3、二人の選択
男はいつだってアンナを見ていなかった。恥辱に泣きも喚きもしない自分が愚かしく思えたのは、ほんの数回片手で足りるほどの事。娼婦だってその時だけは確かに客の求める女であれるのに、数日に一度暗い閨でしか合わないこの男はそれすら叶えてくれない。「ステシア」と呼ばれる度にいっそどこまでもその女を演じてやろうかと考えたが、どうしてもアンナの内のどこかが唇を引き結ばせる。だからひたすらに愛を囁く男を見上げて、揺れる髪を眺めながら女の事を考えてみる。この寂しく哀れな男が焦がれて止まない女のことを。
「マリノア! おい誰かいないのか!!」
アンナはただ信じられないで居た。徐々に近付くその声は感情に溢れて、彼女の知る男のものだとは到底思えない。
知らず後ずさる彼女の腕を掴んだのは、同じくらい蒼白な顔をしたマリノアだ。マリノアはまるで判事が罰を告げるように重くゆっくりと口を開く。
「すぐに東口へ向かいなさい。旦那様の声が聞こえたなら、そこから離れることだけを考えるのです。馬車の者もあなたを待ってくれるでしょう。さあ!」
飛び出した部屋からは怒声と何かを叩き付ける音が続けざまに響く。部屋から離れた勝手口に辿り着く頃には、激しい靴音がアンナを追い込んでいた。しかし扉の先に広がる庭を見たアンナはしばし動きを止め、感覚のみを頼りに飛び出した。馬車が来るはずの門とは別の方向へ。
「ステシア。どこだ、ステシア」
「旦那様お待ちください!」
駄目だ、彼に見つかってはいけない。
せめてもう少し、あの離れまで。
「ステシア、待ってくれ。ステシア、ステシア」
マリノアの言葉を何度も反芻する。
――ここに残る者の身に危険があるのなら、それなら彼等は、あの子はどうなる。そもそもマリノア様の言葉を鵜呑みにすべきとも思えないけれど、あの脅え方は異常だった。
せめて一目確認して、いなければ其れでいい。
「――!」
「ステシア」
骨ばった指が食い込むほど強く抱きすくめられて、呼吸すらままならない苦しさで男の身体を必死に押し返した。
アンナがもがいても呻いても男は同じ名を繰り返し呟くばかりで、その弱々しい声が漏れる度に掴む力は加減を無くして行く。痛いと口にする間もなく更に力が込められ、その瞬間に骨の軋む音がする。アンナは恐怖に眼を見開いた。ぐ、と強まった力にぞっとする音が頭に響く。
「う、あ……」
男は決して拘束を弛めない。痛みに鈍る頭を回してどうすべきか考えても、どれもちっとも役立ちそうになかった。
追いついたマリノアは崩れ落ちる二人に悲鳴をあげたが掠れて音になりきらず、代わりに女の笑い声がころころと鈴の様に鳴り渡る。場にそぐわないそれにどうあっても絞まっていた腕が震えたかと思うと、男は大儀そうに首を上げた。
「アンナが苦しがっているわ。放してあげて下さい」
「お前は……」
「あらあら、私の名すら忘れてしまったのですね、貴方は。いえ、そうさせたのは私達ですからこれでは可笑しい」
ゆるゆると首を振る女は、虚ろに庭を眺めていた面影は微塵も無い艶やかな所作で此方に歩み寄る。
「でもね、もう駄目なんですよ。“姉さま”はもう皆逃がしてしまいました。そこのアンナも出て行けば、それで御終い。ね、もう御終いなのよ、ルシード」
「何を……言ってるんだ、お前は。それに、その話し方は何だ。やめろ」
男の言葉に女はとびきりの喜色を浮かべて身体を揺らし、愛らしく両手を合わせる。これほどに嬉しいことはないのだと言うかのように。
「そっくりでしょう? だって私はあれからあの子を授かるまでずっと“ステシア”だったんだもの。ルシード、そうよね?」
そうしてまた女は笑いだす。ただ一人笑い続ける。
強い拘束から解放されたアンナの肺は必死に呼吸を繰り返すために、それが刺激となり胸部に痛みが走る。皮肉にもその鋭利痛が冷静な彼女を呼び戻していく。侍女仲間のタチアナに起こされて以来靄がかっていた思考が整然さを取り戻し、そっと視線を巡らせば暗闇に黄色い灯りを漏れ流す戸の隙間、良く知る紺の髪が揺れていた。
「……っ」
思わず顔を歪めるアンナに向かって小さな唇が少し、本当に僅かに言葉を紡ぐ。
――つれていって
意味を考えるまでもなかった。目一杯地面を蹴り走り出したアンナに、大人達はしばし唖然とする。この数年すっかり淑女然と振舞っていた少女は、激痛に悪態をつきながら両足で翔けた。
「待てステシア!!」
「アンナ、走りなさい!」
くそ、すごく痛い! どうしろってのよ!
たった少しの距離が恐ろしく長く感じられて、それでもなんとか少年が伸ばしてきた腕を取ったが、男はすぐに追って来ていた。
立ち止まったまま一度瞑目して、ゆっくりと振り返る。
どうする、どうすればいい。考えろ。
「頼む、逃げないでくれ」
雲に身を隠していた満月に照らされる中、アンナは縋る男の顔を見上げる。
「ステシア……」
いつかと同じように月に照らされた髪から覗くのは次々に涙を零す眸。
黒にも紺にも変わる髪が光を透かすと青みを増すのを知ったのは、男のもとへ初めて渡った夜だった。あの日から幾度と見上げた紺青の間から見た男は何時も不自然に顔を歪めていた。
彼は今も同じ眼差しで、だが今はその目を濡らしてこちらを見ている。
縋る様な愛しむ様な、それでいて何よりも憎しみの色濃いあの眼でこちらを――アンナを――見て、男は泣いている。
それは初めてアンナ自身に向けられた感情であったのかもしれない。
止め処なく溢れる涙を拭いもせずにアンナを凝視していた男は力なく崩れた。それを受け止める掌が、紺の髪を優しく撫で付ける。
「違うでしょう? 彼女は姉様ではない。あの頃の姉様はもう、貴方のその目を見ることすらできなかった。恐れ慄くばかりだったものね」
白く繊麗な指で男を宥めながら囁く言葉を、男が果たして理解したようには見えない。アンナを映す眸に有ったあらゆる情念すらもはや見えない。
美しい女はかつてなく艶やかな面をアンナ達に向けた。
「さあ、アンナお行きなさい。それからお前も、ここに居てはならないわ」
右手の中で小さな掌が震える。
「皆様は、どうなさるのですか。夜明けに一体何が」
アンナの問いに女は微笑むばかりで、腕の中の男を大切に大切に抱き締めた。草を踏む音がして、常の粛然としたマリノアが答えた。
「私達は、罰を受けねばなりません。血を絶やすのであれば、本来はその子も残るべきであると私は考えています」
要領を得ない言葉ばかり聞かされて、アンナは首を振り二人を睨む。
「先程から、皆様の仰ることは何もわからない。それに血を絶やすだなんて。この子は、あなた方の子でしょう」
「本当にもう時間がありません、これ以上は彼等も待っていないでしょう。その子をどうするかは、そうですね、私達の決めるべき事ではないのかもしれない。ですがまだあまりに幼い。孤独に生きる事が最良とは思えません」
「アンナ」
ハッとして視線を下した先に居た少年は、彼の母親を見据えていた。接する度に稚く振舞っていた彼は今はっきりと告げる。
「アンナ、僕をつれていって」
「……ええ、いきましょう」
大きく頷き握る掌に力を込める。
「貴方は自分で思うよりずっと非力な娘なのですよ」
「そうですね。それに私は何もかもわかっていないのでしょう。最良と言うものもです」
どんな浅薄な事を発しているか考える余裕などなかった。
「――ですが、幸いな事に彼も私も同じ方を良しと考えて居るようなので。私達はそれを選びます」
「待って」
引きとめたのはマリノアではなかった。ちらりと我が子を見た女は反射的に脅え出すその様子に目を細めた。
「お前の名はロイと言うの、覚えておきなさい。」
「……」
「アンナもう行って頂戴」
それぞれの視線を受け止めてから背を向ける。男は何の動きも見せずに、紺の髪をはためかせていた。
アンナはわからなかった。自分が何をしているのか、今夜と言う時に何が起きたのか、夢中で手に取ったものが正しいのかどうかも。
遠くから彼女を探す抑えた声が聞こえてきて、それだけが二人を導く。
駆け抜けた庭は満月に照らされ、足元には踏み荒らされた花々が鮮やかに死んでいた。
――痛い
ひどい気分で瞼を上げるのも億劫だった。覚醒しきれない意識の中浮かぶのは昨晩のことだけだ。痛みを誤魔化して翔け辿り着いた馬車で少年――ロイの姿を見た誰もが驚いていた事。揺れる荷馬車で激痛に朦朧としながらロイと身を寄せ合っていた事。それから、辿り着いた教会と思しき場でアンナ達を迎えた男の事。
ゆるゆると目を開いてこれまたゆっくりと数度瞬きをするが、傍から聞こえた悲鳴に動きを止められた。
「アンナ!」
朝日に流れる紺の髪もそのままにアンナを覗き込む表情は憔悴し切っていて、気付けば手を伸ばし髪を梳いていた。
「大丈夫? どこか痛いとこは?」
「今は僕が心配するんだよ、アンナ」
そう言ってむくれるロイに笑って見せて、再び襲った眠気に身を任せた。意識が浮上する度に必ず傍に座る小さな姿にやり切れない情けなさを覚えて、半ば意地で動ける様になったのはそれから数日後の事だった。
「あー情けないどころの話じゃないわね、コレ」
「確かに。まるでアンナが連れ出してもらった子供みたい」
「タチアナ、それキツイ」
せっせと鍋をかき回すアンナの隣、至極尤もな返答をくれる友人はこの数日ですっかり落ち着きを取り戻しているようだった。質素ながらも品の良い食堂をぐるりと見回せば未だ顔の蒼い少女も多く、日々届けられる情報に卒倒してしまう者も居るほどだ。
『北方の権門ブライアン男爵家、領民の反乱に堕ちる』
そうかかれた上質な紙を徐に見せた中年の男性――カルムと言う名で、アンナ達の連れてこられた教会とそれに隣接する孤児院の主であると名乗った――は、そこに書かれた『気を狂わせた男爵家当主』があの紺青の男であったとアンナ達に教えた。しかしマリノアに教わったことを思い返しながら苦心して文字を追っても、屋敷に住まい夜毎男の相手をした少女達の存在は僅かにも触れられておらず、他にも到底あの屋敷の事とは思えない様な文句が連日連なっていた。
「それであの子は? やっぱ部屋に籠ってる?」
「うん、体調はいいんだけどね。でも今はその方がいい気もして」
「まあ、そっか。教えられたわけじゃないけど、誰の子かなんて、ねぇ」
食事を乗せた盆を指さして訊くタチアナに苦笑してみせれば、承知していると言う様に声を潜めて話してくれる。
「やっぱり気付かないわけがない、か」
「それにしたって、馬車のあれは子供に向ける視線じゃないわ。カルムさんから話聞いてまた五月蠅いのが増えたし。ばっかみたい、被害者面までしちゃって」
「タチアナ、声、声。あと言葉遣い」
内心同意しつつも宥めると念の為に周囲を確認する。広めの食堂のそこかしこに白い肌をして同じ長さの赤茶髪を持つ女がいるこの光景は、見慣れない者が見ればさぞ不気味だろう。よくよく見ると顔の造作も身体つきも全く異なったのだが。
どうやら少女達は嘆き慰め合うのに忙しいらしい。同じく部屋を見終わった友人は可憐な顔に似合わずにやりと笑ってみせた。
「あら、忘れたの? 私は元々侍女なんて縁がない様なお転婆ちゃんなの」
「それ、百回聞いたわ。それはともかく――皆の様子もわからないでもないのよ、でもタチアナの言う通り私達が被害者なんて滑稽もいいとこね。それよりこれからのことよ。私なんかはそう何年も面倒を見て貰えるとは思えない。ぐずぐず泣いてる内に身売りをするしかなくなるわ。っと、ごめん一旦戻る」
「アンナも大概キッツイよ。どうするか決めたらちゃんと教えてちょうだいね。それと、自分がここの誰よりも大けがしたって事を忘れないように」
絶対安静の期日が過ぎたその瞬間から動き出したアンナに、凄まじい剣幕で怒り出したのはロイとタチアナだった。勿論労働など出来ず、やる事と言えばこうしてロイに食事を運び暇な彼の相手をするくらいだ。
急に十四歳の少女らしく不安げに尋ねる彼女に、アンナは先程の笑みを真似て口端をくいと持ちあげた。
「あら、お忘れかしら? 私も元々侍女なんてまっぴら御免の性質なの。このくらい、どうってこともないわ」
颯爽と立ち去る後ろ姿に、面食らったタチアナはぽつりと零す。
「骨にひびが入ったら“このくらい”って言わないし」
怪我をしたアンナには個室が与えられてロイと二人で使用していた。屋敷に居た頃に訊いた歳を考えれば今ロイは十歳。年頃の女と同じ部屋など難色を示されて当然だが、どうしても彼を一人に出来ずに無理を通した。戸の隙間から漏れ聞こえる声に念の為にとノックをすると、カルムらしき声が返ってきた。
「お邪魔しています」
恭しく頭を下げる男は、年上の男性から受ける扱いに恐縮するアンナにそれがかつての職業病だから許して欲しいとこれまた丁寧に詫びてきた。それ以来アンナも侍女としての彼女に叩き込まれた所作で彼に接している。
「こんにちは、カルム様」
「ですからアンナさん、私にその様な呼び方も言葉遣いも不相応ですよ」
「それなら……カルム、さん……も私に継承をつけるのはお止め下さい。私以外の者も皆緊張してしまうと言っております。話し方は、職業病ですのでご容赦ください」
「おや、これはこれは」
負けじと腰を居りながら返すとカルムは愉快そうに微笑んだ。仰々しい動きに胸部の痛みが広がり息が詰まる。自然治癒しかないと言われたが、やはり骨を痛めただけはあるなと思わず笑ってしまう。
「アンナはいじっぱりだから聞いた方がいいよ。それで、カルムさん」
こちらに来てからのロイは、あの甘えてくる様子がさっぱり消えてしまった。この時期のことだけにあまり喜ばしいとも思えないその兆候が、最近のアンナにはもっぱら大きな悩みである。
「ああ、そうでしたね。実はアンナさん、いえ、アンナにお話があるのです。といってもロイからですが」
「アンナ、こっち」
手招かれてロイが座るベッドに並んで腰を下ろし緊張した面持ちの彼の言葉を待った。
「あのね、僕は勉強したいんだ。そうしたらカルムさんが教えてくれるって、それで、そのあとも友達のとこに行かせてくれるって」
「友達?」
「私の知人の男です。何と言いますか、癖の有る方ですが彼以上の学を持ち合わせる者はここらの街には居ないと思いますね。これはまだ先の話ですが、将来彼に紹介したいと考えています」
それはまた大層な御方なのだと考えられたが、アンナには不思議でならない事があった。
「あの、そんなすごい方にわざわざ?」
確かにロイは屋敷であらゆる教育をされて居なかったらしく、アンナから文字を教わる事を楽しみにしている様ではあったが、これではまるで学者や為政者にでも為る様だ。
――為政者、ロイは父親の事を知っているのだろうか。
「もしかして、何かなりたい職業があるの?」
「それは、まだ、わかんないけど。でも、ちゃんとお金をかせがないと、だめなんでしょう? 何にも知らないと仕事はできないって、こないだアンナが教えてくれた」
「あれは、えっと、まあそうなんだけど。もっと大人になってからのと言うか、うーん」
ロイは寝たきりのアンナに多くを聞いた。彼は文字通り『世間知らず』だった。恐らく生まれてこのかたあの庭だけが彼の世界だったのだろう。だからアンナは自分の知る事を何でも話した。金の数え方から大陸に連なる国々の話までどれも熱心に耳を傾ける姿に、彼女はいつも安心していた。
あの夜のことだけはどちらも触れなかった。日々与えられる話によればロイの両親はアンナ達が去って直ぐに死んだ。
『当主ルシード=ブライアンは自室にて首を切り自害、その身体にすがる様に倒れる女の遺体からは毒を検出。また庭には旧レイシール家夫人と思われる女性が同様に自ら命を絶って居た』
人の死を告げられてもその実感はどこにも生まれない。淡々と書かれた文のいたるところに散らばる違和感がそうさせたのかもしれない。それでもあの夜別れた三人は確かに亡くなったのだと、情報を持ち寄る誰もが口を揃えるのだ。
ロイを連れ出したことが正しいのか、アンナは未だにわからないでいる。もしマリノア達の選択を知っていれば、別の結論に達していたのだろうか。何度考えてもわからない。ならば今は目の前に居るロイの事だけを見ていこうと、そこに必ず至るのだ。
アンナよりもずっと前を見据える少年に大きく頷いてみせる。
「や、でもロイがやりたいなら私は大賛成よ。がんばろうね。お話ってこのこと?」
「まだ、あの、アンナはこれからどうするの?」
一層緊張を高めるロイの様子が痛ましい。
彼を連れ出したらアンナは一人で行ってしまうのではないか、施設に居座るにしてもあと数年が限度の年齢のアンナはロイの事を預けて離れてしまうのではないか。きっと彼なりにあれこれ考えたのだろう。
ああもう! それにしたって私は悠長に鍋をかき回してる場合じゃなかったのに!
「ロイ、私も貴方に話したい事があるの」
目覚めてからのアンナはずっと考えて居た。どれが最良かなどとてもじゃないが見当もつかない。きっとこれは子供の疎い結論だろうし、拒否が返ってくる気もした。それでもそれがアンナの最良であると彼女は確信した。
「ねえ、ロイ。私の弟になってみない?」
「え?」
驚く眸に爛々とした灯がともる。どうやら自分達はまた同じことを願っているのかもしれない。
アンナは紺の髪をこれ以上なく愛しげに触れた。期待に混じる不穏な色を取り去ってしまいたいと、あどけない顔をそっと覗き込む。
「私、貴方と一緒に暮らしていきたいの。だから私と、家族になって下さい」
一月後渋る友人を一蹴し、アンナは一人教会を出て行く。それからまた半年後、少し背の伸びた弟を連れて彼女は『家』へと帰って行った。
かくしてここに一組の姉弟が生まれる。