横恋慕くん2~曇り、たまに嘘~
「……ねえ、ねえってば!」
「………あ?」
物思いから意識を戻すと、怒った顔で俺を睨む少女が目の前にいた。
鎖骨あたりまで伸びた髪を無造作に横に一つに束ね、大きな目のせいで実際の年齢よりも2、3コは下に見えるそいつは、思い切り頬を膨らませていた。そのせいでさらに年齢が下に見えるのだが、それを教えてやるつもりは毛頭なかった。
「『あ?』じゃない!さっきから呼んでるのに、無視しないでよ!家庭教師のくせに」
「家庭教師じゃねえ、ボランティアだ。金は貰ってないからな」
「ああ言えばこう言う…ホント、可愛くない」
「おまえに可愛いって言われても嬉しくない」
間髪入れずにそう返してやると、そいつは更に眉間の皺を深くした。そしてため息をつき、諦めたように首を横に振った。その動作が、なんとなくムカつく。
そいつは気を取り直すように問題集のとある問題を指さし、「ここがわかんないんだけど」と俺に聞いてきた。その問題を見て、その解答の出し方をできるだけ丁寧にわかりやすいように心がけて説明すると、「あ、そうなんだ」とそいつは呟き、問題を解いていく。
今日はこいつの家庭教師の一日目。毎週日曜日が家庭教師をする日、ということになっていた。
場所はこいつの家。ここはこいつの部屋だ。黄緑色で統一された部屋はとても落ち着いた雰囲気だ。ところどころに年頃の女子らしい小物が置かれていて、こいつも女なんだなあ、としみじみと思ってしまう。
「夏鈴ちゃん、勉強はかどっている?」
「お姉ちゃん」
そいつはやって来た陽奈子さんを見ると慌てて立ち上がり、陽奈子さんが手に持っているお盆を受け取った。コップが2つとお菓子が乗っているようだ。
陽奈子さんは俺を見てにっこり笑って、「どう、夏鈴ちゃんの勉強の進み具合は?」と聞いてきた。その笑顔を見るのが、辛い。だけどその辛さを胸の奥に押し込み、俺も微笑みながら陽奈子さんの質問に答える。
「思ってたよりもいいかな」
「そう。ふふ、夏鈴ちゃんは頑張り屋さんだから…涼くん、夏鈴ちゃんのことよろしくね」
「ああ。みっちり頭に叩きこんでやる」
「それは勘弁してよ…」
本当に参った、という声でそいつは呟いた。だがその呟きは無視することに決めた。
こいつの数学が壊滅的、という言葉は嘘ではなかった。下手をすれば中1レベルの問題から躓く。ただ、丁寧に教えてやれば理解はするので、ただ単に今までの数学の教師の教え方がこいつに合わなかっただけなのだろう、と俺は推測している。
なんにせよ、教え甲斐がある。久しぶりに面白そうだ、と俺は感じていた。
「ふふ。二人とも仲良くなって良かったわ」
「「いや仲良くないから」」
陽奈子さんの言葉に俺たちは同時に同じ言葉を返してしまい、睨み合う。なんか前にもあったなこんなこと。
しかしそいつはハッとした顔をし、慌てて笑顔を作り俺に向けた。その笑顔にゾワリと感じてしまったのは、さっきまでずっと不機嫌そうな顔をしていて、それに見慣れてしまったからに違いない。
「まあ、仲良くないの?」
「え?なに言ってるの、お姉ちゃん。私たち仲良しだよ!ね、リョウくん?」
「あ、ああ…」
そいつの迫力のある笑顔に俺は思わず頷いてしまう。
「私はリョウくんともっと仲良くなりたいなぁ、なんて思ってるんだけどね」
にこにことそんなことを言うそいつに、鳥肌が立った。なんだそれ。おまえそんなキャラじゃねえだろ、というツッコミを辛うじて飲み込んだ。
「まあ、そうなの?あ、もしかして夏鈴ちゃん…」
「やだ、お姉ちゃん。言わないでよ」
恥ずかしそうに陽奈子さんを見つめるそいつ。演技だとはわかっているけど、たいしたものである。
陽奈子さんはそんなそいつの様子に、物知り顔で頷き、とても嬉しそうに微笑む。そして何かを思い出した顔をして、そいつと俺の顔を交互に見た。
「ああ、そうだ。この間ね、映画のチケットを二枚貰ったの。ホラー映画なんだけど、私も拓海もホラーは苦手で…良かったら二人で観に行って?あとで夏鈴ちゃんにチケットを渡すわ」
「え?いいの?わあい、ありがとう、お姉ちゃん」
「ふふ、いいのよ。お勉強の邪魔をしてごめんなさいね。涼くん、ゆっくりしていってね」
そう言って陽奈子さんが部屋から出て行くと、そいつははあ、と大きなため息を漏らし、陽奈子さんから受け取ったお盆を持って座った。
「一時、休憩」と言って、机の上に広げられていたノートや参考書、問題集を隅に寄せ、コップとお菓子を机に並べた。お菓子は近くの店で買ったと思われる、シュークリームだった。
「映画なんて観に行かねえからな?」
「わかってますよーだ。友達と行くからいいもん」
そう言いながらそいつはコップとシュークリームを俺の前に並べて「どうぞ」と先ほどの笑顔はどこに行った、と言いたくなるような無愛想な顔で言った。
可愛くない女、と思いながら目の前に置かれたコップを手に取り、中に入った烏龍茶を飲む。
そいつもコップを両手に持ってちびちびと烏龍茶を口に含み、少し考えるようにじっとコップを見ていたと思ったら、突然顔を上げて俺を見つめた。
「ねえ。いつから付き合おうか?」
俺は思わず飲んでいた烏龍茶を吹き出しそうになった。吹き出すのはなんとか耐えたが、気管支に烏龍茶が入ってしまい、ゴホゴホと咳きこむ。そいつは迷惑そうな顔をして俺を見つめていた。まるで唾飛ばさないでよ、と言わんばかりの表情だ。
(「大丈夫?」って聞くくらいの親切心を見せろよ!)
このガサツ女め、と内心で毒づきながら、なんとか咳を収めて俺はそいつを睨んだ。
「なに突然言い出すんだよ」
「なんか勘違いしてない?」
「あ?勘違い?あれだろ、“恋人ごっこ”の話をしてんだろ?」
「そう。なんだ、わかってるんじゃん」
そいつは少し小馬鹿にしたように笑う。年下の女にそんな風に笑われるのは屈辱だ。それに中1レベルの数学ですら躓くようなヤツに馬鹿にされる謂れはない。
「いきなり付き合いましたーって、変でしょ?だからどれくらい経った頃に付き合いだしたってことにした方がいいかな、って」
「いつでもいいんじゃねえの?なんなら今日からにでもしとくか?」
「今日からはさすがに怪しいでしょ」
「陽奈子さんなら納得すんだろ。実は俺がおまえに一目惚れしたってことにすれば。陽奈子さん、おまえのこと滅茶苦茶可愛がってるもんな?」
そう言ってからかってやると、そいつはとても不本意そうな顔をした。だけど悪い気はしないらしく「まあね」と少し誇らしそうだ。
陽奈子さんのことを重度のシスコンだと思っていたが、こいつも少しシスコンが入っているようだ。さすが姉妹。
「でも、今日からはやめておく。映画観に行ってからにするよ。だから、口裏合わせよろしくね?」
「ああ、わかった」
俺が素直に頷くとそいつは満足そうな顔をして、シュークリームに手を伸ばす。そしてシュークリームをとても美味しそうに食べ始めた。本当に美味しそうなので俺もシュークリームを食べてみることにした。
……甘い。とても甘いけれど、皮がサックリとしていて美味しかった。
「さあて、糖分補給したし、数学頑張ろうかなー」
「頭に詰め込んでやるから覚悟しとけ」
「ええー?」
そいつは少し泣きそうな顔をして俺を見た。その表情に、少し溜飲が下がった。
土曜日の朝、俺は目を覚まし、伸びをする。ベッドから出て歯を磨いて顔を洗って部屋に戻った時、スマホがブルブルと震えていることに気付く。
マナーモードにしたままだったな、と思い出してスマホを手に取る。スマホを手に取り画面を見れば「ガサツ女」と表示されていた。明日、急用でもできたのだろうか、と思いつつ俺は電話に出た。
「……はい」
『もしもし?ピアスおと…リョウくん?』
今、こいつピアス男って言いかけたよな?
眉を少し寄せながらも、大人な俺はそれを聞かなかったフリをしてやり、「ああ、そうだけど」と答えた。
『あのね…今日、ヒマ?』
「あ?」
『…怒んないでよ…。前にお姉ちゃんから映画のチケット貰ったでしょ?その期限が今日なの。本当なら友達と行こうと思ってたんだけど、お姉ちゃんが映画の後にリョウくんとご飯食べに行こうって言い出して…お願い、今日一日私に付き合って!』
「なんで俺が…」
『本当にお願い!一人でお姉ちゃんたちと一緒にご飯とか無理なの…』
らしくなく弱気な態度に、俺はため息を漏らす。気持ちはわからなくもない。
「わかったよ…で、俺はどうすればいいんだ?」
『ありがとう…。そうだなあ、10時に駅前で待ち合わせしよう』
「わかった、10時に駅前だな」
『うん。ぜったい、来てね!』
「わかってるって」
『……ごめんね。じゃあ、またあとで』
通話が終了し、面倒くさいことになった…と俺は頭を掻く。そして着替えるために服を適当に服を取り出し着替えて1階に下りると、兄さんがリビングにいた。
「おはよう、涼」
「おはよう、兄さん」
兄さんに挨拶をしながら台所を漁り、パンと適当なスープを引っ張り出す。そしてインスタントコーヒーを淹れてテーブルに座り、もぐもぐとパンを咀嚼する。
それを見ていた兄さんがにこにことしながら俺に話しかけてきた。
「今日、夏鈴ちゃんとデートなんだって?」
デート。
そうか、これも一応デートになるのか…なんて驚きながら、そんなことは表情に出さずに「まあな」と答えてパンを食べ続ける。
「そうか。涼が夏鈴ちゃんとなあ…」
「んだよ。文句あるわけ?」
「いや。俺も年取ったなあ、って思っただけだよ。楽しんでおいで」
「……ああ」
「ああ、そうだ。そのあと陽奈子が4人でご飯食べに行くって張り切ってたから、映画終わってひと段落したら連絡してくれ」
「ん、わかった」
スープを飲み干し、ちらりと時計を見れば9時30分を回ろうとしていた。そろそろ行かないと待ち合わせに遅れる。
コーヒーを飲み終わり、食器を片づけたあと二階の自室に戻り、スマホと財布をジーンズのポケットに突っ込んで兄さんに行ってくると声を掛けて家を出る。
今日の天気は曇り。ちょっと陰鬱な天気だ。
(俺とあいつの気持ちと同じ、か…)
そんなことを考えながら歩いていると駅前に着いたのは待ち合わせの5分前だった。
あいつはもう来ているかな、と辺りを見渡してみるが、あいつの姿は見当たらない。一応念のためにスマホを確認してみたけど、あいつからの連絡はなし。
まだ来てないと思った俺は、できるだけわかりやすそうな場所に立ち、スマホをいじってゲームを始めた。今流行りのパズルゲームだ。綺麗にコンボが決まると気持ちいし、ガチャでレアなキャラクターが出た時のあの感動。そのキャラクターを育てるのもまた楽しい。
いつの間にかゲームに夢中になっていた俺がふと顔をあげると、とても不機嫌そうな顔をしたそいつが腕を組んで睨んでいた。
「…さっきから呼びかけてるのに、無視するってどうなの?」
「…わりぃ。気づかなかった」
ゲームに夢中になっていて、という言い訳は飲み込む。それを言えば余計に不機嫌になるような気がした。
「……もう、いい。急に誘ったのはこっちだし、今回は大目に見てあげる」
「そりゃどうも」
罰の悪い思いをしながら、俺はスマホをジーンズのポケットにしまい、改めてそいつを見た。
いつもよりも少し気合の入った格好をしていた。いつもは無造作に一つにまとめている髪は下ろされて緩く巻かれていて、春らしい花柄のワンピースにジーンズのジャケットを着て黒のタイツにショートブーツを合わせた、いかにもデートです、という感じの服装だ。少しだけど化粧もしているんじゃないだろうか。
こんな格好もするんだな、とまじまじと見ていたら「なに、文句あんの?」とガンつけられた。見ているだけでそんなことを言われるなんて理不尽だ。
「…しょうがないでしょ。今日は一応“デート”ってことになっているんだし、それなりの格好しなきゃお姉ちゃんに怪しまれちゃう」
「俺は別に何も言ってないけど?」
そう言ってみるとそいつは顔をしかめて俺を睨んだのち、フンと顔を背けた。
「行こう。早くしないと間に合わなくなっちゃう」
俺が返事をする前にそいつはすたすたと歩き出す。
やれやれと俺はそいつの追い、隣に並ぶ。するとそいつは俺をチラリと一瞥してすぐに目線を前方に戻す。
「おまえもそういう格好してればちゃんと“女の子”に見えるぞ」
ぶっきらぼうに俺がそう言うと、そいつは目を見開いて俺を見つめ、足を止める。
それに気づいた俺も立ち止まり振り返って見れば、そいつは口をパクパクと鯉のように動かしていた。その顔は、ほんの少し赤い。
「……バカ」
そいつはそう言って俺の背中を殴り、すたすたと歩いていった。
なんなんだよ、まったく。本当に女ってめんどうくさい。
俺は殴られた背中をさすりつつ、そいつの後を追った。