卒業式
最後のホームルームの前にはもう、柄にもなくそこそこ目尻を濡らしていたのだが、出席番号五番のやつはどうしようもなく俺をだめにしてしまった。
そのホームルームでは、生徒がひとりずつが前に出て一分くらいでクラスメイトへ、保護者へ、先生への感謝を述べる時間が設けられた。出席番号一番からはじまり、俺の番は最後から数えた方が早い。対してソナタは名字の頭文字が「お」だから、すぐに順番は回ってくる。担任の粋な、とても粋な計らいで教室の座席は自由。なんだかんだはじめて正式に俺の隣の席になったソナタは席を立つ。うしろにいた彼の母親から見慣れたケースを受け取ってから教卓の前に立った。
「岡部奏方です。三年間どうもありがとうございました」
今朝登校したときは持っていなかったはずのその濃い青色のケースを教卓の上に置き、彼は言う。
「俺、話すの得意じゃないんで、先生には許可もらってるんですけど」
ソナタは黒板の左側で椅子に座っている、桜の着物と紺の袴を着た担任と目を合わせてこくりと頷いた。
「この一分、俺の演奏に付き合ってください」
大きな拍手があがる。俺は仰天してしまって、口をあんぐり開けたまま、周りの拍手に流された。今までかたくなに生演奏ってのを嫌ってたのに、今更クラスメイトみんなの前で弾くと、彼は言うのだ。
満足に同様する間もなく、準備を終えた彼はおのれの異様に黄色いヴァイオリンをすっと構えた。いつもならここからやっと演奏まで、早くて一分はかかる。長ければ五分でも十分でも溜めんとする具合で、ぴたりと固まって動かなくなる。しかしそんな悠長なことをしていられるほど、尺は取れない。お前のあとに三十人が待ってるんだ。
彼は長い深呼吸をする。長いまつ毛で縁取られた瞼を落とす。すぐに、空気は震えた。
知っている曲だった。学がないのでタイトルなんかはわからないが、有名なクラシックだった。ソナタが彼の家の練習室でよく聞かせてくれる曲の、たったのワンフレーズ、それだけだった。なぜか正面から見れなくて、ソナタがどんな様子で弾いているのか、わからなかった。ただ、音色は少し尖っていて、それでいてあまりに優しくて、けれどなんだか、糸が切れたような感じで、途切れ途切れだった。決して下手な演奏じゃない。音が不足しているわけでもない。ソナタのヴァイオリンの弦はよく切れてしまうと言うが、そうじゃない。
余韻もそこそこに、彼は彫刻になる魔法を解き、ふっと力を抜いた笑顔をクラスメイトに見せた。
「ようやく、みんなの前で演奏できて良かったです」
俺は、大きな勘違いをしていた。そんなつもりもなかったが、当たり前なのだと思ってそれ以上の感情はなかった。ソナタの生演奏は、俺だけのものじゃなくなった。心に引っかかっていた重たい錨が上がったみたく、すっとした心地だ。それじゃあ、ダムが決壊したみたいに堪えられなくなったこの鼓動はなんだろう。
「三年間本当に楽しかったです。ありがとうございました」
ヴァイオリンとケースを別々に持って隣の席へ戻ってきたソナタに見られないように顔を少し伏せる。けれど彼は特になにも言わず席についた。
自分の番になにを言ったか、おおかた忘れてしまった。ただ、ソナタの番が終わって、ゆっくりと気を落ち着かせた割には再び顔を歪ませて、少しの後悔の念を晒した覚えはある。最後に大恥をかいてしまった。
謝恩会で、当然のようにソナタの隣に据えられた。しかし円卓は狭く、他のクラスメイトも同じテーブルだったから、ふたりきりで話す機会はなかった。なぜ今更になって、生演奏なんかしたのかとか、聞いてみたかったし、演奏の感想もいつも通り言いたかった。ソナタはあれでもクラスの中心だから、同じテーブルの友人や、おしゃべりな副担任と話をしている。俺もそれを遮ってまで聞きたいわけでもなかったし、テーブルに並ぶ食事のソナタの食べなかった分までを食べるだけしていた。まあ、来週末にまた最後の撮影があるから急いでないし。