1、陽光に揺れる
「アンナ、君はいつまでフラフラと遊び歩くつもり? 二十四だなんてもう嫁ぎ遅れもいいとこじゃないか。このままじゃ誰も貰い手がないまま土に埋まることになるよ」
ロイが左手で眼鏡をくいと押し込むのはアンナがもうずっと見てきた彼の癖で、それは彼がこれから言葉巧みに相手を追い詰める合図だった。僕に何か誤りがあるか? とグラス越しに寄越される視線は酷薄だ。この男ロイに不安や憂いが漂う様など町人の誰も見たことがない。彼は何時でも自信に満ち溢れていたし、そうするだけのたゆまぬ精進を重ねてきた。
「だからね、僕が取って置きの相手を考えたんだよ。アンナ、つまり」
「あら、お姉ちゃんを心配してくれるの? 優しいのね、ロイ」
言葉を遮られ、橙に塗られた唇がからかうように歪んだのを見た途端に彼は白い肌を赤く染めて、忽ち猫のように毛を逆立てた。幼い頃からちっとも変わらない様子で怒りを露にする弟の、なんと愛らしいことか。
「ほら、まただ! またアンナはそうやって僕をそこらの野良猫みたいにあしらうんだ!」
だって、猫みたいなんだもの。等と口に出すことは絶対にしない。
紺色の髪を振り乱し恨みを込めて地面を踏みつけ、寡黙で理知的な司書は怒りに身体を震わせた。その額や耳のあたり、さらさらと流れる紺の髪が綺麗で、アンナはその様をじっと見つめた。
彼は街の誰もが認める知性溢れる青年だった。彼の憎むべき、そして愛する姉の前を除いては。
「それで、今日のお説教はここまで? ならそろそろお開きにしない? 私はこれから出掛けなくちゃいけないし、ロイも午後のお勤めがあるでしょう」
優しく宥めてやるほど激昂するロイはアンナにしてみれば愛しい弟そのものだった。六つ年下の彼は何時からかこの扱いをひどく嫌うようになっていたけれど、それでもロイは大切で守るべき存在に違わなかった。そうしていつしか彼から寄越される視線が熱を帯びても、それに気付かぬ愚鈍な姉としてロイの側に在り続けている。
アンナと言う女は、そう言うどうしようもない奴なのだと彼女は自身を評している。
「――はぁ。もう、わかったよ。じゃあ僕は行くけど、早く帰るんだよ? 男も連れずに夜の街を歩くなんて馬鹿のすることだ。僕より遅くならないように、いいね」
「はいはい」
すっと大人びる姿は我が弟ながらなかなかの好青年に育ってくれたなと、生返事をする女は満足する。姉離れが終わりきっていないのは些か、否、かなり問題だが、これも姉が親代わりであったのだと考えればまあその内及第点も見えるだろう。
「アンナ、聞いてないだろう」
「聞いてる聞いてる。さ、そろそろ行かなきゃ」
さあさあと軽食屋から出してみても、お座なりな態度がお気に召さないのか、昼休憩もあと僅かな筈のロイはまたむっつりと年相応の顔を見せる。
「今日はどこに?」
「年頃の女性に聞くものじゃないわよ。はい、あと八分切ったんだから、ほんとに行かなきゃでしょ?」
渋る男の背を叩いて送ると、アンナもまたゆったりと歩き出した。いつもアンナ、アンナと思考が及ぶのは、少し大切にし過ぎたのかもしれない。まさかこれ程慕われるなどと、二人で細々と暮らし始めた頃のアンナには考えられなかったのだが。
アンナが一度だけ振り向いて立派な司書へと化けた男の背を見つめると、後ろで纏められた紺色の髪が陽光を孕んで優雅に揺れた。