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紺青の廻り  作者: おおせ
本編
8/11

7、彼の見る先

 時は遡り、アンナがラースベルト侯爵邸の壁を睨んでいる頃。



 皮張りの椅子を撫でながら隣を見れば、豪快に寝る狸、あるいは狐と呼ぶに相応しい爺が1人。


「相変わらず、無駄に質の良いものばかりだな」


 ロイの言葉に、エンディル子爵は寝息で返す。

 後頭部ほどの高さまで張られた皮の下には柔らかな布がしかれ、何とも快適な座り心地だ。

 現在彼ら2人が乗る馬車そのものは、遠目で見れば装飾の無い小さな箱馬車である。しかし華美なものに彩られないからこそ、その木目の美しい外装や、歪みひとつ無い窓枠が際立つ。

 そして何より馬車に後続する数頭の犬は、通り過ぎる者の目を引く。太く雄々しい四肢が地を蹴り、それでいて体躯は優雅にしなる様は、野性的な美で人を魅せた。

 こうして節々で見せられるものが、目の前で眠りこける男は子爵位を持つ者だと知らしめる。

 ねじがゆるんでいようと彼は才有る識者の『子爵様』なのだなと、ロイは眼鏡のブリッジを押し上げた。

 勿論才有る云々などと、当人には決して言わない。

 言わずともこの男が多面に長けた者であるとは誰もが知る事であり、この5年間彼の元を決して離れなかった事が、ロイの子爵に対する心底(しんてい)を示すのだから。

 一方でそれを認めたがらずに居る幼い部分もまた少なからず残っているのだが。


――それにしても、どこにむかってるんだ?


 この先と考えて真っ先に浮かんでくる場所にとてもいく気分ではないロイは、敢えて他の可能性を指折り数える。

 付いてこいと言われるままに馬車に乗ったのは、太陽も上りきらない刻限。

 休憩もなく走り続けた結果この数時間目にしたものと言えば、苔色に染まった大地とエンディルの顔だけだ。

 休日に何の罰だろうと考えるのは、5度目で馬鹿馬鹿しくなってやめた。


「……久しぶりに休みが重なったのに」


 直後、効果音の付きそうな程顔をしかめたロイは、己の呟きを聞かなかった事にする。

 気分を変えようと窓にかかる目隠しの布をめくってみるが、弾む御者(ぎょしゃ)の背に見え隠れする馬の尻が艶々と光るのみだ。

 結局のところ彼もまた師に(なら)って、快適な道中を睡眠に費やすことに決める。


「って!」


 しかし揺れる車体に数回座り直したところで、前頭部に軽い衝撃。

 案の定、瞼を上げた先では首を回しながら降車する男が居た。


「ついたぞ。お前、私より先に降りるのが礼儀だろう、まったく。いや、寝不足の可哀想な“弟君”をあまりせめても可哀想かな」


「――すいません」


 一体何を使って殴ったのか、後引く痛みを堪えながら見回した周囲は先程までのだだっ広い景色が一変、賑わう街の停車場だった。そこは最近では仕事の一環として、ただの学徒としてエンディルのもとにいた数年前までは子爵に引き摺られる様にして何度も訪れた街。


「いくぞ」


 さっさと歩きだす男の半歩後ろをついて行く。

 初めてここに連れて来られた時のロイは今よりもずっと小さく臆病な少年で、この街の中心にあった屋敷を見ただけで脅えていた。

 思えばそこを逃げ出した夜が彼の短い人生の中でも最も勇敢な瞬間であったのかもしれないと、その時のロイは塞込んで子爵を楽しませたのだった。


「まだこのくらいだったお前が、生意気にも私の元に師事したいと喚きながら来た時にな」


 歩調を緩めたエンディルが膝のあたりに掌をかざして振りかえり、「そんなに小さくない」と反論する声に笑って続ける。


「まったくこれはいい鴨がきたと思ったな。姉に心酔する阿呆なお前を私の忠僕にする妙案が浮かんでからは、随分と良い気分だった」


「大通りのど真ん中で口にするには相応しくない発言かと」


「『お金が稼げて尊敬される仕事をください』」


「語弊があります」


 当時屋敷から出たばかりの世間知らずの子供なりに考えてわかったのは“家も後ろ盾も何もかも無くした自分には、その身ひとつしかない”と言う事。

 それから“ジョセフ・エンディル子爵と言う男はその手に余る庶務を任せる者を求めている”という話を馬鹿正直に信じた少年は、これまた馬鹿正直にカルムを介して出会った子爵に『何でもするから雇ってくれ』と頼み込んで高らかに笑われた。

 ロイは今思い返しても、あれだけ失礼極まりない子供を雇った――数年様子を見て素質なければ則廃棄の契約付きだが――エンディルの腹の底が見えない。

 そもそもロイの願い云々など聞く気はなく、本当にいい鴨にしか見えて居なかったかもしれないが、そこまで行き着くと何とも言えぬ心地になるので思考は早々に打ち切る。


「お前は生意気で阿呆で色事に関しては木偶(でく)もいいところだが、無能ではない――いや寧ろさすがのものだと高く買っている。血は争えないとは良く言ったものだな」


 気付けば子爵が管理する蔵の一つに付いていた。

 門番に軽く手を挙げて奥まで辿り着いたエンディルは、錠付きの棚からよれた羊皮紙を引っ張り出してロイに手渡す。


 羊皮紙とは豪勢だなと紙面をさする青年に事も無げに告げられる。


「ロイ、お前にエンディル子爵の称号をやろう」


 そのまま数回なめらかな手触りを堪能したロイは、のろのろと視線を動かしてそこに書かれた叙爵(じょしゃく)の旨を読み取り顔を上げる。


「――は?」


「ただ今のお前では駄目だ、紙の上の知識しか無いお前では役に立たないからな。まあそこはいい。私が適当にほっぽってやるから、そこでなんとかしてこい。うまくやったら、子爵位をくれてやる」


「そんな、茶葉でもやるみたいに軽く言われても。第一、爵位なんてそう簡単に継承できるものじゃないでしょう」


 真偽を図りかねているロイの手から羊皮紙を抜き取り元の棚に押し込むエンディルは、鍵を放り投げると出口に向かう。

 慌ててそれを受け取ったロイは、この男の腹を覗くには割腹するしかないかもしれないと鍵を睨んだ。


「しかしまだ憂いがあってね……ところで私は明日までここでやることがあるんだが生憎とお前を伴えるものでもない」


「……まさか、叙爵状を見せるためだけに」


「その為だけに連れてきた。疑われても面倒だからな。あとは1人であんな長ったらしい距離を移動するのはつまらん。それで、帰りはあの馬車で帰ってかまわないが、今日はこの街で宿を取るか?」


 馬車の中で豪胆な爆睡ぶりを見せた男は、およそ答えのわかりきった問いをよこす。

 おかしそうに細められている眸を見返して、ロイはなるべく淡々と答えた。


「いえ、帰ります。馬車も乗合のもので帰るので大丈夫です」


「外泊くらいしないと、いい加減暑苦しがられるぞ。そうそう、棚の鍵は無くすなよ。一大事だ」


「貴方のものでしょう! それにこんな書庫の奥に叙爵状を置いてる人は大陸に貴方ぐらいですよ!」


 ロイが勢いよく突き出した鍵を一瞥した子爵は、彼が何より護るべき文書を血縁も何もない若造に握らせることなど気にしていないかのように笑った。


「私のところの門番は優秀なんだよ。それよりこの付近で美味い菓子があるらしいんだ。いくつか買っておいてくれ。確か店名が――」


 ほくほく顔で平民向けの菓子を語る貴族を、その後継者候補となったらしい男は化け物でも見る様な目で見つめるが、右掌に乗った小さな鍵を思いだすと慌てて胸元に仕舞い込んでから何度も確認して子爵の後を追った。





 世の中不思議な事も驚く様な偶然も山ほどあるが、これを偶然としていいのかロイにはわからない。


「すいません、もうしばらくしたら焼けますので」 


「急いでいないので平気ですよ。こちらこそ無理言ってすいません」


 こんなインクでも啜ってそうな男が、何を血迷って甘い菓子を買い込むのだろう。そう聞こえてきそうな視線を幾つか受け流しつつ、ロイは通路を挟んだ隣の席をちらりと見遣った。

 書き入れ時を終えた店内では隣の話声がよく届いた。

 貴族の屋敷、仕事探し、等々、あまり嬉しくない単語が耳に入るたびに彼は苦い茶を口に含んだ。


――さすがに、ここは大人しく帰るべきかな


 やがて隣の客が席を立つと同時に凄まじく甘い香りの漂う菓子の包みが目の前に積まれて、その図った様な間合いに片眉を上げたロイは、香ばしい空気を撒き散らしながら急ぎ足で店を出る。


「アンナ」


 甘ったるい匂いに毒された様な声が出て驚くが、けれど棘のあるものよりずっとましだと彼は僅かに安心する。


「ロイ」


 困った様な表情だったアンナは、すぐにそれを崩して笑いだした。


「ねえ、すっごいいい香りしてるよ。通る人皆、鼻が動いてる」


「いい宣伝になるだろ」


「もうちょっと包みをこう、見やすく」


 ロイがわざとらしく菓子の包みを掲げると、何人かはそこに書かれた店名とすぐ近くの店の看板を横目で見比べるものだから、2人は小さく肩を揺らした。


「こんなところで会うなんて、エンディル様と一緒?」


「少し前まではね。これ買っといてくれって頼まれて、今から帰るとこ。アンナもそろそろ帰るだろ」


「うん、しばらくしたら直通便の最終だから。でもその匂いじゃ顰蹙(ひんしゅく)買うわよ、少し歩いて最終便にしよう」


 自然と並んで歩き出すと、アンナの手にも小さな包みがぶら下がっていた。

 エンディルのものとは別に買った菓子は食べきれないかもしれないなと、ロイはアンナの手から荷物を受け取りながら胸元の鍵を確認する。

 当たり前だがそこに固い感触があった事に安堵して、少し上等な乗合馬車の乗り場へとさり気なく向かう。どうせ彼女のことだから、行きは箱詰めされた菓子よりも窮屈そうなものに乗ってきただろうと考えながら。


 停留所の手前には夕日を浴びた侯爵邸が静かに、しかし威風たる風貌を見せて居た。


「なんだかこうして2人で外から屋敷を見るなんて、変な感じだ」


「そうね」


 短いながらもしっかりと深く頷いたアンナは、しばし瞑目してから口を開く。


「ねえ、さっき聞こえて居たかもしれないけど、私はここに仕事を探しに来たわけじゃないの」


「――うん」


「恥ずかしいけど、今までどうしても来れなくて」


 ふと、ロイが立ち止まり、数歩歩いて気付いたアンナが振りかえる。


「ならどうして今日は来る気になったんだ?」


「こんな歳になってもぐずぐずしてるのは馬鹿だって、やっと気付いたのよ。いい加減知ろうとしなければ、一生わからないままになりそうなこともあるしね」


 苦笑して肩をすくめる様が不自然で無ければいいと、アンナは高い位置にある眸を見つめた。


「僕は自分が君を困らせてばかりのわからずやな男だってわかってるよ。アンナが考えている事も少しは理解できるくらいにはまともになったつもりだ。でも、それでも」


 こんな場所で、菓子の愛らしい包みを抱えてする話じゃないことくらい、ロイは重々承知していた。

 けれどこんな時だからこそ目の前の女は静かに自分の言葉を待ってくれている。そう思うと、自身の間抜けさなんてどうでもよくなってしまう。


「アンナが好きで仕方ないんだよ。親代わりとか、そう言うのじゃない。僕はこの8年活字ばっかり追いかけてきた木偶の坊だけど、これだけは、つまり――くそ、上手く言えない」


 紺の髪を苛立たしげにかき上げたロイは自分達も夕日に赤く照らされていることに気付くと、彷徨わせた視線をまっすぐアンナに向けて、もう一度同じ意味の3音を呟いた。



※前話までは漢数字を使用していましたが、英数字に統一します。改稿が終わるまで気になるかもしれませんがなるべく急ぎますのでご容赦ください。

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