outside
彼はゆらりと立ち上がって歩みをこちらに、というよりは私の後ろにあるドアの方に進めてきた。
どうかしましたか、と言葉を発しようとするより先に、私はひとつその彼の目的に思い当った。
「外をご覧になりますか」
そう言葉を切り替えて、私はそれを言うのと同時に立ち上がった。彼の後ろについてゆくような形になる。
彼は少し急いでいるようだった。早く状況と真実を把握しておこうとしているのかもしれない、そう思い私はもう何も言わずに、白衣を着たまま柔らかい動きで階段を下りる彼の後に続いてそっと一階へと降りた。
一階には階段を下りて少しのところに鏡がある。ちょうど私の等身大程の鏡。長方形のごく普通のものだった。しかし彼はそれを視界に入れて、通り過ぎようとした途端にふと二度見をした。
彼はふと自らの頬を触る。まるで自分の容態をよく理解できていないようにかすかに髪に触れたりその髪色を確かめたりしたのち、少し目を見開いて「まだ…」と呟いた。もしかしたら別の言葉だったかもしれない。けれども私が聞き取れたのは確かにその二文字だけだった。
何が……、と、その真意を私が測りかねているうちに彼はひとり、小さく納得したかのような息を漏らした。微笑していたようだった。
一応、どうしましたかと訊いたが「いや、なんでもない」で返されてしまった。まあ、そのうち分かるだろうと妙に楽観的な思考の私はとりあえず彼を玄関まで案内することにした。
ここが田舎であることを改めて思い出し、「特に何もありませんが」、と一言。 それからドアを開ける。
…あれ、そういえば、彼、靴を履いたままだった…!
思わず反射的に廊下に目をやる。……目に見える汚れは無い。混乱と一安心が混ざって一瞬の恐怖に襲われていたのはつかの間、ふと側にいる彼の不思議そうな様子で我に返る。
私はドアノブに手を掛けたのち、ふと彼の靴が目に入ってからそのまま手を止めたままだった。それゆえまだドアは開いていない。気持ちが逸っているのか彼はそのドアの向こうを覘こうとするような動作をみせる。
しかしその前にひとつ、この家、…というよりかは国家、の一般のしきたりとして、靴の事を指摘する。
彼は少し驚いたように後ろに下がり、…下がり、また家の廊下の方へ立ってしまった。
しかしやはり、足跡はそこに付かない。彼は一体どんな機能性の…、と思いつつふと答えも出無さそうな問いを考えていると、彼は私より深く考え込んで、すぐに実験に移した。いきなりドアを開けて外に出たかと思うと勢いよく家に戻ってきて廊下に足跡を付ける様に歩き回ったのだ。
確かに外には出たはずだが、小さな砂でさえ彼が歩いた後の廊下には残る気配すらない。駄目押しに彼は座って自分の靴を取ってそれを軽く廊下に打ち付けていた。
やめてくれえ、と情けない心境を吐露する前に、全く傷すらついていないその場所が目に入りつい呆気にとられる。
「あの」、と取りあえず彼に声を掛ける。
彼はふと気づいたように私の方に顔を向けて座ったまま言った。「どうやら私は汚れないらしい」
結局この小さな謎は解けないままだったが、一応、私の気分的に、彼には外出時だけは別の靴を履いてもらう事にした。といってもゆるいサンダルだけれども。大きさ的には丁度良かった。少々彼のクラシカルな装いとはいまいちミスマッチな風があるかもしれないけれど、そこには目を瞑るしかない。
彼は改めて家を出ようとして、少し戸惑った。
「…二階から、外を見渡すことはできまいか」
私の部屋には、彼があの時飛び降りた窓がある。それを言うと彼は、其処から見渡したい、と言って手を掛けていたドアをキィと小さく閉めた。
靴を履きかえてまた家へあがる。…そういえば、彼は外に慣れていないのかもしれないな。とぼんやり、まだ雑多でごたごたとしている夢見がちな頭でそう思った。
二階へ上がり、上がったところにもまた鏡があるのだが、今度は彼はそこでもふと立ち止まった。さっき下の階に降りるときは特に気にかけてはいなかったのにな。その時は目に入らなかったのだろう。
彼は鏡の中の自分をじっ、と凝視してから、小さく身動きを取ってその鏡の像が自分から出たものであることを粛々と確認していた。腕を軽くほぐすように振り、何か自分でひと段落つけたように「ふむ、」というような動作をとり、また私の部屋へと戻って来た。
「ここから見えますね」
と、私は窓の方を示す。ほとんど畑であるが。私はここが気に入っている。一人で唄を口遊んでも誰も聴く人はいない。畑の緑と、その中にぽつんと一つ、中くらいの木が立っている。もしかして、私がここに居てさほど淋しくはないのは、その一つの木の所為だろうか。大学へは少々遠く、免許を持っていて良かったとは思う。自転車では雨の日に少しやっかいだろう。
ぼーっとそんな取りとめのない空想に耽っていると、彼はそちらの窓の方へと歩み寄った。
「ほう、落ち着いた所だな」
私は彼の後ろの方に居たので、その表情は窺う事が出来なかった。そこで私は窓の横にある机の側に歩を進めた。横から彼の顔をそっと覗き込むと、彼は遠くを見ていた。
窓、開けますか、とそっと訊く。肯定の意を見てから、私はいつものように窓を開けた。
カンカン、と質だかを確認するように彼は窓枠を軽くたたく。それから身を少し乗り出しながら、先ほど彼の方のを開けて今度は私の方にあるガラス質の窓の方に手を伸ばした。珍しいのだろうか。・・・イングランド、だっけ。…そこに私は行った事が無いので分からないけれど、こんなに窓が珍しいものなのかなあ。障子でもなければ、居たって普通のものだけれど。それに気になって、「何かありましたか」と問うと、彼はまた正面の景色に意識を戻しながら、いや、なんでもない、とやんわり姿勢を直した。
「向こうのあれは、確かりんごの木です」
前にある畑よりももっと遠く、林のほうを指しながら私は言った。
地主さんがいるんですが、たまにそのりんごを少し、分けてもらえるんです。と、とくに重要でもない話を付け足した。あのリンゴ、美味しいんだよなあ。機会があったら彼に分けようか、とも思う。もし、食べられたら、の話だけど。もしその時が来ればいいな。彼の横でひとり、そっと、私は来るかも分からぬ将来に小さな期待を描いた。
「此処は緑が多いな」
「私の実家と同じだ」、と、言いながら彼はこちらに目を向けた。外の光をやわらかに受けた髪が彼のその動作と共に静かに彼に寄り添う。
そうなんですか。―――私は少々戸惑って言を返した。音を立てずにとても上品に、ほんの少しだけ笑みを描いた彼の目は、近くでないと分からない程度にほんとうに僅か細められていた。
故郷を想う人の目は、やはりひどく無意識にであれ他には生み出せぬ特殊な種類の優しさを含ませる。
だとしたら、やはり、彼は、きっと、其処の、彼の居場所であった所へ帰りたいのだろうか?
ふと気づいて時計を見ればもう十一時を回っていた。穏やかな休日のひと時だった。
改めて彼の方に意識を向けると、やはり、彼は白くて清浄な、よく分からないけれど透明な雰囲気を纏っていて、ぼんやりと私の目に映って見えた。それなのに、何故私はそれにまったく疑問を抱かず彼の存在をここまでに自然に受け入れてしまっているのか、その問いを自らに課す気にはならなかった。彼の存在は、この部屋であまりにも浮いているはずなのに、同時にあまりにも自然に溶け込んでこの空気に紛れてしまうような、儚く不思議な空間を形成していたのだった。