庭師
世間では今、プランツテロの嵐が吹き荒れていた。中でも凶悪なのは人間の体に寄生した末に、際限なく周囲に種を振りまく植物である。
これらには様々な名前が付けられていた。謳っている効能も多岐に渡るが、行き着く先は一つである。すなわち人体の植物化と宿主の死。寄生された場合は初期の段階であれば草下しを服用し、中期から末期にかけては外科手術に頼るしかない。
しかし末期ともなれば外科手術を受けても成功する確率は低い。そのまま意識が戻らず植物状態から死を迎えることも稀ではなかった。
プランツテロの首謀者はP真理教団であるとの巷説が蔓延していた。それに対して目立った動きを見せない警察屋と行政屋に非難が集まっているのが現状だ。しかし警察屋がなにもしていなかったかと言えばそうではない。この頃にはもうだいぶ外堀を埋めていた。
うかつに手が出せなかったのはP真理教団が半ば宗教団体として機能している面もある。多くの庭で信仰の自由が保障されている中、碌な証拠もなく捜査に乗り出せば宗教弾圧との謗りを免れないからだ。
P真理教団の実質的なリーダーであるP教祖の脱税疑惑を皮切りに、警察屋は行政屋と共に強制捜査に踏み切ることになる。いわゆる別件逮捕というもので、所得税の申告漏れを理由にP教祖を拘束し取調べをするという段取りだ。あまり褒められた手段ではないが、四の五の言っている暇はない。既に両の手では足りないほどの人間がプランツテロの犠牲になっているのだ。
しかし強制捜査は空振りに終わる。P教祖が根城にしていたP真理教団の支部はもぬけの殻であったどころか、プランツトラップが仕掛けられていたために警察屋の幾人かが救急搬送される事態となった。
「恐らく、いや確実に教団内では積極的な品種改良が行われています。それも人間にとって非常に害悪な種を生み出している……」
植物のサンプルを渡された庭師はじっとそれを観察する。鋭い葉は研ぎ上げられた包丁のようである。茎にはびっしりと羽毛にも似た細かな棘が生えている。これは触れると簡単に落ちて突き刺さる。おまけに棘の先には顕微鏡を使わなければ見えないほど小さな「返し」がついているという念の入りようだ。
教団の脱会者からもたらされた情報によれば、これはP五号の仮称を持つ攻撃性植物とのことである。「踊り子草」と呼ばれる空気の振動を受けてくねくねと体を揺らす性質を持つだけの無害な種を改良し、凶悪なプランツトラップに仕上げたものとのことだ。
「教団の解体は急務だ」
「だからって単なる植木屋の庭師を頼るのはどうかしているぜ」
植木屋の庭にやって来た警察屋の幹部に向かって師匠が嫌そうな顔をする。その横でプランツトラップの破片を眺める庭師の顔にはいつも通り表情がない。まるで石膏のように分厚い皮の下に心を押し込めている。
乗り気でない師匠に警察屋の幹部は眉をぴくりとも動かさず言葉を続けた。
「あなた方の下に依頼が来ているのは知っています」
「ああ。P真理教団のダミーカンパニーからな」
依頼者の裏にP真理教団がいることは既に師匠のネットワークから看破されていた。むしろ、向こうもそれをあまり隠していない風であったとは師匠の感触である。先日の集団誘拐未遂の一件といい、P真理教団は確実に庭師を狙ってきている。庭師にもそれは理解できた。
しかしなぜ自身が狙われているのかは見当がつかない。確かに己の職務――つまり、植物の剪定――はプランツテロを展開するP真理教団にとって邪魔であろう。だが庭師は一人しかいないのだ。人海戦術を用いれば庭師を封じるなど赤子の手をひねるよりも簡単なことである。そこが庭師には解せなかった。
そうしているあいだにも師匠と警察屋の幹部との話は平行線をたどる。
「警察屋なら警察屋らしくさっさと逮捕してくれよ」
「そうしたいのは山々なのですが、情けないことに我々の内部に内通者がいることがわかっています」
「じゃあそいつも挙げるんだな」
「彼らは人体に寄生する植物を操っている。どういう方法を用いているのかは知りませんがね。内通者を押さえても、また新たな内通社を仕立て上げるだけですよ」
「だからってうちを頼らないでくれるか? こちとら善良な民間人なんだぜ」
「善良な民間人ならば捜査に協力して頂きたい」
「善良な民間人を危険に晒すなよ」
なぜここまで話が停滞しているかと言えば、主因は庭師にあった。
P真理教団はどうにかして庭師を誘き出したいという思惑があるのは確かである。ならばそれを逆手にとって庭師を囮にすればP真理教団の構成員を検挙することが出来る。それが警察屋の幹部が持ってきた案件なのだ。
それに真っ先に反発したのが師匠で、先ほどからあれやこれやと手を変え品を変え警察屋の幹部の要求を突っぱねている。
庭師はといえば、もとから饒舌な類ではないのと、師匠がしゃべりっぱなしで口を挟む暇がないのとで、来客があってから沈黙していた。
しかしずっとそうしてもいられない。
「師匠、警察屋の言うとおり協力すべきだと思います」
「……お前なあ」
呆れたといった顔で師匠が庭師を見る。その顔にはかすかな苛立ちがあった。だがなぜかようなまでに師匠が嫌がるのか、庭師には皆目見当がつかない。
仮に、仮に可愛い弟子が危険に晒されるのが嫌だとかいう理由にしたって、ここまで粘るのは飽きっぽい師匠には珍しいことである。
「俺が、散々、断ってるのが、わからないのか?」
一言一言区切って強調するほどに、師匠は庭師がこの件を了承するのが嫌なようだ。
だが庭師は折れない。P真理教団の実態を押さえられていない現状、警察屋の提示した囮捜査がもっとも効果的な案に思えたからだ。
他人にあまり興味のない庭師とて、テロリズムに心を痛める程度の良心はある。それに植物が使われているというのも、これを飯の種にしている身としてはあまり嬉しくない状況であった。
「師匠がどうしてそんなに嫌がるのかがわかりません」
「お前は仕事をしていっぱしの大人気取りかもしれないが、まだ子供なんだぞ。それでこいつらは子供を囮にすると言いやがる。普通はこんなもん了承しねえよ」
「……師匠の口から『普通』について語られる日が来るとは思いませんでした」
庭師が茶化すように言うと途端に師匠の機嫌は悪くなる。それでもなお、折れる気はないようなのが頑なである。
子供のように頬を膨らませて仏頂面を作る師匠に、庭師は懐から特注製のハサミを取り出した。
「私にはこれがあるから大丈夫です」
丁寧に磨き上げられた銀製のハサミの表面に、師匠の顔が映る。ハサミを認めた師匠はどういうわけだか表情をゆるめた。そしてがしがしと頭を掻いてから「あ゛ーっ」と形容しがたい唸り声を上げる。
「わかった、仕方ない。お前は一度言ったら聞かないからな」
「それじゃあ、行って来ますね」
「おい待て。ちょっとは格好つけさせる間を与えろ」
すぐさま師匠に背を向け、警察屋の幹部へ向き直った庭師の肩を掴んで言う。
「そのハサミだけは絶対に手放すなよ」
「それくらいわかっています」
「だといいんだけどな」
どこか含みのある師匠の言葉に庭師は小首を傾げるが、彼の口から答えを聞くことは出来なかった。
そんな朝の出来事を思い出しながら、庭師は鉛のように重い頭を上げる。
囮捜査は途中までは上手く行っていた。P真理教団のダミーカンパニーへと誘き出された体を装い、庭師は山間に立つコンクリート製の建物へと入った。そしてそこにP真理教団の構成員と思しき人間がいるのを確認し、カバンに入れたスマートフォンから合図を送った。そして武装した警察屋が建物に雪崩れ込み……。
「お目覚めかな庭師の子供よ」
芝居がかった朗々たる声が響く。瞼を開けば眩い光が瞳孔に差し込み、思わず目を瞑ってしまう。そろそろと双眸を開けば、そこは巨大な温室型の庭園のようだった。
水が流れる音と空気を循環させるファンの音が静かに響いている。土にしっかりと根を張った植物たちは、どれも庭師には見たことがない品種である。それらは一様に凶悪な武器を兼ね備えていた。刃物のような葉や、拷問具のような鞭状の枝。棘の並ぶ茎や幹。どれもこれもが他者を攻撃する意思に溢れた構造をしていた。
そしてその庭園の中心部に緑色のガーデンテーブルと二組のチェアが置いてあり、片方に禿頭の男が座っていた。年のころは四五十代といったところか。えくぼの浮かぶ頬は持ち上げられ、唇は三日月の形を描いている。
「どなたですか?」
庭師は自身が拘束されていないことに安堵しつつ上半身を起こして問うた。先ほどまでの四方をコンクリートに囲まれた部屋から一変した状況にまだ頭がついていけていない。
「わたしはP真理教団の教祖と呼ばれている」
いきなりの大物だ。まずいことになったと庭師は思った。嘘にしろそうでないにしろ、見知らぬ場所へ連れて来られている今の状況はよろしくないのは確かだ。脱出路を探さんと視線をさまよわせる庭師に、教祖は嘲笑うような息を吐いた。
「そう急ぐでない。これから話をしよう」
「あなたが教団の教祖である、というのが事実でしたら話すことなどなにもありませんよ」
庭師のけんもほろろな対応にも教祖は余裕の表情だ。
「嘆かわしいな庭師の子よ。君が我が教団の真理を理解できないとは……」
「理解できませんね。したくもないし、する予定もありません」
「庭師の子よ。君は利用されているのだ。あの忌々しい守銭奴の植木屋に」
庭師は懐へ手をやる。そこに特注製のハサミの存在を確認して安心した。師匠の言葉があるからというわけではないが、今この唯一の武器を失うのは痛いどころでは済まされない。
教祖の口から師匠の話まで出てきて庭師は首を傾げる。どうにも教祖は植木屋である師匠や、庭師のことを一方的に知っているようだ。先ほどから一貫して庭師のことを「庭師の子」という呼び方をしているのも気になった。
「プランツ! プラネッツ! ピース! パーフェクト!」
突然の叫びに庭師は内心で動揺する。やはりあまり言葉の通じない人間なのかもしれない。そう思った庭師は次に教祖から発せられた言葉に固まった。
「わたしには植物を意のままにする力がある。そう、庭師の力だ」
「……あなたも、庭師?」
庭師は今までに他の庭師を見たことがなかったし、聞いたこともなかった。師匠の生業である植木屋は一つではないから、植木屋と呼ばれる人間はたくさんいる。警察屋や行政屋は言わずもがな。しかし、庭師は他の庭師を知らなかった。師匠もなにも言わないから、自分以外に庭師はいないのだと勝手にそう思っていたのだ。
「庭師には、そんな力はない」かろうじてそれだけ言葉にする。
「いいや、あるんだ。君はあの金に汚い植木屋に騙されているだけなんだよ」
「……私の師をこれ以上侮辱しないで頂きたい」
いつも師匠は厄介な相手だと認識している庭師にも、彼に対して尊敬の念はある。それと恩も。身寄りのない庭師を引き取って育ててくれたのはほかでもない師匠なのだ。そうであるから教祖の無礼な言葉が庭師には我慢ならなかった。
「いいや、あれは侮蔑に値する人間だ。なぜならわたしの大いなる計画を理解しないばかりか、こうして君を洗脳し、わたしの邪魔をしてくるのだからね」
「私は洗脳などされていません」
「ならば! ならばなぜ君は自分の家族のことについて知らない?!」
「私に家族はいません」
「おお、可哀想に! いや、しかし忘れていた方がよいのかもしれんな……」
「回りくどい真似を。言いたいことがあるのなら言え」
右手で顔を覆うという大げさな演技をしていた教祖は、手のひらをどけて満面の笑みを見せた。その顔は邪悪というよりほかにない。見開かれた目には明らかな狂気が宿っていた。
そんな教祖の姿に庭師は無意識のうちに恐怖を覚える。
いや、恐怖を思い起こしていた。
「君の家族はわたしがそっくり始末した」
庭師は息が詰まるような感覚を覚えた。同時に脳裏の端でちかちかとなにかが光り始める。それは古い記憶だ。心の奥底へ押し留めて蓋をした、幼き日の肖像。
「庭師には植物を操り世界を支配する力がある。そしてその力を使うことは力を持つ者の義務だ。だというのに君の家族はわたしの考えに賛同してはくれなかった。それどころかわたしを庭師から除名するとまで言い出したのだ。なんと愚かで冒涜的な選択か! ……わたしはみずからの手で鉄槌を下したのだ。君の家が最後だった。そして最後に残ったのも君だった。あの金に汚い植木屋がやって来さえしなければすべての始末は十年前に終わったものを……」
庭師は庭師の一族に生まれた。庭師とは植物の剪定を生業としている者たちのことだ。鍛冶屋に作らせた特注製のハサミを振るい、植物が美しく健康に育つよう悪しき部分を断ち切る。そうして彼らは生活をしていた。
そして当然の帰結として植物への膨大な知識を蓄えていた一族は、剪定以外の仕事も請け負い始める。それが植物の品種改良だった。初心者でも育てやすい強い品種や、効率的に薬効のある成分を生成する品種、見た目にも楽しめる美しい品種……。様々な植物が庭師たちの手で生み出された。
そんな中で邪心を持ち始めたのが今や教祖と呼ばれるこの男である。環境保護を謳った団体を率いている彼であるが、横道にそれた理由は金だ。浪費癖の激しさで生家から勘当寸前までに追い込まれていたこの男は、親戚の庭師たちが手がけている事業に目をつけた。
かといって、その事業を丸々盗み出せる技量は男にはない。そもそも庭師としての腕前もお粗末なものだった。それゆえに彼は生家から見限られそうになっていたのだ。
そうして彼が思いついた恐るべき方法。
「みんなしんじゃった」
庭師がそう言うと、まだあどけなさの抜け切らない顔をした師匠が言う。
「じゃあ俺のところに来い」
庭師は懐に仕舞っていたハサミを引き抜く。その顔は歪んでいた。憎悪のためか、怒りのためか、はてまた悲しみのためか。それは庭師自身にもわからなかった。
「やはり愚かな血を受け継いでいるか……仕方のない。今この場で血祭りに上げ、これを反旗の標とする!」
男はテーブルに立てかけてあった錫杖のような棒を手に取るや、それで周囲に植わっていた木々を打ち据え始める。まるでその痛みに身をくねらせるように植物たちは枝葉を擦り合わせてざわめき始めた。
庭師の細く鋭い切れ長の目が植物たちを見据える。男は一通り棒で植物たちを叩き終えると庭園の奥へと逃げ出した。
「待て!」
その背を追って庭師も駆け出す。しかし当然ながらその前に凶暴化した植物たちが立ちはだかった。だがそれも真の庭師の敵ではない。いくら品種改良を施そうとも庭師はそれらを的確に育て上げていく知識を集積していった。似た系統の植物から栽培方法を模索し、より良い生育法を編み出していった。そんな庭師としての血が彼女には流れている。
一瞥しただけで改良前の品種を見抜いた庭師は、植物の枝葉による攻撃を軽やかな身のこなしでかわして行く。そして自身の体と枝葉が交差するその直前で、ハサミを閃かせる。両刃が激しく開閉する金属音が当たりに響き渡るや、たちまちのうちに枝葉は塵屑と化して宙を舞う。
たとえ隙間なく棘を生やした太い枝を持つ木が身をくねらせても、庭師は動揺を見せなかった。羽毛のように並ぶ枝を切り落とし、枝を根元から切断して行く。小気味のいい音が温室庭園を震わせた。
攻撃では庭師が圧倒していたが、それでも植物に事欠かない庭園内では不利であることに変わりはなかった。
知らず知らずのうちに後ろの方へと追い詰められていた庭師は、一か八かの賭けに出んと植物たちの懐へ飛び込もうとした。
「おーい! そのままでいろよ!」
聞きなれた声が庭師の鼓膜を打つ。それと同時に破裂音が響き渡ったかと思うと、庭園の中心部から灰色の煙が立ち昇り始めた。
「師匠?!」
「おい! こっちだこっち!」
周囲に視線をめぐらせれば、庭園の通路から師匠が顔を覗かせている。植物に襲われては危ないと庭師は慌てて師匠の下へと向かった。途中でそれを阻むかのように木々が向かってきたが、それも庭師のハサミの前で塵と消える。
「師匠……どうしてここに。いえ、ここは……」
「お前一人で行かせるわけないだろ。あ、あのハゲなら向こうで寝てるからあとで回収してもらおう」
「はあ……そうですか」
不敵な笑みを浮かべる師匠を見上げたまま、事態についていけない庭師は曖昧な返事しか出来ない。
そうこうしているあいだにも庭園内に煙が充満し始めた。おまけに生木の燃えるぱちぱちという音と共に焦げ臭いにおいまで漂って来た。
「師匠、なにをしたんですか?」
「爆竹をちょっとな……細工して投げたんだよ。見事に燃え移ったなこりゃ。早く逃げるぞ」
「出口は」
「俺が入って来れたんだからあるよ。……行くぞ」
師匠は庭師の腕を取ると庭園の奥まった場所にある非常扉へと向かった。こんな場所にも律儀に非常扉など作っているのだなと、庭師は妙なところで感心をした。
背後で木々が燃える音がする。それは植物の悲鳴のようでもあり、庭師にはかつての己の心の声にも聞こえた。それが、燃えて行く。なにもかもが燃えて行く。庭師の気持ちを引き連れて、植物たちは燃えて行った。
*
P真理教団の教祖は丸焦げになる前に救急隊によって助け出された。
師匠の説明によれば、あの日警察屋が突入したときに先手を打たれて催涙ガスを撒かれた上、庭師は後頭部を殴打されてあの地下にあった――そう、あそこは地下だったのだ――庭園に連れて行かれてああいうことになったらしい。
残された警察屋もプランツトラップに苦戦していたが、あらかじめ待機していた師匠が持ち込んだ騎士草などの、比較的コントロールしやすい攻撃性を持つ植物のお陰でどうにかあの場を制圧することが出来たようだ。
そして連れ去られた庭師を探しているうちにあの庭園にたどり着き、なにやら見覚えのある禿頭の男が逃げてきたので腹に一発かましてやった――というのが師匠の言い分である。
そして教祖はまず脱税で逮捕され、後に脱会者たちの証言によってテロ防止法が適用され再逮捕された。まだまだ残党は残ってはいるものの、幹部のほとんども逮捕されるか自首するかの道を選んだため、P真理教団は事実上壊滅した。
師匠はほとんどすべてを知っていた。P真理教団の教祖の素性も、彼が十年前の件では心神喪失として裁かれなかったことも、教団の設立目的が自然保護をダシにした金儲けだということも。その件については警察屋からかなり絞られたらしいが師匠は平気そうである。
「どうして言わなかったんですか?」
「面倒くさいから」
そう言われてしまっては、もうなにも聞くまいという心境にもなるというものだ。
P真理教団の目的は金儲けであったわけだが、その末期の行動は明らかに常軌を逸している。師匠は自分で作り上げた幻想に飲み込まれてしまったのだろうと言っていた。事実、教祖の男には精神鑑定を受けさせることが検討されているらしい。
もはや庭師から語れるのは伝聞口調の事実ばかりで、この件が自分の手元から完全に離れてしまっていることを感じた。
「師匠、あのですね」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
「あ? どうした?」
「言っていなかったと思いまして」
「なんだ、ようやく弟子としての自覚が出てきたか? もっと俺を崇め讃えてもいいんだぞ」
「まあ、考えておきます」
植木屋の庭には二人の影。若い男の植木屋と、若い女の庭師が二人並んでいる。その光景が変わる時が訪れるのは、しばらく先の話だろう。
(了)