2、月夜に揺れる
ゆらゆらゆらゆら、月夜に融けきらない紺の髪が汗に濡れ揺れる様を、少女はぼうっと見上げる。
口減らしに奴隷商へと売られた少女は下女として家々を点々としていたが、非力で無作法な子供であった彼女は下位の娼官へ売られる事となった。それを買い取った婦人に連れられて来たのが、まさに今彼女の上に股がる男の屋敷であった。しかし少女は数年を経ても未だに男の名すら知らない。男もまた彼女のアンナという名を一度も呼ばず、それでもその身体を何度も何度も抱いている。
屋敷にはアンナ同様白い肌と赤茶の髪を持つ少女が何人も居り、彼女等は昼間は使用人として働き、毎夜その内の一人が男の元へと呼ばれた。閨にいる間はまるで彼女等を愛しているかの如く慈しみ扱う男が、しかししゃがれた声で呼ぶのは腕に抱く女の名ではない。
『ステシア』それは少女達の知らぬ名だった。
ステシア、ステシアと囁かれる度にアンナはひどく惨めな、それでいて鈍い痛みを孕んだ心持ちになる。少女の胸の内など気付く筈もない男はざらついた指や舌で彼女の女の部分を抉じ開ける。熱い。苦しい。どうせなら、意識が飛ぶ程に乱暴にしてくれれば良い。他の女の名を呼びながら、優しく抱かないで。燻る熱を向けるなら、せめて今は私を。
けれどアンナは波打つ紺青をただ黙って見つめるだけ。彼女は男に与えられるものを嫌悪したことは一度もなかった。
月は紺の髪を透かして、虚ろな眸を照らしていた。
屋敷の離れには母子が身を隠す様に暮らしていたが、二人の世話もまたアンナ達の役目の一つであった。何時も窓から庭を眺める女と、紺の髪を持つ幼い少年。彼女等は決して本邸内に立ち入らず、男もまた離れに近付く事は一度もなかった。
「はい、じゃあ髪をとかしてあげましょうね」
膝に乗せてやれば少年は頬を染めながらはにかんで、背後のアンナを振り返った。
「うん。アンナ、優しくとかしてね」
そう言って年齢より幾分も幼い仕草で見上げてくる姿を見れば、彼の肩にはまたひとつ赤黒い痕が増えていた。いつもこの時だけ、アンナは彼女を囲う屋敷から逃げたくなる。アンナに甘える小さな少年を連れ出してしまいたい。恐らくこの先待ち受ける悲劇が起こるその前に。
「もちろん、折角綺麗な髪なんだから大切にするわ。ほら、前を向いて頂戴」
「うん」
アンナは軽く頭を振って、幾度となく考えた出来もしない想像を追いやってしまう。結局私は処遇の良い奴隷に過ぎないのだ、と。
「アンナ」
「はい、なんでしょう」
離れた椅子に腰掛ける、儚げで美しい女。幼い我が子に幾度となく手を上げる彼女もまた屋敷の主人と同様に、アンナ達使用人の少女の中に別の誰かを探していた。 きっとそれは、閨で何度も耳にした名を持つ女性。
「もう少し日が陰ったら、庭に出たいの」
「では、仕度をしておきますね」
「ええ」
それきりまたアンナに背を向けた彼女が何を見ているのか、それは庭の花や鳥ではないのだろうけど、訊ねたとしてその声は彼女の耳に届きすらしないのだ。
母親が近付いた事で強張った少年を解すように髪のほつれを解き、危なげに揺れる頭を抱き寄せてやる。からりと爽やかな陽気が快い日だった。近い内に夏が訪れれば、目の前の庭は鮮やかに色付き屋敷の人間を魅了するだろう。
「ほら、見てリュウキンカがあんなに。可愛らしいわね。あれは貴女の好きな花だったわね」
唐突に投げられた女の言葉に、今度はアンナが身を強張らせる番だった。
「ええ、水辺が華やかになりますね」
吹き抜ける風は、どこからか甘い蜜の香りを纏ってやってくる。
リュウキンカ――初めて名を聞いた花は全て踏み潰されて、黄色い花弁を散らしていた。
「アンナ! 起きて、アンナ!!」
「ん……な、に?」
何時もなら静まり返っている真夜中の部屋は、潜めた女の声で溢れていた。アンナを揺すり起こした少女の顔は真っ青だった。
「なに、タチアナ。あなた今夜は呼ばれていたでしょう。どうしたの?」
「マリノア様が、逃げろって。屋敷から今すぐ出ていけって!」
女のみで構成された使用人の纏め役であり、数年前に銀貨一枚でアンナを買った壮年の婦人。礼儀も作法も何一つ知らなかったアンナに多くを教え与えた、少女等の母代わりでもあった女性。何故と尋ねるよりも早く使用人部屋の扉が開け放たれた。
「皆さん、荷物は最低限に纏めて。裏門に荷馬車が来ていますからお乗りなさい。全員は乗り切れないでしょうが、しばらくしたらもう一台来ます」
常に穏やかな笑みを浮かべるマリノア婦人のただならぬ様に、少女達は何事かと身体を震わせる。出稼ぎに来た娘や奴隷商から買われた娘、道端で拾われた娘、皆様々だったが、この屋敷で初めて温かい食事と柔らかな寝床を知ったものばかり。
何故、急に。どうして。
ここを出れば、役立たずの小娘がどうなるかなど想像するも容易いのに。
「いいこと、ここを出て行くのですよ。この先の事は悪いようにはしませんから。今は急ぐのです。ただし、旦那様の御部屋の近くを通ってはなりません。静かに音を立てずに動きなさい。いいですね」
優しく宥める声色は穏やかにも聴こえたが従わせる其れだった、が、それでも納得行くものではなかった。
幾つものすがる視線がアンナに向けられ、ああ自分はマリノアを除けば侍女の年長者だったのだと彼女は思わず笑みをこぼす。十六歳で年長者とは、可笑しな話だ。
そう、おかしいのだ、この屋敷の何もかも。
使用人はマリノアと成人もしていない少女七人。屋敷に来てからは主人と離れの少年以外の男性を見ていない。それに屋敷に住む三人の名も、身分も、この屋敷の在る土地がどこかすら知らない。
それらを異常だと感じながらも、与えられるものに口を閉ざしたのはアンナだけではない。そうして少なくともアンナは、この歪で温かな場所の危うさを理解できずとも感じ始めていた。
「そのようなこと急に聞かされても困ります。 一体どうなさったのですか? 私共が何か粗相をしたのなら、せめてそう仰ってください」
「あ、アンナの言う通りです。それに私は、どんなお役目を授かろうと屋敷に居たいのです!」
「私も同じです」
「私も!」
賛同の声が上がり出すと、部屋中の視線がマリノアを責め立てる。マリノアはその一つ一つを素早く見回して息を吐いた。
「理由を話すには時間がありません。ですが貴女方の願いを聞き入れることも出来ません。今夜中にここを出ていきなさい。これは、皆さんを買いとった所有者としての命令です」
「そんな……!」
「マリノア様、どうか」
すがる細腕を振り払って、マリノアはこれまでになく丁寧に、そしてはっきりと言葉を紡いだ。
「――夜明けまでここに残るのであれば、死を覚悟なさい」
途端に騒がしかった部屋がしんと静まったかと思うと、あちこちから落ち着きの無い呼吸が広がっていく。いち早く言葉を飲み込んだアンナとタチアナがマリノアに一歩踏み出ても、まだ指先すら動かせない者ばかりだった。
「マリノア婦人! 一体何を仰ってるのですか!?」
「貴女方には、申し訳なく思っています。これまで軟禁同然の中で、あの様な行為を強いてきたこと、全て私達に責があります。けれども今は時間が無いのです。皆さんは侍女として立派に働けるだけの振る舞いも教養も身に付いています。きっとこれから行く先でも良くして頂けます。大丈夫、大丈夫ですよ。ですから、どうかここを出て行って下さい」
マリノアの様子に一人二人と動きだし、茫然とする者も渋る者ものろのろと引き摺られて歩く。部屋に残るはアンナ一人となった。マリノアは馬の嘶き――恐らく一台目の馬車の――を聴いてから背後へと向き直った。
アンナが己を奮い立たせて唇を開けても、そこから出るのは情けなく震えた声だった。
「私達の学んだ事等、付け焼き刃に過ぎないのでしょう。何処に、追いやられるのですか? それに、それに……皆旦那様と閨を共にしました。貰い手など居るとは思えません」
「……そうでした。アンナは貴族階級の奴隷商にいたのでしたね。あぁ、それにしたって貴方はいやに賢くなってしまったわ」
「また私は売られるのですか?」
「いいえ、いいえ。謝罪の言葉は本心ですよ。ただ、そうね。娼館と奴隷商以外に貴方達を貰い受けてくれるところなど、一つしかないでしょうね。私に出来得るのはその一つへ安全に送ってあげることだけです」
「どうして……」
「いずれ解ります。それより貴方もお行きなさい。悪い様にしない、と言うのも信じて下さって構いません」
「では、死ぬと言うのも――」
「マリノア!!」
館中に響く声は、怒りと恐れに染まっていた。それはシーツの中で何度もアンナに愛を囁いた男の声だった。