その台詞は、まるで彼自身をも表しているようだった。…そうだ。…仮に言葉にして表現するとするならば、こんな感じだろう。あぁ、
その金色は私と違ってとても柔らかそうだ。やわらかな色を反射しつつも、彼の存在をしっかりと支えているような頼もしさが、そこにはある。だから私は安心してしまう。彼の存在は、いつの間にか、確かに永遠を約束されたものだと、奇しくもそう認識させてしまう。…思い起こせば、そんな保障は何処にも無いのだった。しかし、再び彼の方に目を向けると、たしかにそこに目をつぶっていて、赤んぼうが背中を叩かれたように、私はふわりとだまされて安心させられてしまう。
昨日の今日で、何も彼に永遠を感じる論理なんて無いに等しいのだ。けれども、不安定でふよふよと浮いてしまいそうな彼は、同時に、…そうだからこそ、彼独特のしっかりとした固有の安定感を持って居るように見えた。
彼の手元に、閉じられた一冊の本があった。それは中学か高校時代に使って居た音楽の資料集。そしてなんとなしに自分の机に目を向けながら、…あぁ、彼専用の書き物を、…ペンでいいかなぁ…、それを一本、プレゼントしよう。万年筆の方が慣れて居そうだが、シャープペンシルを見たらどういうだろうか。服装から、なんとなしに昔の科学者を思わせるが、一体それが具体的にはいつなのか、私には見当もつかない。
…毛布を持ってきた方が良いかな。掛物がないと…。まだすっかり眠っている彼を横目に、きっと恐らく私の思う以上に気疲れしてしまっていただろう新たな訪問者の疲労に思いを馳せる。
そうして、私は彼が相変わらず食べ物自体を食べられないだろうことを、昨日のやり取りから半分推測しつつも、一応は一人分より少し多い夕飯の献立を考えるのだった。