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そのとき、カタン、と床が音を立てた。
それにつられて足元を見ると、一つの本だか手帳だか、手のひらサイズの古書が転がっている。見覚えの無いものなので、おそらく隣の訪問者さんがおとしたものだろう。
見ると、彼の白衣にはポケットがついている。そこに入っていたのかもしれない。彼は怪訝そうな顔をして、ひょいとそれを手に取るとぱらぱらとページをめくって見ていた。
ただの本ではなくて留め具が付いている。ぱちりと開けばその中には味のある変色した洋紙に、多分万年筆で走り書きされたようなインクのひしめき。
あまりじろじろみるのも忍びないので、内容までは把握できなかったけど、恐らく英語での筆記体かと思われた。
「貴方のですか?」
とひとこと。すると彼はその書物を見つめたまま、
「…私のものであったはずだ、が…」
と呟き、こめかみを押さえた。眉を寄せている。きっと何か思い出そうとしているのかもしれない。
「…何を言っているんだ私は…」
そう、書物に目を通せば通すほどそのこめかみの皺が寄せられていく。表情が硬くなる。記憶があいまいなようだから、以前の自分の筆記内容もきっと忘れられてしまっているんだろう。彼とは会ったばかりなのに、その様子に私はひどく気の毒な感を思い、少し視線を外した。
えー、て、 と、聞き取れたのはそれだけだったので意味が把握できなかったが、彼は何かの単語、…おそらくその手記に書いてある単語(きっと発音が分かっても私には意味の分からぬものだろう)…を呟いてパタン、とそれを閉じた。カチャリと留め具がとめられ、彼はポケットにそれを仕舞い込んだ。
「大丈夫ですか…?」
それしか言葉が出なかったので私はそっと声を掛けた。
彼はふと思考が途切れたようにこちらに気付いて「…あ、…ああ、」と生返事をした。
いつまでも永遠に続くと思われたこの時間も、止まっているわけじゃない。彼といると時間の流れがまるでひどくゆっくりと減速しているように、一切の焦りを乞わぬ不思議な、むしろ冗長でさえ思われてしまうほどの落ち着きを感じた。が、時計の針は確かに同じ速度で進んでいた。気づけば11時15分。まだ午前中である、という意識が私をのんきにさせていたが、もうすぐお昼だ。それが過ぎれば午後。お風呂に入って、夕ご飯も食べて。……ふと思う。彼は、一体どうするんだろう…?
考え込んで、ぱっと彼の方を見る。彼はぼんやりと窓の外を眺め続けていた。
あの、と呼びかけて、「少し休んだら、部屋を案内します」と告げた。
彼は顔をこちらに向けて、「そうしてくれ」と返事をした。
私は座布団を引っ張り出して、彼に座るように勧めた。テーブルでなくて申し訳ないが…。
学習机に彼だけ座らせるのも変かなと思い、そこは勧めなかった。そういえば下にダイニングテーブルがあったっけ…、そこだったら椅子もあるな、と思ったがその時にはもう彼は言葉に従い座布団に腰を落ち着けていたのでまた今度案内しようと思い直した。
「…ところで、…」
「はい」
「さっきの書物なのだが・・・」
彼は真剣そうな表情で緩く瞼をあげて先ほどの本棚を見た。そして、「…何か研究しているのか」と。
恐らく私の話だろうなと察し、その問いに自分ながら答える。まだ本格的に研究生ではないのでまだ広く教養を取っていますが、そのうち素粒子物理学が特に興味のある所です、と。
しょせん文学の専攻だけれど、理系にも興味はあった。特に素粒子の振る舞いは興味深い点があった。だから私は進んでその範囲も勉強している。難しいといったらそれまでだが、大学には専門家の人もいるし、そのひとから話を聴ける機会もあるので、比較的恵まれた環境に居るためなんとか理解はできている、…まあ一般教養の範囲でだが、…。
「物理学、」と言って彼は語尾を疑問形で返した。…私は数学と…自然哲学、…天体学…とぼちぼち専門を挙げて教えてくれた。・・・広い。理系の方ってそんな感じなのだろうか。そして、「纏め上げればみな自然哲学に属するようなものだ」、と列挙を切り上げた。
数学、かあ。割と避けてきた分野だ。苦手というか、なんだか受験によって嫌な気が決定づけられてしまったようなもので。それで文系に辛うじて進んだわけだ。きっと数学が出来たら理系も念頭にあったかもしれない、・・・でもそうだったらなんだか自分で無いような気がする。と情けない仮定を頭に浮かべた。数学っていうのはどうも私の感覚とは反したところで理論が展開されているような気がする。私は除け者のような気がする。一方文学は感覚的に、気持ち的に分かるからやさしい気がする。寄り添えるような、というよりも寄り添ってくれているような気持ちがしていた。
…きっと、かなしいかな、文系とかいうのはこういう事なんだろう。以前は、文理と分けるのがどうも理不尽に思え、私にも広い内容の事を一遍教えてくれと願ったものだったが。けど、今となれば科学を授業で学ばねばならないとされたらきっときつかったと思う。規定観念を定めるにつれ、私はだんだん気づけば保守的に、排他的になっていったのだった。それは過去の私は一切望んでいないことだったろうに。
その思いを、彼と出会ったおかげで久しぶりにもう一度感じ返すことができたのは思わぬ幸運だったかもしれない。私は、生まれ持ったすぐれた好奇心を忘れかけていたのだ。それを辛うじて、普段の乏しい研究の中で継続してはいたのだが、あの、以前のような広く、敵知らずの好奇心はとうに、昔に、置き忘れてきてしまっていたのだ。
でも、それも、彼によって呼び起こされた。・・・教養がある人というのは、雰囲気ですら周りの人に高貴な印象を与える。私はその雰囲気に、はっと自分を省みたのであった。
それだけでも、彼が豊かな見識と好奇心を持っていることが十分感覚的に分かることができた。
理系の人って、そうなんだろうか。いつも研究対象に興味を持って、既存の知識に飽き足らずに自らその範囲を広げていくことに恐れをなさず、前に前へと進んでいく。その姿は、一方こわがりな私には英雄のように、素敵に思えた。遠い存在のようだった。手を伸ばせど所詮他人であって到底それには為りえないように思える。
ふと、彼の控えめな視線で我にかえった。いけない、返答を忘れていた。つい咄嗟に、「それで、白衣をきていらっしゃるんですね」と返す。
彼はひとつ間を置いてから、自らの纏う羽織物に目を移し、裾をちょいと持ち上げて、それから私の方をもう一度見て、「……ハクイ、とは、これか」と訊いた。
はい、と不思議に思いつつもそう肯定すると、彼は「…道理で、軽いと思った」と呟いてから、私に向かって「これは貴女の所の服飾か」と問う。
私は返答に一瞬困ったのち、とりあえず、研究者が、薬品などで服を汚さないように着るものです、と、合っているかいないかよく分からない返答を述べる。自信はないのだが、多分そんな感じ。
そもそも、彼がもともと着ていたものではないのか。…よく見ると、妙にその白衣だけ真っ白に、まるで新品のように綺麗だった。そこからかすかに覗くシャツは着慣れた様子で少しよれている。汚れているわけではないが、年季が少々入っている、と言えば良いのだろうか。
改めて見ると、その白衣はやはり、彼のぼんやりとした白いもやのような、この世の人でないような雰囲気を一層増して映えさせている。白、とは、なるほど神聖な感のするものだと思った。
成程、と彼は頷いて、少しばかりその白衣を自分で観察していた。腕をあげたりおろしたりしながら納得のいくまで確かめる。一通りそれが終わった後、ふむ、と、何か分かったようにまた頷いた。何を思っているのか私にはよく分からないけど。でも心なしか満足しているような表情に見える。
その白衣を纏った彼は、また、本棚の方を見た。
その姿を私はなんとなく見つめる。…おかしな話だが、彼の白衣は羽衣のように思えた。それを脱いだら、彼は元居た場所へと返されてしまうのでは――、と。
…ここで、私は改めて、もうすでに彼に情を移していることに気が付かされた。一瞬であれ、羽衣を脱がないでほしいと願ってしまったのだった。我ながら、なんてあきれた事だろう。しかし、彼の不思議な、尋常ならない雰囲気は、それをも正当化してしまうような特別な印象を私に与えていたのであった。
彼の事は私はまだ少しも知らない。だけれども、知らないからこそ更に高尚に、未知への畏怖のようなものを抱えて私は彼を見ているのだった。
そんな私の事はつゆ知らず、一通りの本の背表紙を眺め終わった彼は、ふっと目を細めて向きを正面へと直した。
私と向かい合う姿勢を取った彼は、そっと先程のロイヤルブレンドの入ったカップに目線を移した。テーブルの上のそれは、辛うじて湯気をかすかに残している。