死者のためにできること
ダイスケがP先輩と久方ぶりに顔を合わせたのはリナの葬儀の場であった。
ダイスケはくっきりと白と黒に分かたれた鯨幕をぼんやりと眺めながら、菊の花の白に囲まれた血の気のないリナの顔を見てやっと眼が濡れ始める。
リナとダイスケはいわゆる彼氏彼女の関係であった。出会いは高校。たまたま席が隣同士になったことがきっかけで話すようになった。出会って間もないというのに、そんなことを感じさせないほどリナとダイスケのやり取りは気心の知れた友のようであった。それはお互いに感じていたことだ。二人はまるで昔からの知り合いのように気の置けない関係となった。
告白をしてきたのはリナの方だった。その頃にはもう会話がなくとも相手のいる環境が心地よくて、ダイスケも良い友に巡り合えたと感じると同時に、異性としてのリナの存在についても考えはじめていた。
「うちらめっちゃ気が合うやん。そやったら付き合ってもええと思わん?」
いつもの軽口を叩く調子でリナは言うが、その眉は情けなく下がって頬は朱色に染まっていた。羞恥からいびつな形をしたリナの唇を見てダイスケは彼女への恋情を自覚した。
高校を卒業してダイスケは大学に進学し、リナは看護学校へ進んだ。多少距離は離れたものの遠距離恋愛と言うには近すぎるし、二人の関係は相変わらずだった。仲の良い友人から一歩進んだ関係で、恋人というには少々甘さが足りない二人であったが、それでいいと共に思っていた。
リナの訃報がもたらされたのはダイスケが昼食を取っている席でのことである。
「ダイスケくん、リナがね」
リナの携帯番号からの着信に出れば、彼女の姉が震えた声でリナが事故に遭ったことを伝えた。ダイスケが昼の休憩を取っているのと同じように、リナも昼食を食べようと友人と共に学校を出た所で信号無視の車に轢かれたのだ。
リナはすぐには死ななかった。たっぷり一週間掛かって、その間に一度も意識が戻らぬままあの世へと旅立って行った。
加害者への怒りよりもリナを喪った穴が訴える痛みの方が大きくて、ダイスケは抜け殻のようになった。自分の中のなにかひどく大切な部品が壊れてしまったかのような感覚だ。臓腑がどろりと体の中ですっかり溶け出してしまったような倦怠感の中、ダイスケは変わらず大学に通い続けた。
「ダイスケ、一度休んだ方がええんとちゃうか。自分ちょっと疲れてるように見えるで」
ゼミの先輩からそんな言葉をかけられてもダイスケは上の空だ。
「心配せんでも大丈夫です」
「そやかてな……」
「これで単位落としたりした方がリナに顔向け出来ませんて」
そう言ってダイスケは精一杯笑って見せた。先輩の双眸には、歪んだ顔を作る自分が映っていた。
「久しぶりやなダイスケくん。こんな形では会いたくなかったな」
「P先輩、帰って来とったんですね」
「可愛い後輩の旅立ちやからな……こんな風になるとは思わんかったけどな」
寂しそうにリナの遺影を見つめるP先輩の横顔を見て、ダイスケは胸に込み上げるものがあった。他人がこうしてリナの死を悼んでいる姿を見て、ダイスケはようやく自分の悲しみを理解することが出来たのだ。そして自分が悲しいと感じるよりも、他人が悲しんでいる姿を見る方がダイスケにとっては辛かった。
「ダイスケくん、月並みな言葉やけど気ぃ落とさんとな」
「はい……」
「それでダイスケくんに渡したいもんがあるんやけど」
P先輩は喪服のポケットから小さな紙袋を取り出すと、ダイスケの手に押し付けた。その行動の意味がわからずダイスケは困惑する。
「なんなんですか? これ」
「ええからええから、貰とき。な?」
葬儀の席で紙袋を空けるわけにもいかず、ダイスケは言われるがままにその紙袋をポケットにしまった。
その紙袋の存在を思い出したのは、葬儀が終わって潔く喪服をクリーニングに出そうと思い立った時である。
「そういえばこんなんもあったな」
簡素な茶色い紙袋の口を閉じるテープを乱雑に開けると、中にはビニールでパッケージされた丸い粒が入っていた。そしてパッケージには手作業で貼ったと思われる紙のラベルがある。
『死者のためにできること』
そして下には豆粒のような文字でこうある。
『二度と会えない人はいませんか? 会いたい人はいませんか? 会えない人にできなかったことはありませんか? そんなときはこの種を蒔いてみてください』
「なんなんや、これ。冗談にしても趣味悪いわ」
ジョークグッズの類いにしても現実に恋人を亡くしたばかりの人間に渡すような代物ではない。P先輩はこんな人物だったかと思い出そうとするが、そう言えば委員会でちょっと親しくしていただけの間柄であった。それでも少しは先輩ということで助けてもらったり、頼りにした記憶はあるというのに。
「あほらし」
ダイスケは紙袋をゴミ箱に捨てた。けれどもその途端にゴミ箱の中身が気になりだして少しだけ落ち着かなくなる。
『二度と会えない人はいませんか?』
その文言がダイスケのささくれ立った心に引っかかる。
気がつけばダイスケはゴミ箱からその袋を拾い上げていた。
食べるようなものでもないのだし、セラピー的な謳い文句で深い意味はないのかもしれない。そんな風に言い訳をしながらダイスケは紙袋を本棚の上に置いた。
底面に穴を空けたペットボトルを簡易な植木鉢として、土はホームセンターで量り売りしているものを買い、ダイスケは戯れに種を育て始めた。普段ならばこんな詐欺のような商品を相手にすることはないのだが、今はなんでもいいから手を動かして気を紛らわせていないと落ち着かなかったこともある。
南向きのベランダに置いてマグカップで水を注ぐだけ。それだけの作業をダイスケは毎日続けた。
日当たりが良かったおかげか、はてまたそういう種類であったのか、土から芽が覗くのはすぐだった。見た目はなんの変哲もない双葉である。小学校の時に理科の教科書で見たままの双葉だ。
ちゃんと植物だったのだなあなどとダイスケは考える。同時に胡散臭い謳い文句も忘れ、植物を育てるのが存外に楽しいのだなという感想を抱いた。
そういえばとダイスケは思う。リナも植物を育てていたことを思い出した。植物といってもネギなのだが。
「うちのおかんもこうやってたんよ。結構便利やで? 一人暮らしやとそんなにネギ使わんけどあるとええやん? それに緑があるのってええやろ~。ネギやけど!」
牛乳パックの底面を使った簡易な鉢で育てているネギを見せてリナはそう言ったのだ。
その時のことを思い出しダイスケはくすりと笑った。
「せやな。緑があるのってええかもな」
自分がなんと返したのかは忘れてしまったが、その時のリナの姿がありありと浮かびダイスケは笑いながら涙を流した。
『ダイスケ、そないに泣かんといてや』
不意に女の声が聞こえて驚きにダイスケの涙が引っ込む。
「なんや?」
辺りを見回してもこの部屋にはテレビやラジオの類いはない。スマートフォンを見てもスリープ状態のままだ。
ダイスケの隣の住民はいずれも社会人で、この時間帯は留守にしている。上階や下階から漏れ出て来たといった風でもなく、目の前から声が発せられたように感じたのだ。
心霊現象などという荒唐無稽な四文字が思い浮かぶ。
『心霊現象て、そんなわけないやん』
再び声が聞こえてダイスケは潔く気づいた。それが半分に切って作られた簡素なペットボトルの鉢から聞こえて来ていることに。
「なんなんや? これ? え?」
『なんなんやろね』
更にダイスケを混乱させたのは、先ほどまで単に女の声としか認識してなかったそれが、リナの声に聞こえたからだ。
ダイスケは注意深く鉢を観察するが、まぎれもなくリナの声がそこから聞こえて来ている。
悪戯を疑って鉢を持ち上げて見るが、そこは流出した土の色で汚れているだけで、スピーカーのようなものは見当たらなかった。土中にあるのやもと考えたがそれにしては声はクリア過ぎる。
心霊現象だ。ダイスケは思った。
しかしその声がリナのものだと確信できてからは恐怖心は薄れてしまった。
「リナなんか?」
『リナやで』
「なんで声がするんや。成仏でけへんのか?」
『ダイスケが悲しんどるからや』
「俺のせいなんか?」
『ダイスケが悲しんどるからや』
意思の疎通が上手く出来ないことにダイスケはもどかしさを感じる。しかし同時にその心は深い郷愁の念と喜びで溢れていた。そして気づいたのだ。幽霊でもリナと会いたいと思っていた自分の本心に。
今までダイスケは仕方がないことだと思っていたし、そう自分に言い聞かせていた。確かにリナの死は非業と言える。見ず知らずの他人の怠慢によってリナの命は奪われたのだ。確かにそこに怒りはある。けれども死んでしまったものはどうしようもない。死者は蘇らない。それが当り前の摂理だ。
「リナ……ここにおるんやな」
『そうやで』
自分が死んだことなど気にしていないかのようなけろりとした声に、ダイスケはまた涙をこぼす。しかし同時に笑ってしまった。いかにもからりとした気風のリナらしい返事がなんだかおかしくて仕方がなかったのだ。
「すまんなリナ。俺のせいなんやな。俺がリナにもっとそばにいて欲しいて思っとるから向こうに行けへんのやな」
『気にせんでええよダイスケ。仕方のないことやん』
「ほんまにすまん。……でもほんま、ちょっとだけでえからいてくれへんか。ちゃんと整理つけるから。リナのこと忘れんと、ちゃんとリナはあっちにいってもうたんやって整理つけるから……」
最後の方はダイスケもなにを言っているのかわからなかった。ほとんど哀願に近いダイスケのそれを、リナは簡潔な言葉で了承した。
『ええよ、ダイスケ。気にせんでええんよ』
それから二人の生活は始まった。
ダイスケは出来るだけ家にいるようになった。そうして日当たりのいいベランダのそばでリナと会話を弾ませるのだ。高校の時の話、初めて行ったデート先のこと、進学してから一度だけ大喧嘩した日のこと、何気ない日常の話……。
リナの生前と同じように二人のあいだで会話が途切れることは少なかった。それでも肉体を失った影響なのか、リナの言葉は時折混線したように意味を失うことがある。それでもダイスケは気にしなかった。
『それであのときダイスケめっちゃ焦ってたやんな~』
「だってお前が変なメッセ送って来るからやろ! 風邪引いたってだけで大げさなんや」
『心細かってん。それでダイスケに来て欲しかったんや』
「ほんまこういう時って調子のええこと言うよな、リナは」
リナとの会話に時間を割くため、飲み会にも参加しなくなったダイスケであったが、恋人を失ったことはゼミ生には知られていたのでだれも疑問には思っていなかった。むしろ休んだ方がいいと言われていたくらいである。
講義が終わればすぐに家へ帰るダイスケを心配する様子は見られるが、近頃は顔色もよくなっているのかあからさまに気を使われることもなくなった。教授も含めて今は見守る時だとそう思われているようだ。
ダイスケはリナとしゃべれることをだれにも話したことはなかった。そんなことを言えば恋人を亡くしたせいで頭がおかしくなったと思われるのがオチである。確かにリナの声は聞こえるが、それは自分にしか感知できるものではないかもしれないという懸念もある。そうであればますます心の具合を疑われるのは火を見るよりも明らかだ。
ダイスケ自身、今起こっていることは夢ではないかと思う時がある。頭の冷静な部分で、リナを喪った悲しみのあまりにリナの声を幻聴しているのではないかと思うのだ。幽霊になったリナがこの世に留まっているというよりも、そちらの方が遥かに理性的で筋の通った論である。
それでもよかった。幻聴でもリナがまだそばにいられると考えれば、ダイスケのぽっかりと空いた穴は多少埋められる。いつかだれかが異常に気づいて、それで自分がおかしいのだと診断されてもいいとダイスケは考えていた。
『なあ、ダイスケ』
「なんや?」
『お願いがあるんやけど、ええ?』
リナからそんなことを言われたのは、二人きりの生活を始めてから一ヶ月が経った時のことである。
「なんやねんもったいぶって。言うてみいや」
『あのな、ダイスケの体、貸して欲しいねん』
ダイスケは一瞬言葉の意味がわからなかった。じわじわと理解し始めた後も疑念は拭えない。
「貸すって……そんなん出来るんか?」
『体貸して欲しいねん。ちょっとだけやから。お願い』
「そんなこと言われてもなあ。俺、女とちゃうで」
『お願い、ダイスケ』
またドラマかなにかの展開みたいだとダイスケは自身の置かれた状況を俯瞰して思う。幽霊に体を貸すなどというありきたりなストーリーが展開されるとは思ってもみなかったのも確かである。……死んだ恋人が幽霊となって会いに来ているという時点で三文小説のような話であるのは置いておいて。
ダイスケは悩んだ末に、何度も繰り返されるリナの「お願い」に折れた。
「貸してどうなるんや?」
『ちょっと借りてみたいだけやねん。ほんまちょっとだけやから』
「……わかった。リナの気がそれで済むんやったらええよ」
最初にリナに「ダイスケが悲しんでいるから成仏できない」と言われてしまった手前、彼女をこの世に押し留めている罪悪感もある。そんな思いからダイスケは軽薄にもリナの願いを了承してしまったのだ。
『ほんならウチに触って』
小さな双葉であった植物は、今や青々とした葉を茂らせて半分にしたペットボトルの鉢よりも高い背を、ベランダで揺らしている。
ダイスケは言われた通りにその瑞々しい青い葉に触れた。次の瞬間、エレベーターが止まる時のような浮遊感に襲われたかと思うと、視界がぐるりと反転して目の前が真っ暗になる。
「リナ?」
ダイスケは声を出す。が、声を発したはずなのに音が一切感じられない。それどころかいつまでたっても眼前は暗いままで、入れ替わったのならば見えるはずであろう自分の姿も認められないままだ。
「リナ?」
不安に駆られて彼女の名を呼ぶ。しかしなにも返って気はしない。音もなく、明かりもない。唯一ある触感を頼りに目の前を探ってみようとするが、磔にされたかのように体は動かなかった。
「リナ、どうしたんや。なんなんやこれ」
ダイスケは一人そんな言葉を繰り返す。それでもいつまで経っても、なにか言葉が返ってくるということもなく、まるで狭い密室に押し込まれ体を固定されたかのような感覚のまま、どこまでも続く暗闇を見せられるだけだった。
*
特注製の銀色のハサミが宙に閃く。小気味の良い金属音が響き渡ったかと思うと、逃げ惑う男のうなじから伸びる芽は断たれた。すると男は糸を切られた操り人形の如く地に伏せてしまう。そんな男へ待機していた救急隊員が駆け寄り、彼は救急車の中へ担ぎ込まれる。
「これで最後のはずです」
眼鏡を掛けて前髪を七三分けにした行政屋がタブレットを操作しながらそう告げた。庭師はハサミを仕舞い込むと地面に落ちた芽を拾い上げる。
「あ、そちらは証拠品として押収いたしますのでこちらの袋の中に」
差し出されたビニール袋の中へ芽を落とす。庭師は鉄面皮の下でやっと仕事が終わったとため息をついた。
『死者のためにできること』。そんなラベルが貼られた種がある庭で問題を起こしていると聞き、今回庭師が駆り出された次第である。
「死者と会話できる」ことを謳った明らかに胡散臭い代物ではあるが、大切な人を喪って心が弱っている人間の心につけ込むには効果的な文言なのだろう。そんな甘言に惑わされて植物を育て始めると、やがて幻聴が聞こえるようになるという。
それは単に育てている人間の思考をトレースしているだけなのだが、育てている側は死者の霊がやって来たと都合よく解釈してしまうらしい。思った通りの反応が返ってくるので余計にその考えを深めてしまうそうだ。思考を読み取っているのだから、言って欲しい言葉を発してくるのは当り前なのだが。
そして一ヶ月ほど経ち一般的な植物であれば花を咲かせて実をつける段階になると、人間を惑わしてその肉体を乗っ取ってしまう。その後、その肉体を養分として種を生み出し、それを元の人間の知識から対象の知人たちにばらまいてまわるという、なんとも――人間からすると――はた迷惑な植物なのである。
この種は人間社会に深刻な影響を及ぼすということでブラックリスト入りしており、どこの庭でも持ち込みは禁止されている。しかしどういうわけかこうして被害が出てしまい、行政屋や警察屋がフル稼働して事態の収束に当たっている。該当の庭の持ち主は持ち込んだ人間に心当たりがなく、恨みを買った覚えもないという。
やり口からして特定の庭を狙ったものではないだろうというのが警察屋の見解である。
「プランツテロ」。ブラックリストに入っている植物を故意にばらまくテロ行為であるというのが大方の見方だ。
そんなことをする人間は、いや集団は限られる。だれも口にはしないが。
「これで仕事は終わりですね」
「はい。お疲れさまでした。代金は後ほど振り込ませて頂きます」
庭師は無愛想な顔の下で考える。
P真理教団。全庭の緑化を掲げる過激な環境保護団体。今までに彼らに絡んだ事件と関わって来たが、直接はまだ対峙していない。しかしそれも近く実現するだろう。庭師はそう直感していた。
救急車のサイレンが遠のく中、一陣の風が吹き抜け庭師の髪を揺らす。街路樹の葉が擦れ合い音を立てる。その様子がなんだか己に警告を発しているようで、庭師はわずかながら不安を抱くのであった。
(了)




