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salvation

それからの時は夢の様に早く進んでいった。学校へ行っても講義の間も彼の居なくなってしまった事ばかり浮かんでしまう。あれは夢だったのではないか。けれど今更考えるとそちらの方が当たり前だった。

だが、あんなに時間としては短い間しかその存在を目にしていなかったのに、心が麻痺したようにぼうっとして、何かをすうっと失ってしまったかの様なぽっかりとした思いばかりを抱いていた。

いつもは楽しい筈の学問話が右から左へと流れる。…いや流れてすらいない。気付けばそれを受け入れてすら居なかった。思考の海は気付かぬ間に彼の事ばかりに覆われてしまっていたのだ。

…ただ、自然科学の講義だけは、辛うじて意識が向けられた。……この理論が好きなのだ。直観的に再認識した。


家に帰っても、自分のあの部屋に戻っても、やっぱり彼は居なかった。当たり前だ。…窓の鍵だってしっかりと閉まっていた。

ふと本棚に目を移す。あの本。彼が広げてみていた筈の本。あの日、再びこの部屋に戻ってきたらこの本だけがあのまま広げられていて、しかし側の彼だけが居なくなっていた。私は呆然としてこの本を静かに本棚に仕舞ったのだった。そのままだった。また彼が来たらページが開かれることがあるんだろうが、とても私には開く気になれなかった。


ふと足を進めて窓に歩み寄った。カーテンを開けて遠くを見つめた。一本のりんごの木。

…“私の故郷と同じだ”と、隣の彼が目を僅かに細めた穏やかな声色で言う、その光景が、…そういえばたった昨日の、光景が甦ってくるようだった。まるで遠い夢の話のような感覚だったからか、時間にしてみると昨日の事も、もう手が届かなくなってしまうのではないかという程の微かなものに感じる。


不意にかたり、と隣の部屋で音がした。

隣りは勿論誰も居ない筈だ。私は一人暮らしなのだから。いつだって一人で居る筈だ。

…ここで私にひとつの望みが芽生えた。もしかすると、…など夢の話だ。しかし、恐る恐るそれを確認しに行けたのは、私の、少なくとも陽的な気持ちがそれを後押ししていたからで。


本棚とオーディオに囲まれた彼の、あの日と…昨日と、ちっとも変わらない姿は、ドアを開けた私の手をつい固まらせてしまうのに十分だった。


部屋の奥であの日の様に足を伸ばして座って居る彼はゆるりと顔を上げて私の姿を認めると、一つゆっくりと瞬きをした。

気付いたら私は声を出していた。「あの、……大丈夫ですか。お腹はすきませんか」。

…ここまで言ってから、私は彼がものを食べられないかもしれないという事をまた忘れていたことに気付いた。そして心底呆れてしまった。だが、彼が「すまないが、また世話になるかもしれない」と紡いだのを見て、私は表情に出せない位に感極まって言葉が出なくなってしまった。


取り敢えず彼を隣の私の部屋に連れてきて、あの日と同じようにテーブルの前に向かい合って座った。

あの隣のオーディオ部屋は、音楽が好きで少し趣味が高じた、ちょっとした自分の理想の居場所だった。それと本棚。普段は手にしないようなちょっと重ための本も多い。たまにその部屋にこもって、哲学や史学や音楽の本に埋もれる高尚な時間に浸るのがこの上なく贅沢で。


正面の彼が言うに、あの日、私が一階に降りた後、記憶ははっきりとしていないが、本を読んでいたまま元の世界に戻ったようだった。気付いたら向こうの世界の机に突っ伏して寝た体勢で目を覚ましたと。その体勢と状況は、私の所に来る直前と全く同じ体勢で、恰もちょっとした夢を見ていたような、瞬時に意識が別世界に飛んだような感覚だったと。

…やっぱり彼にとってもこれは夢なのかもしれない。と、そこまで聞いた私はそう思わざるをえなかった。

だけれども、そんな彼がまた此処に来てくれたのは私に取って本当に喜ばしい様な事だった。つい先日まで、赤の他人だったのだけれど。妙に私の思考に入り、浸るような波長を、彼は持っていたのだ。それで私は彼の存在にもうひどく親しみを感じてしまっている。

あのまま彼が一生私の前に姿を見せる事がなかったのなら、私は生涯、ずっとその幻影を背負って生きていくことになっていただろうと、我が事ながらに笑ってしまうような深刻さでそうひしひしと感じたのだ。


「さっきずっと考えていたのだが……、私はまだ酷く不安定なのかもしれない。これは仮説だが、私はまだしっかと貴女の所に居られず、向こうの意識と不安定に振れているのだろう。だからあのように無意識的に向こうの私に戻っていた」


彼がいう所だと、そうして向こうで目を覚ました後は、すぐまたその姿勢のまま眠って…というより、意識を手放したらしい。其れ程向こうの彼は、…こちらに来る直前の彼は、疲弊していたのだった。一体何にそんなに参っているのか分からないけれど。しかしすぐまた眠れたという事は、相当に身体も内心も重たかったんだろう。私はちょっと心配になって、身体が痛いとか疲れたから何か飲みたいとかはありますかと、問うた。

彼は幸い、此処に来てからは体は重くない。と答えた。むしろ軽くなった、とでもいうような物言いだった。何か喉が渇いたでしょうか、と訊いて私は立ち上がろうとしたが、彼は答えなかった。いつものようにちょっと考えている。その仕草もそっくり彼の印象そのままだったので、私は、たったの昨日以来のその様子さえも微笑ましく思ってじっと待った。彼は目を合わせないままで、肯定のような雰囲気でほんのちょっとだけ首を縦に振った。


「丁度私も何か飲みたかった所ですから、持ってきますね。ココアで良いでしょうか」


彼はぽつんと見つめていたが、やがて「…あぁ」と小さく快諾してくれた。

私は久しぶりにお客さんに飲み物を出すような気がして、少し浮かれてしまいそうになるのを抑えて、それでも鼻唄を心の中だけで歌いながら階段を下りた。

ココアを注いでいる間、もしかしたら彼がまた帰ってしまうかもしれない、私が二階にまた戻ったら姿を再び決して居るかもしれない、とひとつの危惧を心に浮かべてしまい、急に不安に襲われた。だからココアを零さないように、そっと階段を急いで部屋に向かったのだが、…ドアを開けると彼は変わらず其処に居たから私は内心ほっと息を吐いてしまった。…いけないな、余りに情が移り過ぎている。でもどうしようもなかった。私は何時からこんなに感情的に弱くなったのだろうか、これは隠さねばならない感情だろうなと自分を戒めた。弱さをずっと私は背後に殺して生きてきたのだから。



どうぞ、とテーブルにお盆を置いて、彼の前と自分の前に、それぞれカップを差し出した。

彼はマグカップを手にすると静かにそれを見つめて、立ち上る湯気を覗き込むように芳香を感じ、それを口に運んだ。

思ったよりもあっさり飲んでくれたことにこちらの方が驚きながらも私は拍子抜けして嬉しさを隠しきれなかった。慌てて私もココアを口に運ぶ。

なんなら飲んでもらえなくともしょうがないと思っていたのだが、…彼は小さく一口、二口、三口も飲んだ。ココアの香りと味に接した途端、彼の雰囲気がほわりと揺らいだのを、拙いながらに私は直観した。彼は一旦マグカップを置いた。その表情は案外にその前より和らいでいて、それから「美味しいな、これは」とひとつ感想を零した。


私が何か考えたりする前に、彼は「……飲むのも大分…平気になってきた」、恐らく、慣れたのだろうか。と推測を述べた。私は、以前の彼が飲み物を口に出来なかったことを思い出して、それで彼の言葉で彼の以前の様子すべてに納得が行ったような気がした。

なんだか彼の言葉は、…彼の、純粋さを思わせるような白衣も相俟ってだろうか、妙に説得力を以て私にいちいち訴えかけた。そういえば科学者だか、自然を扱う者だとか、言ってたからそういう雰囲気を纏っていてもおかしくは無いなと思った。


時は午後三時だった。うつろに思えた学校の講義が嘘みたいに私は生彩を取り戻していたのだ。明日からの講義はまた息を吹き返したように興味深く聞こえるんだろう。我ながら単純だ、と呆れ、……それから、そうなると私の外出中の家は彼ひとりになってしまうんだろうな、と気付いた。

…家電の使い方はもう一度広く教えた方がいいだろうか、と早速次の至急課題が見つかってちょっと焦ったけれど、けれど嬉しい課題に変わり無かった。



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