sopor
それから彼に風呂などの大まかな説明をして、部屋の案内をしていたら気づけば夕飯どきのいい時間になっていた。
やっぱりシャワーなどを見て興味津々に驚いていたから、彼は違う世界から来た人らしい、という判断が私のうちで確乎となっていくのを感じた。
違う世界?…正確に言えば、なんというか、レトロな雰囲気を彼の全体から感じる。佇まい、喧噪とは無縁のような落着きよう、憧れを描かせるような、謂わば古き良き、時代を思わされる。それは彼が自然なウェーブを描く柔らかな長い髪を持っていて、それが全く違和感のないどころか、彼には当たり前のように思わされることからも感じることができた。
こんなにも、…この世界軸の、私の存在する世界の「場」には浮いているはずなのに、しっかと馴染んでいる。それは妙な気もするはずなのに、なぜか疑問よりも自然な納得の方が先に私を訪れる。彼の不思議さ、というのは、この点においても十分実感することができた。
彼は、私の蔵書が見たいと言った。だからもう一度私の部屋に、つまり最初に彼が訪れたあの部屋に戻ったわけで、私は拙い本棚…というと本に失礼かもしれないが、彼に「蔵書」と言わせるほどのものでもないような本棚を示し、自由にお読みください、と勧めた。
彼はまっすぐに食い入る様に見ながら、サブタイトルが英語で綴られている本に目を留め、それを取った。量子力学系の本だ。確か量子論と古典力学は相容れない点があるから、もしかして彼の納得いくような著述ではないかもしれない。…そんなことを思うと同時に、彼がこれを読んでいいのか、というような危惧もさっとよぎった。もし彼が本当に「昔の人間」だとして、これを知ることで何か支障が出るんじゃないか…そんな良く分からない難しい事を考え出して、袋小路に嵌ってしまう前に、彼がぱらぱらとその本を広げて眺めていた。ただいくらかの図があると目を留め、一心に何かを分析だか解析だかしようとしていた。目がそれを追って語っていた。…けれど、ぽつりと、何か区切りがついたように本を閉じ、またそれを元の位置に戻した。おそらく、言語があまりに違うことを確認したのだろう。私たちの言語は英語とはまず用いる文字が違うし手を付けようにも困るところがある…と私も思う。
そんな私の思考をよそに、彼はまた目に留まった本を次々にぱらぱら見ていっては、下の段の方の音楽教本を手にした。
彼はそれに今まで一番多くの時間を割いていた。…そうか、楽譜は世界も時代も共通の符号なのだ、…そう目の前の彼の様子で私は改めて、今さらながらに、楽譜と図の超越的言語性をしみじみと身に沁みさせていた。
彼は腕が疲れたのか、床にその大きめの教本を置いて自らも坐り、ぺら、とページをめくった。
じっとそのまま見ていたが、彼がちょっとした音を発したことで私の意識は聴覚に吸い込まれた。
…鼻歌を彼がうたっているようだった。私はそれが自分の聞き間違いなんじゃないかと一瞬耳を疑ったが、耳を澄ましてもその歌声は確かに存在していた。それと同時に彼の目線は楽譜を追っていた。…それを、読んでいる、ようだ。
私は彼の知識の枠の広さに一種畏れに似た感情を覚えた。私はその本を持っていながら全く、楽譜を読むという事が出来ない。いやできるにはできるのだけれど、すらすら一瞬で、知らない歌をも楽譜ひとつでメロディーを掴むようなことは出来なかった。専攻すれば少しは違っていたかもしれない。だが、生憎音楽教育は義務教育以来受けて来なかったのだった。
そのメロディはきっと彼が刻むことの無かったような類のものだっただろう。それは日本の童謡だった。その教本には一国に限らず、ドイツもフランスも、アメリカのメロディも多様に入っているのだが、偶然彼が今口ずさんでいたのは、北原白秋の詩で、…作曲は違ったが、それに乗せられた詩は紛れもなくかの文人のものであり、私の耳にもなじみ深いそれであった。
日本特有と言われるような半音階のメロディが私の耳を揺らす。頭が自然と拍に乗ってしまいそうな、安定したゆっくりした旋律。私は彼の鼻歌に、ここまで身を安らげることがあろうとは思わなかった。それも、つい先ほど初めて会話を交わした、初対面の相手が紡ぐものが。
彼は歌も愛しているようだった。自然科学、と彼は言ったが、それ同等に愛しているのではと、私は素人ながらに、他人ながらに思ったのであった。
…分からないけれども。でも彼は自然を愛する人らしい、純粋な目をして楽譜に意識をおとしているから、きっとそうなんじゃないかなぁと私は頼りない根拠に判断をのんきに委ねた。
それから彼は様々な本を取っては広げ、広げてはもとに戻し、を繰り返していたが、私はちょっとその間を計らって、部屋を後にして一階に下りて今日の夕飯を考えることにした。彼にはご自由に閲覧してもらって大丈夫ですので、と声を掛けて。彼はちょっとこっちを見て、ああ、どうも、といった調子で返事を返してくれた。あの様子だと、蔵書にもう少し耽っていたいのだろう。丁度良かったので、さっさと夕飯の支度を、…二人前、済ませよう、と、なんだかお客さんが来たようなへんな気持ちで、少なからずわくわくしながら階段を下りた。
…だが、彼は私が次にその二階の部屋を訪れた時には居なかった。ひやっとしてつい窓のカギを確認する。…閉まっていた。次に急いでとりあえず隣の部屋のドアを開ける。それからばたばたといろんなところを見て、恐る恐る浴室も覗いてみたのだが、誰もいなかった。彼が先ほどまで居た筈の私の部屋には本が広げられたままで、それがまるで次に彼にページを捲られるさだめの様な、厳然とした面持ちで床に置かれていた。だがいくら待てど、彼はこの日居なくなったままだった。
しかし彼の雰囲気がそこにいるような気がした。私はまだ夢を見ているのではないかとも思えたが、しかし彼の雰囲気は、まだそこに在ってもおかしくないような気がした。だから彼は一時の彷徨を得たのだと、何となく私には心の拠り所が出来た。
おかしなものだった。私ときたら、二人分の夕食のうち一人分を冷蔵庫にしまってから、彼がもしかしたら何も食べられない人なのではないかという今日得た可能性をいますっかり思い出したのだから。
私は眠るまで、どこかうわついた、ぼうっとした目をしていたと思う。それから自分では想像できないくらいに、案外に深い眠りにすぐいざなわれた。闇に、夜の静かな音に包まれるよな眠りだった。彼の鼻歌の音色が、遠くでぼんやりと思い起こされ、これが私の記憶の整理から因るものだと、これも他人事のように虚ろに自分を観測していたのだった。この観測者も、眠気によって正常に機能していないのだから、私の世界は観測結果に確信を持てないでいて当たり前の様な、存在疑義そのもののようなぽっかりとした曖昧さを映していた。




