青の邂逅
第1部:水面と深海
第1章:もうひとつの水圧
週明けの月曜日、東京・丸の内のオフィスビル24階。窓の外には、コンクリートとガラスでできたビル群が、まるで意志を持たない巨大な生き物のように立ち並んでいる。片瀬澄美、32歳。彼女はこの景色の一部だった。
「片瀬さん、先週のデータ、すごく分かりやすかった。助かったよ」 後輩の女性社員が、明るい声で話しかけてくる。 「ううん、よかった。分からないことがあったら、いつでも聞いてね」 澄美は、いつものように完璧な笑顔で応じた。仕事は順調だ。入社10年目、中堅として頼りにされ、社内での評判も上々。彼女の周りにはいつも穏やかな空気が流れ、その笑顔は部署の太陽のようだとさえ言われている。
だが、澄美の内側には、誰にも見せないもうひとつの流れがあった。それは、社会という名の巨大な水槽が発する、見えない水圧だ。30代独身。東京で働く女性の平均年収は370万円前後と言われるが、幸いにも澄美の収入はそれを上回っている 。しかし、その余裕は趣味であるダイビングに注ぎ込まれ、貯蓄は決して楽ではない 。友人たちの結婚報告、親からのさりげないプレッシャー。合コンや紹介の話は後を絶たないが、澄美はどうしてもその気になれなかった。目的のわからない飲み会や、誰かの評価というフィルターを通して出会うことに、息苦しさを感じてしまうのだ。
彼女にとって、本当の自分を解放できる場所は、このオフィスではなかった。デスクの引き出しの奥にしまった、小さなキーホルダー。色褪せたカクレクマノミのマスコット。それを見つめるたび、澄美の心は東京の喧騒を離れ、深く、静かな青の世界へと潜っていく。
海の中では、誰も彼女の年齢や役職を気にしない。そこにあるのは、純粋な生命の営みと、自分自身の呼吸音だけ。ダイビングは、単なる趣味ではなかった。それは、社会が求める「片瀬澄美」という役割から自由になり、ただの「澄美」に戻るための、不可欠な儀式だった。この息苦しい水圧から逃れるための、唯一の方法。だから彼女は、次の週末を、深く、深く、心の底から待ち焦がれていた。
第2章:週末の潮流
土曜日の早朝4時半。スマートフォンのアラームが鳴る前に、澄美は目を覚ました。体に染みついた習慣だ。窓の外はまだ深い藍色に包まれている。都心の喧騒が始まる前の、束の間の静寂。
手際よく準備を進める。メッシュバッグに詰め込まれたダイビング器材は、彼女にとって戦友のような存在だ。パッキングを終え、軽めの朝食を済ませると、玄関のドアを開けた。ひんやりとした空気が肌を撫でる。
集合場所の新宿駅西口には、見慣れたシルバーのハイエースが停まっていた 。ダイビングショップ「アクアノート」の送迎車だ。 「おはよう、澄美ちゃん!」 インストラクター兼オーナーの健さんが、日に焼けた顔で笑う。車内にはすでに数人のメンバーが乗り込んでいた。年齢も職業もバラバラだが、皆、同じ期待に満ちた目をしている。彼らは澄美にとって、気兼ねなく話せる「バディ」たちだった。
車は夜明け前の首都高を抜け、東名高速道路へと滑り込む。車内では、最近潜ったポイントの話や新しい器材の話題で盛り上がる。この和やかな空気感が、澄美は好きだった。約2時間半の道のりも、仲間との会話であっという間に過ぎていく 。やがて車窓の景色がコンクリートの壁から緑豊かな山々に変わると、潮の香りが微かに鼻をかすめた。伊豆。彼女の心の故郷。
第3章:潜行
彼らが目指したのは、東伊豆を代表するダイビングスポット、伊豆海洋公園(IOP)だ。日本のレジャーダイビング発祥の地とも言われ、4000年前の大室山の噴火で流れ出た溶岩が作り出した、ダイナミックな水中景観が広がっている 。ビーチエントリーでありながら、ボートダイビングのような起伏に富んだ地形が楽しめるのが魅力だ 。
器材をセッティングし、バディと互いの装備を確認し合う「バディチェック」を済ませる 。重いタンクを背負い、スロープをゆっくりと下りていく。水面に足を踏み入れた瞬間、晩秋の水の冷たさがウェットスーツ越しにじわりと伝わってきた。だが、それは不快なものではなく、むしろ心身を目覚めさせる合図のようだった。
「OK?」 バディとハンドシグナルを交わし、レギュレーターを咥える。シュー、コー、という自分の呼吸音だけが世界を支配する。ゆっくりと水中に頭を沈めると、陸の音が完全に遮断された。無重力の世界へ。
水深5メートル、10メートルと潜行していく。鼻をつまんで息を送り込み、鼓膜にかかる圧力を抜く「耳抜き」を繰り返す 。視界が開けると、そこは生命の楽園だった。季節は11月下旬。水温は下がり始めているが、プランクトンの少ないこの時期は、伊豆の海が一年で最も透明度を増すベストシーズンだ 。
太陽の光が青い水を通して降り注ぎ、キラキラと乱反射している。目の前をオレンジ色のキンギョハナダイの群れが、まるで吹雪のように舞い踊る 。溶岩が作り出した複雑な岩場「1の根」の周りには、色とりどりのソフトコーラルが揺れていた。澄美は岩陰に、ダイバーに人気のアイドル、黄色いクマドリカエルアンコウを見つけて、思わず笑みがこぼれた 。
水深18メートルを超えると、景色は岩場から白い砂地へと変わる 。残圧計を確認すると、まだ十分に空気は残っている。このまま時が止まればいいのに。澄美は心の底からそう願った。ここでは、誰もがただの生き物として、静かに存在している。ここだけが、彼女が本当に呼吸できる場所だった。
第4章:星の海の下で
ダイビングを終えた後の高揚感と心地よい疲労感は、何物にも代えがたい。ショップが手配してくれた伊豆高原のペンションは、アットホームな雰囲気で、ダイバーたちの定宿だった 。
夕食は、地元の魚介を使ったバーベキュー。健さんの豪快なジョークに皆が笑い、今日のダイビングで見た生物の話で盛り上がる。澄美もビールを片手に、仲間たちとの時間を楽しんでいた。この一体感は、同じ非日常を共有した者同士だからこそ生まれる特別なものだ 。
賑やかな宴もたけなわの頃、澄美はふと夜風にあたりたくなり、一人で外に出た。ペンションの裏手は小高い丘になっており、町の明かりが届かない絶好の星空スポットだった。伊豆の夜空は、東京とは比べ物にならないほど澄み渡っている。
天城高原の澄んだ空気の中、見上げた夜空には、まるで宝石を撒き散らしたかのような無数の星が瞬いていた 。天の川が、淡い光の帯となって夜空を横切っている。その圧倒的な光景に、澄美は言葉を失った。時間を忘れ、ただ星空を眺めていると、すぐそばに同じように空を見上げている人影があることに気づいた。
「すごい星ですね」 静寂を破ったのは、穏やかな男性の声だった。 「…はい、本当に。吸い込まれそうです」 振り向くと、自分より少し年下に見える男性が、柔らかい表情で立っていた。
彼もダイビングで伊豆に来ているらしかった。名前は高木陸、30歳。東京で働いているという。 「今日のIOP、透明度良かったですよね」 「はい! キンギョハナダイの群れ、すごかったです」 会話は、ごく自然に始まった。ダイビングのこと、東京での生活のこと。合コンや紹介の席では、いつも鎧を着てしまう自分が、嘘のように素直に言葉を紡いでいることに澄美自身が驚いていた。彼が醸し出す、穏やかで飾らない雰囲気が、そうさせているのかもしれない。彼らは初対面のはずなのに、まるで長年のバディのように、呼吸が合っていた。
この出会いは、都会の喧騒の中で意図的に作られたものではない。海と星という、二人を結びつける壮大な自然の前で、偶然に生まれたもの。だからこそ、そこには何の偽りもなかった。
「澄美さーん! そろそろお開きだよー!」 ペンションから仲間が呼びに来る声がして、二人の時間は終わりを告げた。 「じゃあ、また」 「はい、また」 名前も、連絡先も聞かないまま。でも、澄美の心には、星空の下で交わした穏やかな会話が、確かな温もりとなって残っていた。
第2部:偶然の再会
第5章:減圧
翌日のダイビング中も、澄美の心はどこか上の空だった。目の前を通り過ぎるアオウミガメの優雅な姿にも、昨日のような純粋な感動を抱けない。意識の片隅に、昨夜の彼の面影がちらついていた。
陸。彼の名前を心の中で反芻する。穏やかな声、優しい眼差し。連絡先も知らない、一夜限りの出会い。もう二度と会うことはないかもしれない。そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。ダイビングを終え、器材を片付けながら、澄美は言いようのない寂しさを感じていた。
帰りのハイエースに乗り込むと、仲間たちの楽しげな会話もどこか遠くに聞こえる。心地よい疲労感とともに、東京という日常へ引き戻されていく感覚。それはまるで、深い海からゆっくりと浮上していくときの「減圧」のようだった。急いではいけない。でも、水面が近づくにつれて、少しだけ憂鬱になる。
第6章:水面休息
案の定、東名高速道路は週末のUターンラッシュで激しい渋滞にはまっていた 。赤いテールランプの列が、どこまでも続いている。 「こりゃダメだ。足柄で休憩にしよう!」 健さんの声に、車内から賛成の声が上がる。
EXPASA足柄(下り)は、富士山を望む人気のサービスエリアで、多くの人でごった返していた 。澄美たちはフードコートで夕食をとることにした。名物の「富士山マーボーチキン」を注文し、席を探す 。その時だった。
雑踏の中から、見覚えのある姿が目に飛び込んできた。 嘘でしょ…? 数十メートル先、別のダイビンググループに混じって、陸が笑っていた。
心臓が大きく跳ねるのがわかった。澄美がためらっていると、向こうもこちらに気づいたようだった。陸は驚いたように目を見開き、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべると、仲間たちに一言断ってこちらへ歩いてきた。
「すごい偶然ですね」 「ほんと…びっくりしました」 サービスエリアの喧騒が、嘘のように遠のいていく。まるで、二人だけの周りに見えない泡ができたみたいだった。短い会話を交わし、今度こそ、二人はスマートフォンの連絡先を交換した。
「また、連絡します」 「…はい、待ってます」
それぞれのグループに戻る二人の足取りは、来た時よりも少しだけ軽やかだった。渋滞の赤いテールランプの列も、今はイルミネーションのようにきらめいて見えた。
第7章:シグナル
東京に戻った翌日の夜、澄美のスマートフォンが軽やかな通知音を立てた。陸からのメッセージだった。
『昨日はありがとうございました。すごい偶然でしたね!』 画面に表示された短い文章に、澄美の口元が自然とほころぶ。
そこから、二人のメッセージのやり取りが始まった。それはまるで、水中で交わすハンドシグナルのようだった。言葉少なでも、互いの気持ちが伝わってくる。伊豆で撮った水中写真の交換から始まり、好きなダイビングポイント、仕事の話、東京のお気に入りのカフェ。会話は途切れることなく続いた。彼の文章は、彼自身の人柄を表すように、誠実で温かかった。
数日が過ぎた金曜日の夜。 『もしよかったら、今度一緒にご飯でも行きませんか?』 陸からの誘いに、澄美は迷わず『はい、ぜひ!』と返信した。約束は、すぐに決まった。
第3部:バディシステム
第8章:初めてのデート、二度目のダイブ
二人の最初のデートは、レストランでの食事ではなかった。 「やっぱり、海に行きませんか?」 陸からの提案に、澄美は二つ返事で頷いた。
週末、陸が運転する車で、再び伊豆へ向かう。今回は二人きりだ。車内の会話は、メッセージのやり取りよりもさらに弾んだ。互いの過去の恋愛、家族のこと、将来の夢。初めて深く話すことばかりなのに、不思議なほど緊張はなかった。
この日のダイブポイントは熱海。ボートで沖へ出て、水深30メートルに沈む全長81メートルの巨大な沈船を目指す 。 「バディ、よろしく」 エントリー直前、陸がマスク越しに微笑む。 「うん、よろしくね」 澄美も頷き返した。
水中では、二人は完璧なバディだった。言葉を交わさなくても、視線とハンドシグナルだけで意思が通じる。澄美が珍しいクダゴンベを見つけると、陸はそっとライトを当ててくれる。流れが少し強くなった場所では、彼がさりげなく前に出て、澄美をかばってくれた。ソフトコーラルに覆われた巨大な船体は、まるで海底の神殿のようだった。その荘厳な景色の中、隣にいる陸の存在が、澄美に絶対的な安心感を与えてくれた。水中で誰かをこれほど信頼できたのは、初めてだった。
第9章:本日の特選
ダイビングを終えた二人が向かったのは、伊東の海沿いに佇む、地元の漁師も通うという評判の磯料理屋だった。派手さはないが、本物の味を求める人でいつも賑わっている店だ。
カウンター席に並んで座り、名物のアジのたたき定食を注文する。朝獲れの新鮮なアジが、皿からはみ出るほどたっぷりと盛られていた。 「すごい…美味しい…」 一口食べた澄美が呟くと、陸も満足そうに頷いた。
陸はハンドルを握るためウーロン茶、澄美は地元の柑橘を使ったソーダで乾杯した。美味しい料理が、二人の心をさらに解き放っていく。 「俺、今まで誰かと付き合っても、自分の時間を邪魔されるのが嫌だったんだ。でも、澄美さんとは、もっと一緒に時間を過ごしたいって思う」 陸が、まっすぐな目で言った。 「私も…。誰かに紹介されたり、無理に作られた場で出会うのがずっと苦手だった。でも、陸くんとは、すごく自然でいられる。海の中にいる時みたいに」 澄美も、素直な気持ちを口にした。
互いの仕事のこと、恋愛観。話せば話すほど、二人の価値観がぴったりと重なっていくのがわかった。どちらからともなく、惹かれ合っていることは明らかだった。店の外に出ると、夜の海が静かに広がっていた。波の音が、二人の沈黙を優しく包む。どちらからともなく、そっと手を繋いだ。
第10章:浮上
東京への帰り道。カーラジオから流れる音楽だけが、静かな車内に響いていた。でも、その沈黙は少しも気まずくなかった。むしろ、言葉にしなくてもお互いの気持ちが伝わってくるような、心地よい一体感に満ていた。
澄美は助手席の窓から、流れていく街の灯りを眺めていた。今日一日が、まるで夢のようだ。でも、隣でハンドルを握る陸の確かな存在が、これが現実なのだと教えてくれる。
「付き合って、ください」 高速道路のオレンジ色の光が車内を照らす中、陸が静かに言った。 澄美は、ゆっくりと彼の方を向いた。彼の真剣な眼差しと目が合う。 「…はい」 頷くと、涙がこぼれそうになった。
それは、劇的な告白ではなかった。深い海からゆっくりと、安全停止をしながら浮上するように、ごく自然で、当たり前の帰結だった。二人の関係は、もう次のステージへと進む準備ができていたのだ。
第4部:最果ての青
第11章:ドリフトの計画
陸と付き合い始めて、半年が過ぎた。二人の関係は、穏やかに、しかし着実に深まっていた。週末は伊豆へダイビングに行くか、都内で互いの部屋を行き来する。それは澄美がずっと夢見ていた、自然体でいられるパートナーシップだった。
ある晩、澄美の部屋で夕食をとりながら、二人はダイビング雑誌を広げていた。 「やっぱり、ここ行きたいな」 陸が指さしたのは、日本の最西端、与那国島の特集ページだった。
冬の与那国。それは、多くのダイバーが憧れる聖地だ。世界最大級のミステリーと言われる海底遺跡と、数百匹のハンマーヘッドシャークの群れ。その二つを同時に狙えるのは、北風が吹く12月から2月にかけての、限られたシーズンだけだった 。
「でも、与那国は上級者向けだよ。流れも速いドリフトダイビングだし…」 澄美が少し不安げに言うと、陸は力強く頷いた。 「だからこそ、二人で行きたいんだ。俺たちのバディなら、大丈夫だよ」
その言葉に、澄美の心は決まった。これは単なる旅行ではない。二人で挑む、大きな挑戦だ。彼らは早速、与那国のダイビングセンターに連絡を取った。冬のシーズンは予約が殺到するため、半年以上前から押さえる必要がある 。幸運にも、二人は年末年始のツアーに滑り込むことができた。その日から、与那国への旅は、二人の共通の夢になった。
第12章:日本の西の果て
飛行機を乗り継ぎ、ようやく辿り着いた与那国島は、想像以上にワイルドな場所だった。黒潮がぶつかる断崖絶壁、吹き付ける強い風。まさに国境の島、日本の最西端に来たのだと実感させられる。
宿泊先は、ダイビングセンターに併設された「民宿かいゆう荘」だった。宿泊客は皆ダイバーで、食堂ではこれから始まる大冒険への期待と興奮が渦巻いていた。
翌朝のブリーフィングでは、インストラクターの厳しい表情が場の空気を引き締めた。 「今日のポイントは西崎。黒潮が直接当たる、島で最も流れの速い場所です。エントリーしたら、すぐに潜行。絶対に水面で漂わないでください。ボートは皆さんを追いかけるドリフトスタイルです。バディと絶対に離れないこと。いいですね?」 その言葉に、澄美と陸は顔を見合わせ、強く頷いた。
第13章:ハンマーと神殿
ボートが激しく揺れる。ポイントに着くと、海の色は伊豆で見てきた青とは全く違う、インクを溶かしたような深い藍色をしていた。
「エントリー!」 合図とともに、二人は海へ飛び込んだ。水中に広がるのは、どこまでも続く青い空間、ブルーウォーターだ。海底は見えない。ただ、流れに乗って進んでいく。完璧な中性浮力を保ち、バディである陸の位置を常に確認する 。
しばらく進んだ時、ガイドが指さす先に、巨大な影が現れた。 与那国海底遺跡。 それは、テレビや写真で見てきたどんなイメージをも超越する、圧倒的な存在感だった。高さ数メートルの平坦なテラス、直角に切り立った壁、まるで神殿へと続くかのような階段 。自然の造形か、古代の文明か。その答えは誰にも分からない。ただ、二人はその神秘的な光景に、畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
遺跡を離れ、再び中層をドリフトする。ガイドがしきりに何かを探している。その時だった。 遥か彼方の青の闇から、ゆらり、と奇妙な影が現れた。一つ、二つ、三つ…。影は次第に数を増し、巨大な壁となってこちらへ迫ってくる。 ハンマーヘッドシャークの群れだ。
100匹はいるだろうか。いや、200匹かもしれない。T字型の頭を左右に振りながら、統率された動きで泳ぐ姿は、神々しくさえあった 。恐怖はなかった。ただ、地球という星が持つ、生命の根源的な力を見せつけられているような感覚。澄美は隣にいる陸を見た。彼もまた、マスクの中で目を輝かせ、この奇跡の光景を焼き付けていた。
第14章:誓い
エキジットしたボートの上で、二人はしばらく言葉を失っていた。アドレナリンが全身を駆け巡り、心臓がまだ高鳴っている。あの光景を、同じ瞬間に、隣で共有した。その事実が、どんな言葉よりも雄弁に二人の絆を物語っていた。
その日の夕方、二人は西崎の灯台にいた。日本で一番最後に沈む夕日を見るために。水平線が燃えるようなオレンジ色に染まり、巨大な太陽がゆっくりと海の中へ姿を消していく。
「すごかったね、今日」 澄美が呟くと、陸は優しく彼女の肩を抱いた。 「うん。澄美と一緒だったから、見られたんだと思う」
夕日が完全に沈み、空に一番星が輝き始める。 「これからも、色んな海を一緒に潜ろう。見たことのない景色を、たくさん見に行こう」 「うん」 「陸でも、水中でも。俺の最高のバディでいてください」
澄美は、彼の胸に顔をうずめた。返事の代わりに、強く頷く。 二人の未来は、あの与那国の海のように、どこまでも広く、深く、そして美しい青色に満ちている。これからどんな流れが待ち受けていようとも、このバディとなら、きっと乗り越えていける。澄美は、確かな温もりを感じながら、そう信じていた。
エピローグ:一年後の青
与那国の、あの深い藍色の海で誓いを立ててから、一年が過ぎた。
澄美のマンションのベランダでは、洗い立ての洗濯物の隣で、二人のウェットスーツが潮の香りを運びながら揺れている。部屋に入れば、リビングの一角がすっかり陸のダイビング器材の定位置になっていた。いつの間にか、それが当たり前の風景になっていた。
「次の休み、どこ潜りに行こうか」 ソファでくつろぎながら、陸がダイビング雑誌のページをめくる。 「うーん、そろそろ海外もいいかも。パラオとかどうかな?マンタに会いたい」 「いいね!じゃあ、ちょっと調べてみるか」 そう言ってスマートフォンを操作し始める陸の横顔を、澄美は愛おしく見つめた。
彼と出会う前、社会という名の水槽が発する見えない水圧に、息苦しさを感じることがあった。でも、今は違う。陸という最高のバディが隣にいれば、どんな深い海でも、どんな人生の潮流の中でも、安心して呼吸ができる。
「見て、澄美さん。これ、伊豆で初めて会った時の写真」 陸がスマートフォンの画面を見せる。そこには、サービスエリアの喧騒の中、少しぎこちなく笑う二人が写っていた。 「懐かしいね。あの時、また会えるなんて思ってなかったな」 「俺は、また会える気がしてたよ」
澄美は陸の肩にそっと頭を乗せた。窓の外には、きらめく東京の夜景が広がっている。かつては檻のように感じたこの景色も、今は悪くないと思える。なぜなら、この部屋から、二人はいつでも、どこまでも広がる青い世界へと旅立つことができるのだから。二人の冒険は、まだ始まったばかりだ。




