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過疎線の揚羽蝶

作者: 菜畑三太郎


 これはこの間、私が体験したある出来事の話である。


 高校生である私は、毎日電車を使って通学をしている。辺境にある地元の駅から乗車し、このあたりの電車の路線の中心となっている中規模の駅(以下O駅とする)で下車するのだが、私が利用している路線は、O駅を通る数ある路線の中でも最も寂れた路線(と言われている。私はそんな事実絶対に認めたくはないが)だ。


 そんな寂れた私たちの路線は、当然利用客もほかの路線に比べて少なく、路線を走る電車のグレードもまた、過疎具合にふさわしく低くて、列車が走る際に生じる「ガタンゴトン・・・」の衝撃がすさまじい。


 だがそんな過疎線にも、誇るべき点が一点だけあることを私は知っている。―――風景だ。


 毎朝私が乗車する駅から次の駅に到着するまでの道程に、見晴らしの良い場所がある。・・・やたらと広い更地で―――生き物たちがたくましく活動を行い始める夏となった今では雑草がボウボウと生えているが、そこからは私たちの市内でも標高の高い山が見える。


 山に繁茂する木々のきれいなグリーンが、澄んでいる空の青さとコントラストを醸し出している。そして手前には、そんな澄んでいる空の色をそのまま映したかのような海の青。・・・手前には、山の木々の緑色を反映したかのような雑草たち。


 私はその場所に来ると、まるで世界のすべてを見ているように錯覚してしまう。だがその錯覚が、私に日々を生きる活力を分け与えてくれる。



 そんな我らが過疎線の自慢話はさておいて。



 その土曜日も同様に、私は過疎線を使って学校に行き、午前授業を特に向上心も抱かずに漫然とこなし、午後から部活に行って、昼下がりには帰路に着いていた。その日は今年最高気温だとかなんとかで、やたらと暑かったことを覚えている。


 顔に溢れる汗を拭いながら、私はやっとのことで駅のホームまでたどり着いた。普段から利用客の少ない我らの過疎線は土曜の昼下がりではなおさら利用客は少なく、ホームで汗をかきながら電車の到着を待つ人の数を数えることは両手の指で事足りた。対向の別の路線が通るホームで待つ人々の数との差は歴然で、私はなぜか無性に悔しかった。


 利用客は少なくとも、O駅で下車する過疎線の利用客の数はそれなりに多い。それなりに多い利用客を吐き出した列車に乗り込み、私は出発を待っていた。エアコンの利きが悪かったので、傍にある扇風機の電源スイッチをオンにし、窓を開ける。特に涼しくはならない。


 余談ではあるが、友人に確認したところ他の路線ではエアコンの利きが悪いとかいうことはないらしい。・・・別に惨めな気分になったりなどしていない。


 さて、普通終点に着いた列車の中と言うのは、居眠りをしている乗客を除いて、ほかの乗客は乗っていないはずだ。因みに言い忘れていたが、我らの過疎線はO駅が終点のため、私が帰宅する際に乗り込む列車はガラガラの状態だ。



 だが、その日は違った。私が乗り込んだ車両には、下車をしない乗客が居座っていたのだ。・・・話の流れからして、それが居眠り乗客ではないことは察してほしい。



 下車しない乗客とは、果たして美しい一匹の揚羽蝶だった。


 きっと迷い込んでしまったのだろう。揚羽蝶はどうにかしてこの人工物という迷宮から抜け出そうと、必死に窓に向かって体当たりを敢行していた。



 助けてあげたい。私はそう思った。意識的にではない。本能的にである。



 だが、そう決断しても私の中には躊躇(ちゅうちょ)があった。・・・いや、躊躇ではない、「気恥ずかしさ」だろうか。


 ほかの乗客が見ている中、私は揚羽蝶を救うという行為に恥ずかしさを感じてしまっていた。


 ほかの乗客も私と同様なのだろうか。乗車した瞬間には皆一様にその揚羽蝶に一瞥をくれるのだが、すぐに視線をそらしてしまう。そして、各々の世界へと堕ちていく。


 誰も、その揚羽蝶を救おうとはしなかった。私も含めて。その間も、揚羽蝶は生きようと必死にもがいていた。


 ・・・いや、「気恥ずかしさ」というのはただの言い訳なのかもしれない。ただ単純に、私は揚羽蝶を救うという行為に気怠さを感じていただけかもしれない。だがどちらにしても、その揚羽蝶を逃がしてあげることは、「正義」であったことは疑いようもないことであり、私は「正義」から目を逸らしていたことに変わりはない。


 隣のおばさんから私に注がれていた視線を覚えている。「あんた、どうにかしなさいよ」という視線だ。私だって、すぐにでも助けたかった。すぐにでも行動できていれば、先程自分で開けた窓から逃がしてやることだって可能だったのに。



 「心」は間違いなく動いていたのだ。だが私は、「心」で感じた「正義」を、「実行に移す」ことが出来なかった。


 そのまま、我らの過疎線の電車の扉は閉じた。揚羽蝶は羽根休めをしていて、その美しい羽は、行動できなかった私を小馬鹿にするようにゆっくりと羽ばたいていた。






 私が下りる終点の辺境の駅の一つ手前の駅に着いた。ほとんどの乗客が、その駅に着くまでの各駅で降りる。私の車両に残ったのは、私と、ウトウトと舟を漕いでいる中年のサラリーマンだけだった。


 私はサラリーマンがしっかりと寝ていることを確認してから、揚羽蝶をそっと捕まえた。まるで近所の駄菓子屋でおばちゃんにばれないように駄菓子を万引きする少年のように。


 逃がす間際で確認したのだが、揚羽蝶の羽は片方が3割方失われていた。きっと先程までの脱出作戦で何処かに引っかけたのだろう。


 私は今度こそ、本当に惨めな気持ちになり、泣き出しそうになった。この過疎線の利用者たちの、心の貧しさを憂いた。


 揚羽蝶は私が逃がすために捕まえると、怒ったように羽をはばたかせた。


 そんな揚羽蝶に私は、心の中で「ごめん」と謝罪した。


 言葉にはすることはできなかった。「恥ずかしかったから」。




 

揚羽蝶を見かけても助けないのは、我らが路線の利用者だけだと信じたいです。


貴方はこんな場面に遭遇したら、「正義を恥じることなく」揚羽蝶を助けることが出来ますか?

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― 新着の感想 ―
[良い点] 別の見方もできます。 蝶はどこから乗車したのでしょうね? 遠い駅で放り出したら迷子になってしまいます。 例えば魚。 別の川に放すと交雑種をつくる可能性もあります。 そうなったら、生態系…
[一言] まず電車に乗らない俺にその質問は鬼畜すぎた……
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