4、小さな歪み
日も落ちて随分経った刻限、外を出歩くのは酒を浴びた酔っ払いか気だるげな自警団くらいなものだった。国内でも比較的治安の良いここ北端の街では、今日もくたびれた制服に袖を通した巡回兵が朧気な灯りを揺らしていた。
ふと前方から男が小走りでやって来るのを目にして、団員は腰の棍棒に手をかけた。欠伸を噛み殺していた同僚も目が覚めたらしく、ちらりと横目で隣を確認する。並ぶのはあどけなさを残した少年二人、この数カ月葡萄酒と香辛料の香りをまき散らす男共を引きずることが彼等の仕事だったのだ。さあどうすると焦る間もなく、不審な男は目前まで迫っていた。
「……いい加減に、僕の顔を覚えて欲しいな」
「あ! カルムさん!」
「すいません!」
灯りに照らされた眸は、常よりも更に鋭い印象を与えた。年若い少年二人はたった数歳以上の差を与える評判の司書ロイ=カルムを前に平身低頭、すっかり怯えきってしまう。その様子がロイにはまた面白くないのだが、一つ息を吐いてやり過ごした。
「いいよ、悪かった。ただ僕はこのくらいに帰ることが良くあるから、覚えてくれると助かるよ」
「は、はい! 有難うございます!」
我ながら随分偉そうな口の聞き方だと思いつつも、ロイは幾らか表情を和らげて続ける。
背の高いロイよりも余程体格の良い彼等が何を脅えて居るのかと不思議で仕方ない。
「そんなに年も変わらないんだろ? 変に畏まんないで。ああ、あと」
「はい、なんでしょう!」
「僕のことは名前で読んで。じゃ、お疲れ様」
「は、はぁ」
間抜けな返答を聞いて居るのか居ないのか、薄明かりにグラスをひとつ瞬かせて男は足早に去って行く。
「あ、お疲れ様です!」
八年前に突如現れた姉弟は、街では何時も噂の渦中にあった。全く異なる容姿の彼等は、しかし同じ姓を名乗り街角の借家に暮らし始める。一切の家事をこなしながらも昼間は働きに出る姉のアンナ=カルムと、幼少より学に身を投じ続け今尚図書館で司書として日がな学ぶ弟のロイ=カルム。街の者なら誰でも名を知るカルム姉弟は、今では小さな一軒家へと移り住んでいた。
「ただいま」
アンナがその購入を渋りに渋った我が家に帰るこの時、ロイは緩む頬を押さえることが出来ない。借家の頃、家賃は当然のごとくアンナが全て負担していたが、あらゆる事を彼女に負わせる関係をロイは一刻も早く終わらせたかった。そのこともあり、彼女を説得したその足で新居を買いに走った挙げ句、一ギンも払う暇を与えずに契約を終えたと知ったアンナの怒り様と言ったら、それはもう凄まじいものだったと当時を知る誰もが話す。
「なら家具は私の好きに買うわ! 文句は無いわね!」とあらゆるものを買い込み家中を調えてから今日まで、それらは二人の日々にすっかりと馴染んでいた。
他人が見繕った空間がこれ程自身に心地好いのは、長く伴に在ったからか、彼女が彼女であるからか。
「また寝てる」
薄暗い部屋の中で机に伏す女と、綺麗に盛られたままの食事。眼鏡を外しながら皿の一つに目を止めたロイは、器用に片眉を上げてから寝息をたてる女を揺する。
「アンナ、起きろよ。アンナ」
沈黙の後、のそりと顔を横にして寝ぼけ眼がロイを捉えた。小さく呻いてはすぐに眠ろうとするものだから、何度も根気よく声をかけてやる。
例えば今すぐ彼女を抱き抱えて寝室に運んだとしても、この安心しきった顔が強張ることはない。それがロイには不快でたまらなかった。見事なまでに整えられた自分好みの、いや寧ろ自分の為にある様な据え膳に手を伸ばしたのは気も遠くなる回数、しかしそのどれも耐えたロイの苦悩を讃えてくれる者は誰も居ないが。
「……うん」
「いや、うんじゃなくて。食べてないんだろ? それとももう寝る?」
「んー……少し」
「どっちだよ。もう、先に食べてていいって言ってるだろ」
どうせそのうち起きるだろうと、冷えきった鍋を火にかけて待つことにする。八年間余程の事がなければアンナは二人が食事を共にとることを徹底し、またロイが一人きりで夜を明かしたことは一度たりともなかった。もっとも、寝台を同じくしたのは教会での数日だけで、今ではもちろん寝室も異なる。
きっちり締めたシャツの留め具を外し纏めた髪も崩して煩わしげにかき上げていると、鍋から漂う薫りが鼻をくすぐった。まだ浅く眠ったきりのアンナにもスープをついで、ふと彼女の足下に落ちる紙に気付く。
見覚えのある地名と馬車の停車地、それから宿場の地図が有り、どれも横には時刻が記されていた。暫く眺めた其れを動き出したアンナの手元に戻している間に、小さな頭がやっと持ち上がる。
「う、あー首、首が……ロイ、おかえり。お腹空いたでしょ」
「ただいま。机で寝るから寝違えるんだろ。ほら、早く食べて寝よう」
むすりとした弟に促されて、アンナは苦笑しながら匙を取る。
こうして時折夜更けに帰る彼は、必ず眠気に負けている姉に怒っているような喜んでいるような、おそらく彼自身掴みきれていない感情を示す。その様子に可愛いなと微笑めば忽ち憤怒の形相が出来あがってしまうだろうから、手元の皿をぐいと差し出すに止める。
「うん、ありがと。あとこのサラダはロイの分だから」
「僕は菌類なんて食べたくない」
皿から視線を外して口を尖らせる姿が急に幼くなるものだから、アンナはつい意地の悪いところが燻ぶるのを止められない。
「良いこと教えてあげる。これには茸って名前があるのよ」
「……半分でいい」
その日のことをポツポツと話ながら食事は進み、いつの間にかしまわれた紙についての話題は出てこなかった。
「あぁそうだ。明日出掛けたいんだけど何か用事ある?」
カップを傾けたまま暫らく考え込んだアンナは、申し訳なさそうに口を開いた。湯気が白い肌をなぞりながら昇って行く。
「ごめん。朝から用事があるの」
「ならまた次でいいよ」
「ん、ごめんね」
食器を片付けるために二人で洗い場に立つのも、この八年間で作られた習慣のひとつ。それらはどれも長年変わらずにあったが、並んで立つアンナを見上げていたロイは数年後には隣を真っ直ぐ見て話すようになり、今は鼻ほどもない頭頂部を見下ろす。その内に差はもっと開き、アンナは悔しげに顔をひきつらせるのだろうと想像も容易く、ロイは苦笑する。
「また小さくなった?」
「そうね、あんなに可愛かった弟の態度が馬鹿みたいに成長したからじゃないかしら」
アンナがひくつく口元を抑えながら答えれば、成長期真っ只中の弟はさも愉快そうに見下ろしていたから、縛り癖でうねる紺の髪を引っ張っておいた。
「さっきの続きだけど次の休みっていつ? なるべく合わせて取る」
「あー、しばらく休日は埋まってるの」
「そんな先まで? 最近多いな、男でも出来ましたか、アンナさん」
「ふふ、内緒よ内緒。ちゃんと日が変わる前に帰るから大丈夫」
「ふうん」
近頃繰り返されるこの流れが見えたら退散するのが一番、アンナはひらひらと手を振り自室に逃げ込んだ。
「アンナってさ」
姉曰く、無駄に栄養の吸収が良い男のこれまた無駄に伸びた手足が進路を阻んだ。膝に乗せて居たのはもう遥か昔のこと。
見事に成長した青年が、日に日に懐かしい姿を呼び覚ます。
「僕をこれだけ過保護に温く育てたくせに、最近随分突き放してくれるよね」
ペンだこのざらついた感触が頬を掠めて髪へと辿る。その動きをまるで無表情に眺めていた女は、途端に挑発する様な仕草で振舞う。
「おかしいわ、どこに行っても胸焼けしそうな甘さだって言われるのに?」
「ほらまたその口調。最近どこにいってるんだ、せめてそれくらいは知る権利があるだろ? 僕は君の大切な大切な弟なんだから」
「ちゃんと早くに帰ってるじゃない。家族っていうのは何でも話すわけじゃないの。ロイだって私には言いにくい事あるでしょ? はい、これ以上はもう御終い。明日は出かけるの、早く寝なくちゃ」
「まだ話は終わってない。アンナ!」
この手の会話を始めれば即座に逃げ出す女は、今夜もまた薄い扉で男を拒絶する。
忌々しい木戸を睨みつけてみてもそれが開くわけも無く、それからすぐに街の明かりがひとつ消えた。
翌朝居間に降りたロイが見たのは、テーブルの上に用意された三食分の食事と留守を頼む書き置きだった。
用意した女の気配は朝方どこかへ出掛けて行った。彼女を困らせるばかりの男の世話をやいてから。
――また僕を何もできない子供みたいに甘やかすんだ
「くそ、これじゃあ僕は我儘な弟に違いないじゃないか」
浮かんだ言葉に心底うんざりして、彼もまた家を出た。




