8、紐解くもの
ロイとアンナは2人、目の前を静かに歩く背中を見つめる。
年を経ても変わらず品よく伸びた背筋や、どれをとっても丁寧な所作。2人に自らの性を授けたカルムは、その2人を伴って教会裏の道を奥へ奥へと進んでいった。
ふと、何かが薄日を反射して煌めき、目を凝らした先に小さな池が見える。
まずアンナが、それからロイ、そしてそれを心得ていた様にカルムが歩みを止めて水辺に群生する黄色を見渡す。
「これは彼女の、ステシアの愛した花です」
そうっと花弁に指を滑らせる指は、持ち主からは想像出来ないほど荒れた皺だらけのもの。
「“リュウキンカ”」
「え?」
知らず漏れたアンナの声に、1人は怪訝そうに声を上げるが、もう1人は再び草花茂る庭を進みだした。
――ラースベルト侯爵邸前での会話の数日後、アンナの提案で2人はカルムの元を訪ねていた。
目的はひとつ、かつての屋敷で何があったのかを知る為だ。
アンナ達使用人の少女とロイを除いた屋敷の住人は、既に皆あの夜に命を落としている。マリノア夫人と通じていたカルムは、もはや2人の問いに答え得る数少ない人物だった。
突然の訪問客にカルムは驚くでもなく、ただ教会裏手の原へと彼等を導いた。
遠目に見えていたそれが墓地だと気付いても、3人は押し黙ってただただそちらへ向かう。
身寄りの無い者達が身を寄せる共同墓地は開けた野の中で、小振りの花々に飾られる様にしてそこに在った。
「ステシアと、彼女の子供もここに居ます。すいません、こんなに遅く話す事になって、申し訳なく思っています」
深く腰を折ったカルムはようやっと背後を振り返って、そうして一言ずつ確かめるかのように話しだした。
それは、ロイが生まれるより20年以上も昔のこと。
長い間を廻る、その最初の小さな綻び。
「朝晩で国境が移動するような世は、もうずっと以前に終わりました。けれどほんの2、30年前はまだそこかしこに戦火の燻りが見え隠れした時代でした。
そんな中を潜り抜けてこの北端の地が現在まで安穏とあれるのは、武力と資力を併せ持ったブライアン家の恩沢に因るところがほとんどでした」
首を傾げる若者達に、カルムはハッとして小さく咳払いをする。
「申し訳ない。これでは史書を読み聞かせられている気分ですね。昔からよく理屈っぽいと叱られてきたのですが、なかなか。――レイシール家という名を、聞いたことがありますか?」
ロイが小さく頷く。
アンナは記憶を辿り、思い当たる。
『当主ルシード・ブライアンは自室にて首を切り自害、その身体にすがる様に倒れる女の遺体からは毒を検出。また庭には“旧レイシール家夫人”と思われる女性が同様に自ら命を絶って居た』
教会で療養中に目にした文だ。
「随分前に途絶えた商家、と言ってもこの辺りでは随分と力を持っていたとか」
「そう、マリノア様はその当主夫人でしたが御当主は若くして病死。夫君が一代で押し上げた地位を、幼子を連れたマリノア様が貫くことは難しかった。
だから彼女は、領主のブライアン伯爵家を頼ったのです。その時連れていた赤子が彼女、ステシアで、マリノア様はその身にミーシャを宿していました」
息をつめたアンナが口を開くのを待たずに、カルムは朗々と語る。
「当時ブライアン伯爵夫人もまた身重の身。レイシール家との深い繋がりもありましたから、男爵夫妻はマリノア様を生まれた子息ルシード様の乳母として迎え入れました。
これがあなた方のよく知る、ロイ殿の父君ルシード・ブアイアン様とマリノア様、それからその娘達との出会いです」
「それ、その娘達って」
「僕の母親とその姉ステシア、ですね」
黄色の中に混じる紫の花、シオンが葉を揺らす様を見つめながらロイが呟く。
「そう、ステシアとミーシャはほとんど屋敷の者達によって世話をされましたが、ルシード様と彼女達はまるで姉弟の様に睦まじくいらっしゃいました。
ですが成長して行く中で、ルシード様はステシアに、ミーシャはルシード様に恋慕を抱かれました。
そうして少しずつ3人の関係が変化して行った頃、当時の侍従長の孫だった私が屋敷に使用人見習いとして入ったのです。
ステシア達姉妹はあくまで使用人として屋敷に居りましたので、彼女達と私はすぐに打ち解けました。
そうして母君に良く似て利発で快活なステシアを私は慕う様になり、彼女もまたその気持ちに応えてくれました。勿論ルシード様のお気持ちは知った上でのことです。
私は伯爵家御子息であるルシード様とまみえる機会も無く、いえ、これは言い訳ですね。私は愚かにも、彼の方の心中を慮ることすらしませんでした。
私達2人の事は誰に言うわけでもなく、しかし御当主も含めて幾人かはすぐに気付いた様でした。それからすぐに私とステシアは当主夫妻に呼ばれました」
伯爵家の長子が使用人に恋慕するも、その女性は別の男性と恋仲になる。まるで巷の恋愛小説だ。
アンナは聞かされた話を必死に組み立てながら、ふと違和感を覚えて隣に立つ男を見上げた。
「あの、私の覚え違いかもしれないけど。ブライアン家は男爵位を持っていたって」
長い髪が目元に落ちるのを払うロイは、視線を少し先に遣ったままだ。
カルムが話しだしてから、彼は考え込むようにどこかを見つめている。
「僕は、エンディル様のもとで聞いたことがある。もともとあの屋敷がある地域一帯を治めていたのは伯爵家だ。
ブライアン家は、10年以上前に伯爵位を剥奪されている……カルムさん、続きを聞かせて下さい」
「当主様の部屋にはマリノア様もいらっしゃいました。
御存知かと思いますが、ここは北の枯れ地でしたから、代々の御当主も統治には大変苦労されていました。しかし戦後間もない頃に伯爵家が資財を蓄えるような真似をすれば、例えそれが領民の為とあっても中央から睨まれます。
そこでブライアン家は当主様の腹違いの弟君を生まれてすぐ商家の養子として、資力をも兼ねた辺境伯となることを図ったのです。その弟君がマリノア様の夫君。つまりステシアとミーシャの父君にして、ロイ殿の御祖父様です」
「……ステシア達姉妹と、僕の父親は従姉弟に当たると」
指を通していた髪を荒くかき上げるロイの隣で、今度はアンナがじっと黙っていた。
「だからこそ、御当主様方も私とステシアのことを寧ろ歓迎して下さいました。
レイシール家の吸収は問題視されない程度に国も安定を取り戻していましたが、それ以前に近親婚は今も昔も禁じられていますから。レイシール家当主がルシード様には別の御令嬢との縁談を御用意されていたのです。それ故、時期を見て私達は屋敷を出るようにと仰って下さり、私は一も二もなくそれに飛びつきました。
ですが図らずもその話を聞いてしまったルシード様は、激昂なさって、ステシアに暴行を。
私はそうなる前に立ち止まるべきだったのかもしれません。だがそれでも尚、私は自分とステシアを守る為だと言い聞かせて、脇目も振らずに屋敷を出ました」
「そんなのは、その男が、ルシードが我を貫いたんじゃないか。カルムさんに落ち度はない」
「……ルシード様は、たった一人の御子息でした。父母共に、我が子に構う暇さえない多忙な身。
あの方にとってマリノア様は彼を何よりも愛してくれた母親に違いなく、そしてステシアは、特に若い頃のマリノア様の見目を色濃く継いだ姿を持ち、同時に姉の様に常に傍にあった女性です。
私がこうしてあの御方の心底を憶測することすらおこがましい事ですが、まだ年若いルシード様から私は、まるで奪う様にして彼女を引き離してしまった。
直後に国境付近から流れてきた流行り病が一帯に広がり、御当主夫妻は亡くなられました。
父君の後を継がれて数年間政務に奔走したルシード様が、この教会に身を寄せていた私達を見つけた時には、ステシアも流行り病にかかっていて……妊娠していた彼女はそのまま子供と共に息を引き取りました――その後は、申し訳ありませんが私はほとんど存じません。アンナさんの見てきたものが一番確かだと思います」
息を詰める気配に、瞑目していたカルムはそっとそちらを窺う。
ふっと息をついて苦笑するロイと、硬直したままのアンナ。
「なんだ、今の僕は父親と大差ないんだな」
「ロイ、それは――」
「そうだな、私もそう思う。姉君に懸想して我を貫こうとするお前は、父親にそっくりだ」
3人の背後から突如投げられた言葉は淡々としながらも、立ち尽くす姉弟を振り向かせるに十分な重みを伴っていた。
「エンディル様」
「お前の父親はまあ、多少同情に値する青年期を送ったかもしれない。が、それを理由にして良いのは、数日塞込んだだとか、しばらく女性不審になっただとかその程度までだな。
レイシール家から引き継いだ利権を放棄し屋敷に閉じこもったルシード・ブライアンは、民を疲弊させた上に近親者であるミーシャ・レイシールとの間に子を生した。
そもそもアンナ殿の実家もレイシール家傘下の下請けだったのだ。娘を売らねばならぬほどに傾いた原因も、元を辿ればブライアン家当主の怠惰が導いたものに違いない」
『ステシア』そう呼ぶ掠れた男の声が、アンナには確かに聞こえた気がした。
あのすがる腕を振り払った夜が、力なく崩れた男の姿が、ぐるぐると脳内を巡る。
燦々と降り注ぐ日の中で揺れる紺の髪が、視界に映る。
――でも、違う、私は悲劇ぶる様な場に立っていない。それは私じゃなくて。
緩慢な動きで仰いだ男が震えているように見えるのは、強く握りしめられた拳のせいなのか。
「それを今言うのなら、どうしてもっと早くに話して下さらなかったのですか」
「聞かれずに話す必要もあるまい。
それに、私はあくまでラースベルト前当主として、授かった命に従っているだけだ。
血に重きを置くこの国で、お前のような子供は親と同罪を犯すと見られても仕方がない。
だが同時に、お前は北の権門と謳われたブライアン家の血も確かに、いや寧ろ色濃く継いでいる。これから国が大きく変動するこの時代に、それを捨て置くのも惜しいと言うのが私の本心だ。
実際お前は想像以上に上手く育ってくれた。そうでなければこの8年、何を好き好んで小生意気な子供を傍に置くものか」
貴族然と優雅に笑みを湛えたエンディルが、詠う様に問う。
「さて、私がここまで来たのは、お前に敢えて事の顛末を知らせてまでも、エンディル子爵位を授ける真価を見たからだ。
ロイ・カルム――否、ロイ・ブライアン、お前はどうする?」