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誘惑

 その日の朝の庭師は平素通りであった。いつもの仏頂面を顔に掲げて涼しい顔をしている。親しからぬ者が見れば不機嫌だと勘違いされそうな面のまま、庭師は師匠の言いつけ通り顧客の下へと足を向けた。


 この顧客が植木屋に依頼をするのは初めてのことだったが、近頃のプランツテロの流行も相俟って新たな依頼は山のように雪崩れ込んでくる。そうであるから此度の依頼もその大いなる山の一角に過ぎないと高を括っていた。


 その日の夕方の庭師は様子がおかしかった。例の新規の顧客の元から帰ってきてからずっと心ここにあらずといった様子である。親しからぬ者からすればいつもとなにが違うのやらさっぱりわからないだろう。しかしなんだかんだと長い付き合いの師匠には違いが見抜けた。


 庭師はいつもきびきびと無駄のない動きをしているというのに、帰って来てからはふらふらと心許ない。動きも緩慢で精彩を欠いている。一度ならず二度までも、客から預かっている花を萼の下から切り落としかけた。これは異常である。庭師はそのような下手を打つような人間ではないのだ。


 常から完璧とはいかないまでも限りなくそれに近くあろうとする庭師である。しかし彼女も生類であるからして、調子のよからぬ時もあるであろう。師匠たる植木屋は風邪でも引いたかと庭師を見るが、そういった「調子の悪さ」は感じられなかった。


 ならば直接聞くまで。もともと回りくどいやり口など、自身の心を面白せしめる以外には進んでやろうなどとは思わぬ御仁だ。相も変わらずいつものきりりとした表情をわずかに崩した庭師に声をかけた。


「どうしたんだ? 調子悪いのか?」

「……いいえ。そんなことはありません」


 平素の庭師であればここで嫌味の一つでも飛ばしてきそうなものだが、今日の彼女はやけにしおらしい。おしとやかな女は好みの方の師匠であるが、そんなものは弟子には求めていないので、このような態度をとられてもただただ気味の悪いだけである。


「そんなことないだろ」

「いいえ」

「絶対どっか悪いだろ。どっか怪我したか?」


 そう言って庭師の体に触れるや否や、師匠の手の甲にぴりりとした痛みが走る。遅れて空気を打つ音が響き渡った。


「なんでもないです」


 師匠の手を叩き落とした庭師は、感情のこもっていない双眸で彼を一瞥する。そこにはいつもの呆れたような調子も、非難するような冷ややかさもない。ただ人形の目に嵌められたガラス玉のような瞳に師匠を映すのみである。


 庭師はいつも爪を切りそろえているからそれが皮膚に引っかかることはなかったものの、師匠の手の甲は見事に赤く腫れてしまった。こんな風に庭師が暴力的な行動に出るのは今までになかった。いや、師匠の手を振り払うくらいは庭師だってする。しかしこんな風に暴力ともいえるようなものを振るうのは初めてのことだったのだ。


 いよいよもっておかしい。師匠はそう確信するが、庭師の胡桃の実のように固く閉じてしまった心を切り広げるのは至難の業だろう。原因に心当たりがあるといえば今日、出向いてもらった新しい顧客のことである。しかし顧客の方になにか問うわけにもいかないので、師匠は庭師が動くのを待つことにした。


 動かなければ病院屋にでも無理やり連れて行くか、呼び立てるだけである。あの特注のハサミさえ持ち出されなければ、まだ十代の庭師を取り押さえるなど簡単なことなのだ。


 方針が決まればあとは機が熟すのを待つだけである。師匠はカウンターに戻ると特に意味もなく台帳をめくる。その目は庭師の方にしっかりと流されていた。


 それから店を閉めるまで庭師の奇行は続いたが、植木屋にとって致命的な間違いを犯すことはなかった。様子がおかしくともそこは流石と言うべきか。いつも通り手順良くとはいかないまでも、庭師はきっちりと仕事を仕上げて来た。


「ご苦労さん」


 温室の鍵を閉めてきた庭師は師匠の声に大人しく首を前に傾ける。相変わらず動きはふわふわとしていて心許なかった。


 終業になっても庭師がこの植木屋から出て行くことはない。彼女はここで暮らしているのだ。仕事が終われば店の離れにあるログハウス――格安の払い下げ品を師匠が買って来た物――に帰ってベッドに潜り込む。そして朝が来ればまた店の方に出て来て仕事をする。これが庭師の一日である。


 師匠は庭師の家――というか小屋の横にある、カントリー・ハウスで暮らしている。そうであるから庭師の動きを監視するにはぴったりの距離感だと師匠は算段をつけていた。


「あとは庭の門扉だけだな」


 鍵の束を持って師匠は植木屋を出る。店の戸締りは庭師の仕事だが、(せかい)の戸締りは持ち主(オーナー)たる師匠の仕事であった。


 普段ならばここで「それではまた明日」などと言って庭師は早々にログハウスへ引き上げてしまうのだが、今日は違った。


「ん?」


 なぜか師匠の後ろについて行くのだ。師匠はぐるっと庭師のいる方向へ振り返り、その顔をまじまじと眺める。鉄面皮は相変わらずだが、どこか酩酊しているような様子もある。やはりおかしいのは確実であるが、どうしておかしいのかまではわからない。


「どうした? 寂しいのか?」


 師匠は茶化してみるが庭師からは反応がない。なんだか調子を崩されてしまった師匠は、珍しく気まずい思いをした。早くもとに戻ってくれと思いつつ庭師の顔を覗き込む。適度に日に焼けた肌と、黒い睫毛に縁取られた、これまた黒い瞳が近づく。凛々しい少年めいた容姿の庭師であるが、ちゃんとみれば女なのだということがよくわかる。


 昔はそれこそ男だか女だかわからない、やせっぽっちの子供だったのになあと、師匠は感慨深く思った。


「やっぱり調子悪いんだろ」

「いいえ」

「さっきからそればっかりだな」

「いいえ」

「…………」


 師匠はどうしたものかと唸る。しかし考えるのもいい加減面倒くさくなり、庭師を置いて庭の門扉へと向かった。そんな師匠の後を庭師はカルガモのヒナのごとく追いかける。そんな様子がちょっとおかしくて師匠は噴き出しそうになった。


 しかしそんな余裕も門扉の前までのこと。庭師は急に師匠を追い抜いたかと思うや、日の暮れて薄暗くなった門の外へ突っ込むように走って行ってしまったのだ。


「おい!」


 綺麗に洗濯されたカッターシャツの白が、あっという間に夕闇の向こう側へと消えてしまう。師匠の声は庭師の背に当たっただろうが、彼女がそれを気にする様子は一切なかった。


 一人置いてけぼりを食らった師匠はその場に立ち尽くす。しかしすぐに我に返って庭師を追う。


 門扉を出て庭の外に出れば、足元を浮遊感が襲う。ぶよぶよとしたゼリーを踏みしめるような感覚の道へと歩を進め、師匠は(せかい)の外へと出た。眼前に広がる数多の(せかい)を俯瞰すれば、そう遠くない場所で庭師の姿を認める。そのまま軽く飛び立つように庭師のいる(せかい)へと降り立った。


 そこは自由庭と呼ばれる種類の庭の中でも自由解放庭という、早い話が共用の公園のような場であった。(せかい)の軸が離れていないこともあって、師匠の(せかい)と昼夜はそう変わらない。こちらの方が若い番号に位置している分、夜が多少深まっているくらいの違いだ。


 師匠がきょろきょろと視線をさまよわせれば、白いカッターシャツとサスペンダーの背はすぐに見つかる。千鳥足とはいかないまでも、やはりその足取りはどこか怪しげであった。


 庭師のまるで底に泥濘のある水溜りを行くかのごとき足運びに気をとられていたが、こんなことをしているのは彼女だけではないことに気づく。いつの間にやらどこから来たのか、両の手では数え切れないほどの人間が(せかい)に集まって来ていた。


「こりゃなんだ。祭りでも始まるってのか?」


 言っておいてそうではないことくらい師匠にもわかっている。ここへ来た者の顔は一様に表情が失われ、瞳はガラス玉のごとく感情がない。そんな様の人間が十人以上いるのだ。これを見ればいかに鈍感な者と言えども事態をある程度は察せられるというものである。


「おい、おい!」


 緩慢な動きの庭師に追いつくのは容易かった。そうして庭師の肩を掴み揺すぶってみるのだが、先ほどとは違って反応がない。


 今度は庭師のまろい頬をぺちぺちと叩いてみる。瞳すら動くことはなかった。


「困った」


 なにかに操られているという確信は得られたものの、ここからどうすればいいのやら皆目見当がつかない。ここらで一つ解決の糸口となるイベントでも起こってくれれば……などと馬鹿げた考えを抱く師匠の鼻をいやに甘い臭いがつく。


「おっと、これか?」


 臭いの元へと向かってみれば、木立に隠れるように毒々しい色をした巨大な花が咲いている。そしてその花のふちには睫毛のような突起物がついていた。


 臭いはやけに甘ったるく、嗅いでいると鼻が馬鹿になりそうなほど強い臭気を発していた。嗅ぎ続けていれば頭がおかしくなってしまいそうなくらいである。


 そしてここにやって来た人間はどうもこの花を目指して歩いているようだった。


「まずいな」


 具体的になにがどうまずいかはわからない。わからないが、わからないなりに今の状況がよろしくないとは判じれる。


 目の前にある花は植木屋ですら見たことがないものだった。新種か、そうでなければ品種改良したものだろう。この(せかい)の固有種ではないことは確かで、そうなればだれかがなんらかの思惑を持ってこの花を植えたことは明白である。


 そしてその思惑には悪意があるだろう。不特定多数の人間を集めてなにをしたいのかはわからないが、悪戯にしては笑えるものではない。


「困った」


 もう一度言う。植木屋には庭師のような植物を剪定する能力はない。あることにはあるが、庭師のそれより数十分も劣っているのだ。素人にしては出来る方だが、玄人にしてはお粗末といった腕前である。


 庭師が依頼に出向くときに携帯している特注のハサミは、いつもは師匠が預かっている。だからあのどんなに太い樹皮をも貫く銀色のハサミは今師匠の手にあった。


「仕方ない――」


 師匠が懐からハサミを引き抜こうとした瞬間、なにか光るものが彼に向かって飛んで来た。


「うおっと! ……あっぶね! なんだ?!」


 振り返れば深緑の布を頭から被り、月桂樹の冠を頭上に戴いた年齢性別不詳の人間が立っている。はっきりいってこの場にいるどの人間よりも異常だ。どこから見ても立派な不審者である。


 そして師匠の足元から少し離れた場所では、火の点けられた爆竹が危なっかしく踊っていた。これを投げられたのだと認識した瞬間、思ったよりもまずい事態なのかもしれないと師匠は理解する。


「P! P! P! P! P!」


 緑衣の人物はそんな奇声を発して師匠に向かって突進する。


「なんだその古い着信音みたいな声は!」


 慌てて回避するが緑衣の人物はそれにもめげず、航空機が旋回するかのごとく両腕を広げてまた師匠に向かって行く。


「なんだ! 気持ちの悪い!」


 師匠はそう言いながら逃げ回るしかないのだが、早々に息切れして足が止まってしまう。そうなればあの緑衣の不審者の餌食になるのは時間の問題だ。


 しかし逃げ回っているあいだに師匠は気づいた。どうにもあの緑衣の人物は花に近づいて欲しくはないようなのだ。正確には師匠には近づいて欲しくないらしい。他の花へと集まりつつある人間は無視して師匠だけを狙っているあたり、この推測は間違っていないだろう。


 となればあの花を植えて十人以上もの人間を集めたのは、この緑衣の男に相違ない。弟子である庭師が巻き込まれている以上、シカトを決め込むわけにもいかなかった。未成年の庭師を預かっている以上、師匠は保護者的な行動が求められるのだ。――平素はまったくそんな言動は見せてはいないのだが。


 息も絶え絶えで腿の筋肉が笑ってしまう中、最後の力を振り絞って庭師は巨花へと向かう。


「P! P! P!」


 緑衣の人物は非難の色をにじませた声を発するが、師匠は無視する。幾度かの襲撃を振り切って花まで辿り着けばすることは一つだ。


 懐から特注のハサミを取り出す。両刃を開けば、頭上でさんざめく月光を反射し、銀色にぎらりと輝いてみせる。いつもの庭師のように師匠はハサミを振るう、が、その動きはまったく鮮やかとは程遠い。下手な踊りを踊っているようなもので、分厚い皮を持つ花には引っかき傷もつかなかった。


「使いにくいな!」


 悪態を吐いているあいだにも人が集まり始める。同時に緑衣の人物もすぐそこまで迫っていた。


 師匠をなにをするでもなくただ取り囲む人だかりの中には、庭師の姿もあった。が、庭師は相変わらず周囲の音にも状況にもなんの反応を見せずにいる。それは他の人々も同じだった。


「くそ!」


 しゃきん、とハサミの両刃が擦れ合う、小気味のいい音が響き渡る。その瞬間、俯きがちにしていた庭師がハッとしたように顔を上げた。


「師匠……?」

「あ? おい、起きたのか?!」

「起きた? なんなんですかね、これは」

「いいからハサミを持て!」


 未だ夢の中に片足を突っ込んでいるような顔の庭師に師匠はハサミを押し付けた。それと緑衣の人物が人ごみを掻き分けてやってきたのは同時だった。


「P! P!」

「……なんですか、この人は。なんだかとても不愉快です」

「そんな感想はいい! そいつをどうにかするか、そうでなけりゃ花をどうにかするんだ!」


 庭師は珍しく焦った様子の師匠に驚きつつ――勿論ご自慢の鉄面皮は眉一つ動かない――特注のハサミを握った。


 瞬間、鮮やかな銀色の線が夜の闇に閃く。金属の擦れ合う耳障りの良い音が響くのにあわせ、みじん切りにされた巨花の花弁が宙を舞った。


「Pーッ!」


 その様を見た緑衣の人物が甲高い声を上げて庭師に突進して行く。しかし庭師は闘牛士のように軽やかな回避を見せる。


「あなた、なんなんですか?」

「Pー! Pー!」

「意思の疎通は無理なようですね。加えてこちらを害する意思があると見ます」


 緑衣の人物の二度目の突進をかわした庭師は、その通り抜ける刹那にハサミを閃かせた。緑衣は切り裂かれ、いい具合に輪の形になって足元に落ちる。緑衣を纏っていた人物はその布の輪に引っかかって転倒した。


「うああっ!」

「……普通に声、出せるんじゃねえか」


 師匠がそんな呟きをしているあいだに緑衣を纏っていた人物は顔をさすりつつ起き上がろうとする。しかしその途中で動きを止めた。ハサミの両刃を開いて眼前に突きつける庭師と目が合ったからだ。


 その周囲では次々に意識を取り戻した人々が騒ぎ始めていた。



 *



 結局、その一件は集団誘拐未遂ということで処理された。誘引性のある香りを放つよう品種改良した花を用いて人を集め、いずこかへ連れ去る算段だったらしい。


 緑衣を纏っていた人物の取調べからP真理教団による組織犯罪である可能性が示されたが、当の教団は関与の一切を否定している。


「いつもの通りですね」


 そんなテレビの報道を見ながら庭師はため息をついた。


 あの夜、集められた人間は皆なにかしらP真理教団と繋がりがあった。教団に否定的な発言をした識者であったり、教団の脱会者や被害者の会のメンバーで構成されていたのだ。


 皆なにかしら仕事がらみなどの断りづらい状況下で呼び出されてから記憶があやふやだという。庭師もそうだ。


 顧客に呼び出されて降り立った(せかい)の名義は警察屋が調べたところ、いわゆる名義貸しというやつで登記された人物は今回の件のことをなにも知らなかった。


「どうして私も呼び出されたんでしょう」


 一応、心当たりはある。今までにP真理教団が関わったと思しき件で何度か庭師はハサミを振るった。そのことで目をつけられたのかもしれない。


「どうでもいいだろ。『君子危うきに近寄らず』だぜ。関わったって碌なことになりゃしないんだから、お前ももう近づくんじゃねえぞ」

「今回のことは不可抗力です」

「それは俺も悪かったって。今度からはきちんと身元を調べるさ」


 そう言って師匠は庭師から新聞を取り上げると、そのままカウンターへと引っ込んでしまう。


 どこか刺々しい師匠の態度に庭師は小首を傾げるが、その頭の中はすぐに今日すべきことで埋まってしまった。



(了)

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