プロローグ前編 神託 ‐Oracle‐
―――お前は何のために剣を振るう?
剣と剣がぶつかりあう音に混じり、声が聞こえた。大きい声ではなく、耳元で直接囁いているような、ねばりつく声だった。少年はその声に構わず、剣を振るい続けた。
小柄な少年だった。上半身を守る軽鎧は少年の体躯にまったく合っておらず、少年が剣を振るう度にガランガランと音を立てて小刻みに上下する。
こんなブカブカな鎧でも少しはお前を守ってくれるはずだ―――部隊の中で一番面倒を見てくれた壮年の兵士が戦前にくれたものだった。その壮年の兵士は少年のすぐ後ろで倒れている。首がなかった。敵兵が鎧と兜の隙間を縫うようにして剣を滑らせたのだ。少年と戦っている敵兵は、明らかに他の兵よりも強い。隊長格であるのは間違いなかった。
―――お前は何のために剣を握る?
「喋るなっ!」
耳障りな声をかき消すようにして少年が怒号した。そのまま自分の背丈ほどもある剣を相手に叩き込む。しかし剣は何もない空を切った。やられた―――少年が兜の向こう側で愕然とした。戦場で気を散らしたものは死ぬ。ケビン隊長の教え、わかっていたはずなのに。
少年の表情が愕然から苦痛へと変わる。右手の甲が燃えるように熱い。少年の剣をかわした敵兵が右手を切り裂いたのだ。少年はたまらず剣を落とし、荒野にうずくまった。ガントレットをしていなければ、右手はなかったかもしれない。切り裂かれた鈍色の篭手から湧くように血が流れ落ちていた。どのみち、もう右手は動かないだろう。
―――お前は何のために戦う?
「兜を脱げ」
囁き声と同時に敵兵が声を投げかけた。少年が顔を上げると、敵兵が自分に剣を向けている。その兵の周りには散らばっていた敵兵が集まってきていた。どうやら、戦は終わったらしい。
自軍の敗北。生き残りは、うずくまっている少年だけだった。
「兜を脱げ。でなければ、このまま首を刎ねるぞ」
二度目の勧告に、少年は機械的な動作で兜を脱いだ。肩にかかるほどの金髪に、青い瞳。顔立ちからして、齢は14、15といったところか。
「ふん、やはり少年兵か。捕虜としては価値が低いか……どうする、お前達?」
さっきまで切り結んでいた兵士が言った。下卑た声音だった。後ろにいた3人の兵士が次々に囃したてる。鎧が真っ赤に染まっていた。自軍の―――仲間たちの血だった。
「なんだオスかよ。ちいせぇ身体だからメスかと期待しちまったぜ。おい、早く殺せ」
「待てよ! かわいい顔してるじゃねえか。俺に金貨5枚でくれよ、な?」
「ふざけんじゃねえぞテメェ、こいつらのせいでウォルフやレビル、リヒトーが殺されたんだぞ? 今すぐ殺せ、やらねぇなら俺がやる。いいだろ、隊長」
目の前で次々に喋りたてる敵兵を、少年は濁った瞳で見つめていた。すでに戦う気力は残ってなかった。自分は負けた。あとは死ぬなり男娼となるだけだ。ただ、あっさりと負けを、死を受け入れてしまえる、そんな自分がひどく情けなかった。
―――もういいのか?
さっきから囁いていた声がまた聞こえた。今までよりも大きな声が頭のなかに直接響いてきた。ふと、少年は誰ともわからぬ声に答えていた。この際誰だっていい、もう死ぬのだ。声の主が戦場に漂う霊魂だろうが、とち狂った自分が造りだした妄想の産物だろうがどうだってよかった。
ああ。もう、いいんだよ。
―――剣を握らないのか。
右手が、利き手が動かない。もう戦えない。剣の持てない少年兵に、価値などない。
―――なんのためにお前は剣を振るっていた?
またその質問か。戦うためだ。敵を殺すためだ。共に闘う仲間のためだ。もう俺には、剣を振るえる理由がない。
「……理由ができれば、剣を振るえるか? 再び剣を握るか?」
ハッと少年が目を見開いた。目の前にはニヤニヤ笑いを浮かべた敵兵しかいない。少年の不審な動きを見た兵士達が何かを喋っているが、少年の耳には入らない。いまや少年の世界には敵兵も、敵味方が倒れ伏す死屍累々の戦場すらなかった。あるのは、囁き声が聞こえる自分の中だけ。少年だけが個であり、全であった。
『我が命じよう。生き残れ、レナード。何かのために、誰かのために剣を振るうな。自分のために剣を握れ。自分の信じるものだけの為に、剣を持て』
「俺には信じるものなどない! 俺にはもう何もないんだ!」
気づけば、少年―――レナードは虚空に向かって叫んでいた。その様子を見た兵士達が急に騒ぎ出し、隊長と呼ばれていた男が剣を振り上げる。狂人となった捕虜には意味などない。そう判断したのかも知れなかった。
『なら、信じられるものを授けよう。我が力を以てこの世全ての罪と罰を咎めよ。我が剣を振るえ、我が剣を握れ、レナード。未来を選択するのだ』
レナードに剣が振り下ろされる。少年の目に生気が宿り、何も持っていないはずの左手を、敵兵の腹部に伸ばした。
やがて、戦場に雨が降り注いだ。雨が止んだあと、レナードの姿はどこにもなかった。