横恋慕くん1~雨、一時涙~
俺には8つ上の兄がいる。
この兄がまたできる男で、弟の俺から見ても格好良く、自慢の兄貴だった。
昔はよく兄に纏わりついて、サッカーを教えて貰ったり、勉強を教えて貰ったりした。兄弟仲は悪くなかった。
だけど、俺はいつの頃からか、兄さんに酷く嫉妬をするようになった。
きっかけは中学生の頃。
中学に上がって少し経った頃、口が悪い俺は上級生に目を付けられ嫌味や暴力を振るわれることが多々あった。しかし負けず嫌いな俺はしっかりやり返し、さらに上級生との軋轢を生むという悪循環に陥っていた。
上級生に目を付けられた俺には関わりたくないと、友人たちも次第に離れていった。
俺は悪くない。悪くないのになぜこんな目に遭わなきゃならない? 理不尽だ。
その日も俺は上級生に呼び出しをくらい、散々殴られた。もちろん殴り返してやったけど。
あちこちあざだらけで、口は切れるし顔に少し青あざはできるし、本当に最悪だった。
さらに最悪なことに、雨まで降って来た。傘なんて持ってないのに。
怪我をしたところが雨に濡れて滲みる。いてえ。早く帰らなきゃ、と思うが予想外にダメージがあるらしく、上手く動かない。
びしょ濡れになって帰るか。水も滴るいい男、なんて思いながらフラフラ歩いていると、突然雨が止んだ。
違う、誰かが傘をさしてくれたんだ。
「ねえ、君、大丈夫?怪我してるんじゃない?」
呼びかけられてゆっくりと振り向けば、そこには俺を心配そうに見つめる綺麗な人が俺に傘を差し伸べていた。
この時の俺は若干人間不信に陥っていて、その人の優しさも素直に受け取れないガキだった。
「うっせえな。あんたには関係ないだろ。ほっとけよ」
「ほっとけないわ。だって君、辛そうだもの。すぐそこに私の働いている喫茶店があるの。雨宿りに寄っていかない?」
「はぁ?」
「ね、少しだけ。ほら行こう?」
「あ、おい…俺は行くなんて…」
その人は俺の話をまったく聞かず、俺の腕を引っ張り歩き出す。なぜかその手を振り払うことができず、俺はその人に引っ張られるまま歩いた。
その人に引っ張られるがままにやって来たのは、落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。受験生と思われる人、大学生でレポートをやっていると思われる人、仕事を持ち込みノートパソコンに向き合っている人があちこちにいた。なにかを集中してやるのに持ってこいの場所なのだろう。
俺は奥の方の空いている席に座らされ、半ば呆然としていると、店の奥に入っていったその人がやって来て、柔らかいタオルを差し出した。
「はい。これで濡れたところを拭いて?ちょっと待っててね、今、温かいものを持ってくるから」
「別にいらな……って人の話を聞けよ!」
俺が言い終わる前にその人は俺にタオルを押し付け、店の奥に入ってしまった。押し付けられたタオルとその人が去っていった方を交互に見つめ、ため息をついた。人の話は最後まで聞いてほしい。
諦めに似た境地になり、俺は濡れた髪をわしゃわしゃと無造作に拭いた。べったりと顔に張り付いていた髪から水分が抜けて心なしか頭が軽くなったような気がした。
ほっと一息をついた時、目の前に湯気の立っているティーカップが差し出された。
「はい、どうぞ。温かいうちに飲んで?」
「……頼んでない」
「いいから。お姉さんの奢りよ。遠慮しないで飲んで」
しつこく勧めてくるその人に根負けした俺は、ティーカップに口をつける。
ほっとする優しい味。ハーブティーか何かだろうか。なんだか心が落ち着く。
「落ち着いたかしら?」
「これ…」
「これね、このお店の自慢のハーブディーなの。ほっとするでしょう?」
「…ああ」
ふふ、良かった、とその人はとても優しく微笑んだ。その笑顔がとても綺麗で、俺は思わず視線を逸らす。
ドッドッと鳴り始めた心臓。
俺はこの心臓の音を誤魔化すようにその人に話しかける。
「あのさ、これいくら?」
「いいのよ、私の奢りだから。気にしないで」
「でも」
「どうしても気が済まないなら、またここに来て?私、この時間に大体いるから」
「それでいいわけ?」
「ええ、もちろん。私、陽奈子というの。君の名前は?」
「俺は…涼」
「涼くん、ね。覚えた。雨も上がったみたいだし、今のうちに帰った方がいいわ」
「ああ……えっと、ヒナコさん?だっけ」
「ええ」
「いろいろ、ありがとな。それと、八つ当たりしてごめん」
俺がそう謝ると、陽奈子さんは「気にしなくていいのよ」と言う。
陽奈子さんはいい人だ。俺は会って数時間もしない人をそう感じた。
「じゃあ、帰る。また来る」
「ええ。気を付けてね。来るのを待っているわ」
陽奈子さんはそう言って店の外まで俺を見送ってくれた。
俺は一人で家路へつく。ほんの少し前まで荒れていた気持ちが嘘のように静まり、とても心が穏やかだった。
また陽奈子さんに逢いたい、と思うのに時間は懸からなかった。
それから俺は気の向くままに陽奈子さんのバイト先に顔を出し、陽奈子さんと何気ない会話を楽しんだ。
陽奈子さんには妹がいて、その妹がとても可愛いらしい。普段は聞き上手な陽奈子さんだけど、妹の話になると止まらなくなる。どれほど妹が可愛いかを言葉を変えて語りつくす。陽奈子さんは結構重度なシスコンだった。
だけど俺はそんな陽奈子さんの話を聞くのが嫌いじゃなかった。むしろ、楽しいとさえ感じていた。
俺の陽奈子さんに対する気持ちが恋だと気づくのにも、時間は懸からなかった。
陽奈子さんのバイト先に足繁く通い、この恋をどんどんと膨らませていった。
そんな日々が2年ほど続いたある日、俺はいつものように陽奈子さんのバイト先に顔を出した。
すっかり顔なじみになったその店に行くと、店主さんが優しく俺を迎えてくれた。
「やあ、涼くん、いらっしゃい。陽奈子ちゃんはまだ来てないんだ。もう少ししたら来ると思うから、いつもの席で待っていてくれ」
「わかった。じいさん、いつものやつ頼む」
「いつものね。わかった」
そう言って店主さんは店の奥に入っていく。俺はそんな店主さんに背を向け、定位置の席に座る。
そしてすこしぼんやりと外を眺めていると、いつもの優しい陽奈子さんの声が聞こえて視線を移した。
「涼くん、いらっしゃい。お待たせしちゃったかしら?」
「別に?陽奈子さんを待っていたわけじゃないし。ここのハーブティーを飲みに来ただけ」
「もう。涼くんったら意地悪ね。はい、ご注文のハーブティーです。たんと召し上がれ」
「どうも」
俺は陽奈子さんからハーブティーを受け取り、ハーブティーを口に含む。いつ飲んでも優しい味のするお茶だ。ほっとする。
それから陽奈子さんと取り留めのない話をしていると、カラン、と誰かお客さんが来た音がして、陽奈子さんが入口の方を振り向く。
いつもならどんな客が入って来ても気にしないのだが、その時はなぜだが気になって俺も陽奈子さんと一緒に入口の方を見た。恐らく、虫の知らせ、というやつだったんだろう。
店に入って来たのは、俺の良く知る人物だった。
「いらっしゃいませ…あら?」
「陽奈子。ちょっと近くに来たら寄ってみたんだ」
「まあ、そうなの」
陽奈子さんはいつもよりも少し嬉しそうにその人と話をしていた。
いつもと違う陽奈子さんの様子。俺は嫌な予感がした。
「兄さん…陽奈子さんと知り合いだったのか?」
「―――涼?」
兄さんは今初めて俺に気付いたようで、俺を見て目を丸くした。
そして陽奈子さんを見て、納得したように頷いた。
「陽奈子が言ってた中学生の子っていうのは涼のことだったのか…」
「もしかして、涼くんが拓海の弟くん?」
「うん、そうなんだ」
「まあ。すごい偶然ね。世間って狭いのね」
「みたいだなあ」
兄さんと陽奈子さんの会話を俺は呆然として聞いていた。
とても親密そうな雰囲気。まさか。いや、でも…。
「涼、改めて紹介するよ。彼女は沢田陽奈子。俺の彼女なんだ」
「ふふ。お兄さんのお世話になってます。改めてよろしくね、涼くん」
―――聞きたくなった、そんなこと。
そう口から零れ出そうなのをなんとか堪えて、俺は何気ない風を装って「へえ、そうだったんだ。兄さんがお世話になってます」と軽口を叩く。
本当は胸が痛くて、痛くて堪らない。だけど、そんな胸のうちを二人に悟られたくなくて、俺は精一杯平気なフリをした。
それから、俺はどうやって店を出て家に帰ったのか、あまり覚えていない。
よく考えればわかることだった。
陽奈子さんは美人で、気立ても良い。彼氏がいないはずがない。なのに、勝手に彼氏なんていないと思い込んで、あわよくば俺の彼女になってほしいだなんて、そんなことを夢見ていた。
(馬鹿みたいだ、俺…よりにもよって、兄さんの彼女に恋するとか…馬鹿だろ)
自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
俺はそれからさりげなく兄さんと陽奈子さんから距離を置いた。ちょうど中3だったこともあり、受験を言い訳にすることができた。
なんとか志望校に合格したはいいものの、もやもやした思いが消えず、髪を染めたりピアスをしてみたりした。だけど胸のもやもやは中々消えてくれることはなかった。