フラワードロッP
人というものは周囲の環境が劇的に変化すると一つ自分も変わって見ようか、という思いがよぎるものである。タバタもその一人であった。
地元を離れて都市部の大学へ進学したタバタは周囲の人間と己との落差に驚いた。周りの人間のほとんどは雑誌やテレビで見たような装いで垢抜けているというのに、自分のなんと野暮ったいことか。これでは田舎者と喧伝しながら歩いているも同然である。――実際にタバタの郷がいわゆる「田舎」であるという、揺るぎない事実はこの際脇に置いておくとして。
地元では雑誌のモデルのような格好をすれば逆に笑われてしまうのがオチであったが、ここではそうではない。そうなればタバタがすることは一つである。男性向けのファッション雑誌をいくつか買い込んでまずは美容院に向かった。……余談だがタバタが美容院に行くのは初めてのことである。地元ではもっぱら「散髪屋」と呼ばれる場所で千円カットが常であった。
髪型を整えると少しだけ自身が垢抜けて見えた。雰囲気イケメンというやつに少しでも近づけたかと、しばしのあいだ鏡を見る。
服はネットショップを利用してマネキンコーデをそのまま注文した。コーディネートなどという高度な技はタバタにはない。よってショップの見本そのままを身に纏って取り繕うのが一番早い方法だと思ったのだ。
そんな万全の態勢を整えてタバタは大学に通うようになったのだが、それでなにか変わったかと言われると言葉に詰まる。結局変わったのは見かけだけであった。それによって多少は前に出て行こうという気にはなれたが、気分だけである。タバタは相変わらず朴訥で内向的な田舎の青年のままであった。
それでも周囲と同じような恰好をして過ごすという状況は気楽なものだ。少なくとも野暮ったい田舎者のままでいて浮くよりはずっとましである。
そんな風にオリエンテーションの関係で会話を交わすことはあっても、友人と呼べるような人間が出来ないままのタバタに一つの転機が訪れた。
きっかけは一枚の張り紙。大学デビューに失敗しなかったものの、成功も出来なかったという自覚のあるタバタは、一つバイトとやらに精を出してみようかと掲示物を眺めていたのだ。
高校時代のタバタは校則を律儀に守ってアルバイトの一つもしたことがなかったし、そもそもする場所が限られ過ぎていて隙がなかったのもある。
閑話休題。そんな真面目なタバタを縛るような規則は大学にはない。周囲の人間――無論友人ではない――もバイトの話を良くしている。だからそちらの方でどうにか今までと違う自分に出会えないかと、舐めるように視線をさまよわせていたわけである。
《自然が好きな方まってます! わたしたちと一緒にボランティア活動をして自然保護への理解を深めませんか? 見学大歓迎! P大学ボランティアサークル》
いかにも女子が描いた風な丸文字とカラフルなペンの色が可愛らしいポスターに目を留める。タバタの脳裏に邪な思いがよぎった。サークルとやらにはいずれ参加してみたいと思っていたタバタである。そこに女子がいるのなら尚良いと思っていた所だ。
この年になればちょっとは色気が出て来るのは自然の摂理と言えよう。タバタもご多分に漏れず彼女を、でなくても女友達の一人や二人は欲しいと思っていた。それが可愛かったり美人だったりすれば満点である。
ポスターを描いた人間がサクラというやつでなければ、少なくともこのボランティアサークルには女子が一人はいる。自然保護に興味があるわけではないが、インドア系のサークルでもなく、かといってテニス部などの体育会系サークルでもない、ボランティアサークルというのはインドアとアウトドアの中間地点的な丁度いい塩梅の場に思えた。
それにだれかの役に立つのが嫌な人間は稀である。ちょっとした別の自分のデビューが出来て、それでもってなにかの役に立てるというのは一石二鳥の案に思えた。
勿論そういう邪な考えを持つ己にタバタは自己嫌悪の念を多少抱く。しかしそれも勝手に広がって行く都合のいい未来の前には薄らいでしまうのが現実と言うもの。
タバタはとりあえずサークルの活動場所をスマートフォンにメモしてから帰宅した。その日のうちに行かない思い切りの悪さが、パッとしない現状という形で出ているわけだがそんなことにタバタは気づかない。
それでもってボランティアサークルが活動する部屋の扉をタバタが叩いたのは、たっぷり三日もかかった後である。
若干上擦った声で「失礼します」と言ってタバタは部屋の中を見る。そこには素朴な雰囲気の男女があわせて三人いた。女子は一人だけだ。しかしかなりの美人である。
染めたことのなさそうな黒い髪は艶やかに肩まで伸びている。小さな唇に大きな瞳と端正な顔立ちで、化粧は薄いもののそれが彼女をより美しく見せていた。服もオフホワイトのブラウスに紺色の膝丈のスカートと、いかにも清純派といった様相だ。
ぶっちゃけていうとタバタの好みど真ん中である。素朴すぎて野暮ったくなっておらず、かといってけばけばしくもない。過剰な演出を控え、押さえるべきところをきっちりと押さえた女性らしさに純朴なタバタは骨抜きである。
「あ? サークルに興味ある人? 見学希望者の方?」
そんな美人が人懐こい笑みを浮かべてタバタの傍に近づく。タバタはかっと頬が熱くなるのを感じた。こんな美人とは今まで会話をしたことがないのだ。どうすればいいのかわからなくて、「はあ」とか「ええ」とか気の抜けた曖昧な言葉しか出て来ない。
美人はそれにも頓着しない様子でタバタにイスを勧める。周囲にいた男二人も笑顔でタバタを迎え入れてくれた。
想像よりも遥かに歓待の空気が強い場に、タバタはくすぐったさを感じた。同時にその出迎えの態勢に適当に断れないなとも思い、少しだけ後悔する。
「ボラに興味があるなんて嬉しいなあ。なかなか人集まらないんだよね」
やや野暮ったいものの清潔感のある男がそう言って困ったような笑顔をつくる。もう片方の男も似たような印象で間違っても「チャラ男」や「イケメン」といった分類ではないが、いかにも人の好さそうな柔らかな雰囲気を持っていた。
出された緑茶と菓子受けに恐縮しつつタバタは自己紹介をする。といってもフルネームと一回生であることくらいしか言えることはないのだが。
この場にいる三人は女と男の一人が四回生で、もう一人の男が二回生らしい。三回生は就職活動で忙しいのでほとんど顔が出せず、今日来ていない人間を含めてもサークルメンバーは十人前後しかいないようだ。かなり小規模なサークルのようである。
「あの……オレ、今までボランティアとかしたことないんですけど。大丈夫ですかね?」
「大丈夫大丈夫! 最初から完璧に出来る人なんていないんだし!」
「わたしもボラなんて大学入るまでやったことなかったよー。面倒くさいって思ってたんだけどね。でも今はすごくやりがいがあって楽しいよ!」
そう語る彼らはいわゆる額面的な「リア充」とは違うのかもしれないが、やりたいことをしているというオーラに満ち溢れていて、タバタは憧れと尊敬の念を抱く。つい先月まで田舎にいるごく普通の高校生で、流されるように勉強だけ適当にしてきたタバタには、彼らが眩しく思えた。同時にここでならパッとしない自分とおさらばできるかも……とついつい算段をつけてしまう。
結局あれこれと体験談を聞いている内にその気になってしまったタバタは、二つ返事でボランティアサークルに入ったのだった。
他のサークルメンバーとの顔合わせも兼ねた歓迎会で見た面々の印象は、皆概ね同じである。垢抜けない雰囲気のものもいるが、総じて清潔感があり素朴や純朴といった言葉が似合いそうな人間だ。それでいて馴れ馴れしさはないが、皆雰囲気が柔らかく人の好さそうな顔をしている。
体格は人それぞれだがひょろりとした者は少ない。日に焼けていたり服の上からでも筋肉がついているのがわかったりする。
もやしのような自分に務まるだろうかとタバタは不安になった。が、それも歓迎会の雰囲気にのみ込まれて消えて行く。馬鹿騒ぎとまではいかないまでも、歓迎会は適度な盛り上がりを見せて解散した。
「あ、タバタくんわたしのアド教えてなかったよね」
という感じでボランティアサークルの紅一点――そう、あの日出会った彼女しかサークルには女子はいなかったのだ――からのアドレスも手に入れ、タバタは有頂天であった。
「タバタってちょっと雰囲気変わったよな」
大学の長い夏休み。意外に忙しいボランティアサークルの合間を縫って帰省した折、地元で就職した友人にタバタはそんな言葉を掛けられる。内心では「待ってました!」てなもんだ。
サークルに入ってからのタバタは今までの無味乾燥な日々からは一転、充実した毎日を送っていた。もともと運動部に所属していたわけでもない万年帰宅部だったタバタには、図書館や老人ホーム、障害者の養護施設での読み聞かせや、公園のゴミ拾いといった定番のボランティアに参加した。
特に読み聞かせは好評で、そこで初めてタバタは自分の声を褒められた。緊張しながらもゆっくりと聞きやすく、はっきりとした発声を心がけてきた甲斐があったというものである。
他にも狭い田舎のコミュニティで生活してきただけあって、子供の扱いは心得ていたし、老人との世間話も手慣れたものだ。
そういうわけでタバタはサークルではもっぱら図書館や養護施設へ出張して活動するようになっていた。体力を使うようなボランティアにはどの道参加し続けるのは難しいのだから、これは願ったりかなったりである。
そんな風に変わった自分の手応えを感じて、タバタは帰省したのだ。
しかし友人の言葉にタバタは固まってしまう。
「なんつーかさあ……ちょっと変な感じになったよな」
「へ? 変な感じってなんだよ」
「あのさあ……気ぃ悪くしないで欲しいんだけど。俺の伯母さんに似てるんだよな」
友人の伯母とは彼の知り合いであれば知らぬ者はいない有名人である。良い意味で名が通っているのではない。悪い意味でだ。
早い話が宗教とマルチ商法に嵌ってすったもんだのあげく田舎を出て行った人間である。そんな人物に似ていると言われてタバタはムッとしてしまった。それを察知した友人が慌てて言い繕う。
「だから『気ぃ悪くしないで欲しい』って言っただろ」
「だからってオバさんはないだろ」
「悪いって。でもなんかマジ変わったよな……タバタ」
友人からの距離を置くような視線にタバタは腹が立つと同時に困惑した。「都会に出てちょっと垢抜けたな」くらいの反応を期待していたのに、これはどういうことだろうか。
釈然としないタバタと、妙な空気のまま再会は終わる。
「嫉妬しているんだ」
大学近くのアパートに戻ったタバタはそう声に出してみる。そうしてみるとなんだかスッキリした。
そうだ、あいつは都会に出て変わった俺に嫉妬してあんな意地悪なことを言ったんだ。俺が羨ましいから……。そんな風に考えることでタバタは己の自尊心を持ち上げる。そうしないと胸の内に凝るものが気持ち悪くて仕方がなかったからだ。
「なんか気分転換したいな」
独り言をつぶやきながら散らかった部屋を当てもなく探してみる。すると紙のパッケージが爪先に当たった。
物の山の中から引っ張り出してみれば、それは「フラワードロップ」という商品名のキャンディである。P先輩――例の紅一点の先輩だ――から貰ったものだった。
きっかけは適度な馴れ馴れしさを身につけたタバタの一言である。
「P先輩っていつも花みたいな香りがしますよね。やっぱり女の子って香水とかつけてるんですか?」
「わかるー? でもねこれ香水じゃないんだよ。香水だと臭くなりすぎちゃうからわたしはつけてないんだ」
「じゃあ柔軟剤?」
「違う違う。キャンディだよ」
「へー、そんなのあるんですか」
「タバタくんも試してみる? 近づかないとわからないレベルの香りしかしないから丁度いいんだよね。ボラやってて香水は迷惑かかっちゃうこともあるけど、やっぱ匂いには気を使いたいからねー」
そんな流れでP先輩からキャンディのパッケージを渡されたのである。
ちょっとした口寂しさも覚えていたタバタは、紙のパッケージをちぎるように開けると、個別包装のビニールを破ってキャンディを口に入れた。途端に芳醇な花の香りが鼻腔を抜けて行く。それでも香水のようなきつい匂いではなく、注意深く嗅いでみればわかるというくらいのものである。
キャンディ自体はよくあるオレンジの味であった。舌の上でP先輩に貰ったキャンディを転がしていると、不思議と無心になれる。先ほどまで感じていた嫌な気分もどこかへ消え失せてしまった。
それも口の中にキャンディがあるうちだけで、溶けて消えてしまうとまたタバタはキャンディを口に放り投げた。
「あのキャンディ美味しかったですよ。どこで売ってるんですか?」
「あ、食べてくれたんだー。美味しいよね! あれねーコンビニとかじゃ売ってないんだよね」
「え? じゃあもしかしてけっこう高かったり……?」
「違う違う! あのキャンディ作ってるお店って小さくてね、わたしの地元にあるんだけど。ネットショップで通販してるんだ」
P先輩からスマートフォンにアドレスを送ってもらう。URLをタップすればよく見るショッピングサイトのレイアウトが目に入った。
《優雅な花の香りをあなたに フラワードロップ》
そんな謳い文句の広告が控えめに打ってある。販売元は以前P先輩が言っていた地域にある家族経営の会社らしい。
「怪しいサイトとかじゃないからね?」
「いや、そんなこと思ってないですから!」
慌てて言うとP先輩は「冗談冗談」と笑って見せる。
「地元にいたときからお得意さんっていうのかなー? こっち来てからも懐かしくて通販してもらってるんだよ」
「じゃあ昔からの思い出の味ってやつですか」
「そうそう。気に入ったならタバタくんも通販してやってよ。そんなに高くないし」
その言葉にスマートフォンへ再び視線を戻せばなるほど、確かにコンビニで買うキャンディよりは割高であるが、あの香りを思い出せばそう高くは感じない値段設定である。
タバタはP先輩に「俺も通販しますよ」と約束した通りにその日にはネットショップから注文をしていた。一袋から受け付けているのはありがたかったが、送料無料の表記に負けて十袋注文してしまう。まあ、キャンディはいくらあっても困るもんでもないしとタバタは深くは考えなかった。
フラワードロップを食べ始めてから体臭が変わったと指摘されるようになった。大抵は「いい香りだね」と言われて香水でも使っているのかと聞かれる。中には「P先輩と同じだ」などと言われてからかわれたりもしたが、悪い気はしない。
タバタは体臭を気にしたことはなかったが、褒められるのは嬉しいものだ。おまけにあのキャンディは舐めているあいだは無心になれる。花の匂いに身を任せて思考がすーっとクリアになって行くのだ。
じきにタバタは嫌なことや落ち込むことがあるとフラワードロップを口に放り込む癖がついた。
最初の異変は電車の中で起きた。
「うわっ……」
「マジ臭いんですけど……」
「なにアレ……」
休日に遠出をしようと決めて乗り込んだ電車の中。いかにも女子高生くらいに見える派手な少女たちが顔をしかめてタバタを見た。その声にタバタは感づかれないように周囲を見回すが、皆タバタから顔を背けるような形を取っていることに気づく。
なんだ?
タバタは混乱した。朝にシャワーを浴びる習慣はないが、昨日の夜はしっかりと体を洗って湯船にも浸かった。髪だって毎日洗っている。確かにまだ残暑の厳しい季節ではあるが、電車に乗るまでにそれほど汗はかかなかった。
己が悪臭を発している自覚はない。しかし周囲はまるでタバタがそうであるかのような態度を取る。タバタはそんな場の空気に耐えきれず、途中で下車して人のまばらな帰りの電車に乗り換えた。
「タバタ、柔軟剤変えた?」
そんなことを言って来たのはボランティアサークルで知り合った同じ一回生の友人である。暇だから遊び行こうと誘われて出て来ての第一声がこれだ。タバタはいつかの電車での出来事が蘇り身を硬くする。
そして動揺を気取られないよう、つとめて冷静に問うた。
「なんか変な匂いする?」
「においっつーか、なんつーか……ぶっちゃけて言うとすげえ香水を臭くしたようなにおいがする」
「マジで?」
「マジマジ。柔軟剤でもぶちまけちゃったの?」
「……そういやそうだったわ。ちょっと着替えて来る」
その言葉は嘘だった。しかし臭いというのは事実のようである。実際友人の眉間にはわずかに皺が寄っていた。相手を騙そうとするようなオーバーなリアクションではなく、出来るだけ相手を傷つけまいとするような表情である。
幸い友人とは住んでいるアパートが隣同士だったため、タバタは一度部屋に戻って服を着替えた。着替える時に服を鼻に押し付けるようにしてにおいを確認したが、そこまで近づけて嗅いでみて初めて洗剤の匂いがするくらいだ。首をひねりつつ着替えて戻る。
しかし、
「やっぱおかしいぞタバタ」
友人の言葉にタバタはいよいよ動揺をあらわにする。
先日の電車での一件から実は異変は続いていたのだ。
カップ麺やレトルト食品の類いを求めて外出するたびに周囲から避けられていると感じていた。実際に無邪気な子供から「くさーい」などと言われたこともある。
しかしタバタにはそんな自覚はない。いつも通り毎日風呂に入って洗髪をしているし、服だって律儀に洗濯をしている。部屋こそ散らかってはいたが最低限の掃除はしていた。生ごみを放置するということもなかった。
なにがダメなのかタバタにはさっぱりわからない。そこへ来て友人のこの言葉である。タバタは恐慌を来たしそうになっていた。
「……ごめん、ちょっと今日は帰るわ」
それだけ振り絞るように言うと、友人の顔も見ずにタバタは家に帰った。
「おい、タバタ!」友人の声が背を負いかけて来たが、これ以上なにか言われることに耐えられずタバタは部屋に掛け込む。
友人はそのあとで「相談に乗る」というような文面を送って来たが、タバタはとても返信する気にはなれなかった。
臭い、と言われるのは存外に辛い。自分がそれを自覚出来ていないだけにどれほど周囲に迷惑をかけているのか、それが把握出来ないのも辛かった。
典型的なイジメで相手を汚物扱いしたり臭いと言ったりするのは知っている。しかし不特定多数の人間から言われている以上、タバタ自身が臭いのは本当なのだろう。
一瞬、ノイローゼになって幻聴が聞こえるようになっているのではと思ったが、追い詰められているように感じ始めたのは電車での一件よりも後である。しかし最初の声が幻聴であろうとなかろうと、タバタが精神的に追い詰められているのは事実だった。
スマートフォンで「精神科」と検索してみる。都会だけあって結構場所は多い。それに大学でもカウンセリングを受け付けているという情報が手に入り、タバタはひとまず落ち着いた。そしていつものようにフラワードロップへ手を伸ばし、慣れた手つきでビニールの包装を破るとキャンディを一つ口に放り込む。
そうすると心がすっと落ち着いた。今まであれこれと気に病んでいたことが嘘のように心が凪いで行く。しかしそれもキャンディが口の中にある間だけで、タバタは不安から逃れるようにキャンディを次々にたいらげていった。
アパートの郵便受けが立てた音で目覚めたのは深夜のことである。次いでパタパタと扉の前から立ち去る音がして、扉の開閉音が隣から響いて来た。
こんな時間になんだろう。
起きていることを悟られるのも気まずく、足音を立てないようにしてそろりそろりとタバタは郵便受けに向かった。中には折りたたまれた紙がある。それを広げて書かれていた言葉にタバタは息を飲んだ。
《臭いがひどすぎます。どうにかできませんか? これ以上ひどくなるようなら大家さんに言います》
*
玄関に取り付けたインターホンが鳴る。しかし一向に部屋の主が出て来る様子はない。扉の前に立つ老齢の女性はやや苛立った様子でもう一度インターホンを押し込んだ。
「タバタさん、出て来てくださーい! メーター回ってるんですからいるのわかってるんですよっ」
そう声を張り上げれば扉の向こうからなにかを引きずる音が近づいて来る。それと同時に臭いがきつくなった。
そうなのだ。扉を閉めていても漏れ出て来る悪臭は酷いものだった。香水を振りかけた生け花が腐ったような臭いがこの部屋から漂って来るのだ。このことに周囲の住民は大いに迷惑しており、遂にアパートの大家である老齢の女性が腰を上げることになった次第である。
きっとゴミを溜め込んでいるんだわ。とぷりぷりしながら老齢の女性は店子が出て来るのを待つ。電気のメーターが動いているということは、この中で自殺をしてしまっているということはないだろう。実際、玄関へ向かって来る音がする。
扉のチェーンを外す音がしたかと思うと、次いで錠を開ける音が響く。そしてゆっくりと緩慢に扉は開いて行く。わずかに出来た隙間から吹き付けるように悪臭が飛び出し、大家は思わず手で顔を覆った。
「ちょっとあなたなんなのよこれ――」
くぐもった声のまま苦情を並べ立てようとして、大家は絶句する。
そこにいたのは腐った植物の塊だった。
どろどろに溶けてしまった植物たちが人の形を成して玄関に立っている。そしてそこから香水を何百倍もきつくした臭いが発せられていた。
「ア……アノ……アノ、アノ」
腐った植物の塊はごぼごぼと声らしきものを出そうとするが失敗する。そしてまるでそのことを釈明するかのように、どす黒く変色した腕を大家へ向かって伸ばした。その瞬間大家は悲鳴を上げて逃げ出す。その背を呆然と見つめたまま、腐った植物の塊はまだなにか音を言葉に成そうと何度か試していた。
警察と救急が呼ばれたのはそれからすぐのことである。
*
「息子さんの処置は無事終わりましたよ」
「本当ですか?!」
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
夫婦と思しき老齢の男女二人が白衣の男性に向かい、今にも泣きそうな顔で何度も頭を下げる。そんな二人を宥めて医者は彼の後ろに完全に隠れてしまっていた少年を前に来るよう促す。濡れ羽色の黒髪を頬にかかるほど伸ばした端正な顔立ちの少年は、顔面の筋肉を一切動かすことなく悠々とした物腰で医者の横に並び立つ。
「今回のことは彼女が一切を取り仕切ってくれました。お礼ならな彼女に」
「あの、この子が……?」
まだ十代も中盤頃に見える少年めいた少女が、息子の処置をしたと聞き夫婦は困惑を隠し切れないようだ。医者は微笑みを浮かべたままゆっくりとした口調で説明する。
「息子さんは植物に深く寄生されていて、通常の外科手術では取り除けない所まで来ていました。――ああ、ご安心ください。処置は成功して植物は全て取り除けました。これも庭師の方のお陰なのです」
その言葉に「庭師」と呼ばれた少女は軽く会釈する。それに合わせるように夫婦も頭を下げた。
「とにかく難しい処置でしたので植物のプロフェッショナルである庭師の方をお呼びした次第です。彼女は植物の剪定にかけては右に出る者はいませんから」
「そうだったんですか……」
「そうとは知らず失礼しました」
「いえ、私の見た目では仕方のないことです。それよりも処置が間に合ってよかったです」
庭師の少女は相変わらずの鉄面皮で立て板に水の如くそう言い終わるや、「それでは」と言って三人から別れてしまう。
庭師はそのままごく自然な足取りで病院の外へと向かい、そこで待っていた行政屋と合流する。今回の仕事を斡旋したのは行政屋である。医者から植物に寄生された人間を発見したという連絡を受け、庭師に仕事を依頼したのだ。その動きが迅速だったのには理由がある。
「今回は助けられたようですね」
「あなた方の連絡が早かったお陰です」
そう、この被害は初めてのことではない。近頃あらゆる庭でこの事象が報告されつつあった。それを行政屋が一本化し、窓口を設けて対応に当たっているというのが現状である。
手口は概ね食品類に偽装して人間に寄生植物を食べさせるという、典型的なプランツテロであった。以前からそういった事件がなかったわけではないが、今回の一連の被害の裏には組織的な動きが見られたため行政屋が出て来た次第である。
しかし今のところ行政屋と警察屋の捜査は上手く言っていない。食品類を販売していた会社を強制捜査しても、あるのはもぬけの殻のオフィスばかり。ペーパーカンパニーというのも珍しくはなかった。
「P真理教団ですか?」
庭師は行政屋に問う。人間の命を脅かしかねないプランツテロを繰り返す組織に心当たりがあるとすれば、そこだけだ。
「滅多なことは言わないでください」
行政屋はそう言うばかりで庭師にはなにも教えてはくれない。それでも庭師はP真理教団の仕業であろうと半ば確信していた。
庭師にはなぜP真理教団が気になるのか、これほどまでに心に引っかかるのか理解できないでいた。常ならば他人がどうなろうと知ったことではないという態度なのが庭師である。己の職務を全うすること以外に心血は注がない。それが庭師。
だというのにどうしてだろう。
庭師は一人小首を傾げた。
(了)




