6、彼女の爪先
アンナと暮らし始めた当時ロイは十歳、教会にてカルムより三年間の教育を施され、その後は識者と名高い子爵の元へ通うこととなった。
顔合わせでまだ幼く頑なな少年の反応を、エンディル子爵は大いに楽しんだようで、それを見守るカルムの「いつでも話を聞きますからね」という言葉に若い二人は神妙に頷いた。
「ロイ、ご飯出来たよ」
一つだけある寝室を棚と布で分けたうちの片方、古紙の香り漂う方へと呼び掛ける。
何とも哀愁のあるそちら側が、しかし十三になる少年の私室だ。尤もこのところ、もう片側からは常に安いインクの鼻に付く匂いが放たれている為、二人は互いの私的空間について何も言わない。
「寝たのかしら」
彼女は目隠しに垂らした毛織物を潜るか暫く悩んだ。
何時も同じ位置を持つ為に一部ばかりが解けた刺繍をじいと見て居た彼女は、結局部屋の戸を内から三度叩いた。
もう一度腕を上げる前に掠れた声が返ってきて、この三年間で恐ろしいほど成長した少年が姿を見せる。
「ごめん、本読んでて気づかなかった」
ばきばきと凝り固まった身体を鳴らす彼の視線は、同居する女と殆ど変わらない。
「キリの良いとこまでいったの?」
「うん、大丈夫」
指で揉み解す目元は酷使していて、数年内には眼鏡が縁取ることになる筈だ。そうすれば彼はまた、あどけなさを消すのだろう。
この頃のアンナは、彼の成長に驚きつつもあと五年ほどで訪れるこの生活の終わりを見据えていた。
彼は既に殆ど姉の手を必要として居ない。
とは言えこれまでも、ロイの少年から青年への変化を支えるのはカルムであり、これからはそこにエンディル子爵も加わるのだろう。
幼さを消した少年は、父親の面影を色濃く見せる。
「エンディル様とはどう? 最近はその、上手くいってるみたいね」
あからさまな苦い表情に、問う声も尻すぼみになる。
「初対面の時よりは大分マシ。上手くいってるといえば、嫌味をもっと嫌味ったらしくこねるのは上手くなったね。何せ僕がわざわざあの人の居ない時間帯に書庫に行っても、どっかからやってきておもちゃにされてるんだ」
「あぁ、好きなものは虐めたいって方なのね」
「……それ、本気で言ってる?」
「割と」
やめてよ、と顔を覆う姿は姉の目に大変可愛いらしく映る。
度が過ぎるが、子爵もこんな心持ちでロイに接しているのかもしれない。そうはいってもやはり、度が過ぎるが。
それにこのところ目に見えて疲れて居るのもアンナの気のせいではないはずだ。
恐らく先程も机の上で眠っていたのだろう。腫れぼったい寝惚け眼が隠し切れていない。
――またカルムさんに相談に行こう
弟の姿にそっと決心したアンナには、もう一つ気がかりがあった。
「それより、そっちはどうなの。新しい仕事」
「うん。食堂の給仕もよかったけど、こっちの方が合ってるみたい。紹介してくれたカルムさんには感謝してる」
言いながら、くるくると空中でペンを滑らす真似をする。
綴りの誤りなく文書を書ける一般女性は珍しい。
屋敷でマリノアから教育を受けていたアンナは、その数少ない内の一人だった。
それを生かして平民相手の代書人の仕事を始めたのは、ロイがエンディルの元に通い出したのと同じく数週間前だ。
働き口を手配したのはエンディル子爵であると、つい最近カルムから聞かされた。そしてそれを子爵に頼みこんだのは、目の前で満足そうに笑うロイであるとも。
日がな動き回る仕事に、アンナが限界を感じ始めた頃のことだった。
「なら良かったよ。けどさ、前から思ってたけど、アンナってやけに読み書きに強くない?」
「なに、急に。お姉ちゃんに対抗意識?」
「からかうなよ。このご時世に珍しいんだぞ、どこで習ったか気になるんだ」
「言ったじゃない、私は実家が商いをしていたのよ。小さな問屋でね、読み書きはそこで自然に。最低限の教養は多分上の兄弟からかな、小さかったし覚えてないけどね。でも今のロイより知ってることなんて、せいぜい字を真っ直ぐ書くコツくらいね」
あとはペンも回せるのよとアンナは笑い、向かい合う少年は口をひん曲げる。
出来ずに悔しがったロイが泣いたのは、もう何年も前の笑い話だ。その時へし折ったペンは今も大切に取ってある。
「……あの屋敷では?」
笑みが苦笑に変わるのを気づかれない様に、夕食を口に含む。けれど少し冷めているそれに、彼女は眉を潜めた。
思い出したように振られる屋敷の話に、その先にある彼の本音に、彼女は知らず視線を下げる。
――私達が屋敷で何をしていたのか。それをロイは、知りたがっている。
どうにも話の持って行き方が不自然で、不器用で、緊張に揺れる眸を見ると胸の辺りがちりちりとした。
「マリノア様、って言ってもわかる? そう。あの方がね、色々なことを授けてくれたのよ」
「ふうん……そうなんだ」
当時は何もわからなかった小さな彼も、薄々感付いて居ることは十分あり得る。
彼と彼の母親の世話をしていた少女等と、彼の父親。屋敷を逃げ出す夜に見た、狂気を滲ませる男の執着と、その先に居たアンナ。彼等の放った言葉。
聡い少年は、成長するにつれその意味を理解していても可笑しくない。
――私は。父親の妾、愛人? 愛は無いのだから、ただのお手付き?
惨めになるのは未だあの男を鮮明に覚えて居るからだと、彼女は息を吐く。
――どちらにしろ、一緒に居て気分の良いものじゃないわね。
そこまで考える事すら出来ずに勢いのままに走り出した数年前。
今は言うべき時がわからず、足踏みしている。
それきり黙々と食事をしだしたロイの耳元から流れ落ちる髪――屋敷の男よりも明るい、紺青の美しいそれ――は、やはりアンナの視線を捉えて離さなかった。
「……さん、お姉さん!」
「――っ」
がくんと傾いた身体を持ち直して最初に目にしたのは、水分を吸って不格好に脹れたパスタ。
それから顔を上げれば、少し前に別れた兄弟と、二人に良く似た女性がアンナを見下ろしていた。
「あれ? なんで……」
冷めた食事と目の前の三人を見比べている内に、寝惚けた頭には数時間前の映像が浮かぶ。
人に溢れた侯爵邸前で兄弟の母をなんとか見つけ、三人とはすぐに別れたのだ。
久しぶりの屋敷は何もかもが異なり、アンナの感傷をくすぐることはなかった。それでもずいぶんと長い間眺めてしまって、自分はここまで石の壁を見つめに来たのかと苦笑して、それから。
「ぼくたち奥に居たんだけどね、ずっと頭ぐらぐらしてるお姉さんがいるね―って話してたんだ」
「だからお前は! そう言うことは言うなって!」
アンナは手元に視線を落とす。
食事を取りに来て、食べもせずに寝ていたらしい。
しっかり者の兄に叱られる弟に、そんなにひどかったのかと笑って聞くと、母親が二人を嗜める。
「さっきはあんなお座なりな礼しかできなくて、ごめんなさいね。今はお一人?」
「お礼して頂く様な事は」
寝起きの頭を振って、余計に意識がぼんやりとした。
眉間をもんで、だらけた表情を引き締める。
「大したことは出来ないんですけどね。ここのお菓子って」
「すっごいおいしいの! 一緒に食べようよ!」
身体ごと割り込んできた少年が、両手で菓子を差し出した。
母と兄は目を見開いて一拍置くと、同時に叱りだす。
「違います! もう、あんたは! ごめんなさいね、これ良かったらお家の方と一緒に食べてください」
「いえ、そんな」
貰う貰えないの押し問答が少し続いて、ふとアンナはそれを眺める小さな影を見る。
差し出された包みからは、しっとりとした甘い香りがした。
「あの。もし、ですけど。もし宜しければ、お茶でも飲みませんか?」
何だか一人は味気ないから、御馳走させてください。
アンナがそう言えば小奇麗な女性は小さく笑って、それならおいしいお菓子があるんですよと包みを差し出した。
「この街は初めてですか?」
どうだろうか、アンナは束の間考える。
「そう、ですね。ちゃんと見て回るのは初めてです。随分賑わってますね」
「ここ数年で急になんですよ。国境での戦が終わってから十数年前まで一気に栄えて、そこで少し落ち込んで。この子に聞いたと思うんですけど、私はあそこのお屋敷で雇って貰って居てね。ここに来たのも数年前なんです。その頃はこの辺もまだ全然。お屋敷の仕事も、使用人皆で周辺の整備とかしてたんですよ。あんまり荒れてるものだから、お屋敷を任されてる方の指示でね」
「そんなにですか? 侯爵様の屋敷の方が……」
「ね、貴族様がこんなことやるのかーって驚いちゃいました。やってる時はそれどころじゃなかったんですけどね。もう人が足りなくて足りなくて」
「私ここからもう少し北の方に住んでいるんですけど、全く知りませんでした」
焼き菓子を頬張る兄弟の口元を拭ってやりながら、女性は穏やかに笑う。
「指揮されていた方が、あまり広めない様になさったみたいですよ。この街の人でも、知ってるのは半分くらいじゃないかしら。最近はあの頃が嘘みたいに落ち着いていますからね」
つられて店内を見回す。
陽気に笑いあう男衆、静かに本を読む壮年の夫婦、そわそわと落ち着かない年若い二人。
アンナはたった今語られたことなど嘘の様だと、それらをぼんやり眺める。
そうして考えざるを得なかった。彼女がこの地を去った原因と、今し方知った事は無関係なのかと。
『北方の権門ブライアン男爵家、領民の反乱に堕ちる』
いつか見た文字が、ふと脳裏に浮かんだ。
「そういえばアンナさん。もしかしてお仕事を探しにいらしたんですか?」
「――え、あー。いえ、今はまだ」
思考に沈みかけた頭は、碌なことをしない。
今はどこかへいってしまったその言葉を何故この時に思い出さなかったのだと、アンナは後に悔む。
来客を告げるベルが鳴り、店員の声がかかる。
「そうですか、ここは女性の働き口が多いからてっきり……そうそうそれでね、近々お屋敷の働き手を募集するらしいですよ。私の雇い主の方が、そろそろ二人くらい増やすって仰っていたんです。それも私と同じ平民から」
隣の席の椅子が引かれる音に、アンナは何の気なしにそちらを一瞥する。
その間にも、会話は続く。
横にずらした視線は、すぐに目の前の女性に戻した。
「私もすごく憧れて入ったんですよ。だって、貴族様のお屋敷ですもの」
笑顔で頷きながらしかし、アンナは内心悲鳴を上げた。
少し前まで店の机で見事に夢まで見て居た自分を叩き起こすか、馬鹿みたいに侯爵邸の壁を睨んでいた背に水をかけてやりたい。
それでもこの店で知った事実は、きっと他ではそう簡単に知りえなかっただろう。背の低い少年とじゃれながら菓子を摘むのも楽しかったと、アンナは自身を宥める。
それからまた彼女は三人とあれこれ話す内に、気付けば茶は三杯目になっていた。
「なんだか本当にお礼になってないわね、ごめんなさい」
「そんなことないです。それにこちらこそ、随分引きとめてしまって」
母親の背で眠る少年の頭をなぜると、開きかけの唇がぱくぱくと動いて、それを見た彼の兄と声を殺して笑う。
「いいえ、とっても楽しかったわ。ありがとう。是非またお話したいくらいです」
「私もです。おいしいお菓子もありがとうございました。気をつけて下さいね」
見上げてくる視線に合わせてしゃがみ別れを言うと、人ごみにまぎれて行く親子を見送る。
しばらくそのまま固まっていたアンナもまた歩きだそうとした直前に腕を取られる。女の腕をぐるりと一周する大きな掌は、痛くない程度に強く、アンナの腕を掴んで引き寄せた。
かがんだ男の口元は、赤茶の巻き毛に隠れた耳に寄せられる。
「アンナ」
彼の父親は決して呼ばなかったその名を呼ばれると、もどかしくて苦しい様な、どうにも形容し難い気分にアンナはうろたえた。
「ロイ」
呼ばれた男は眉を下げて、こちらもまた困ったように微笑んだ。