更衣の話
1年12月下旬
ソナタは存外、穏やかな人間だと気づけたのは最近になってからだ。気分の浮き沈みは激しいものの、他人に害を与えることは限りなく少なく――なお、その数少ない害はほとんど俺に向いているが――喜怒哀楽の喜と楽とが飛び抜けていて、少しの哀、それから怒は欠如したような印象である。けれど当然その感情がまったくないわけではなく、彼が怒りを顕にしたことが、俺が覚えている限り一度だけあった。
体育前の更衣は、教室をカーテンで仕切り男女に分かれて行われる。所詮布一枚で仕切られた空間は会話も筒抜けではあるが、互いに聞かぬふりをする。というのも、更衣中はどうしてか男女に皆女子校だか男子校だかというような話が聞こえてくる。こちらでは小学生のように互いの大事なところを突き合っているし、カーテンの向こう側から「やわらかい」なんて単語が、なんかそういう感じでしきりに聞こえてきても、あれだよ、きっとタオルかなんかがさ、柔軟剤を使ったりしたんだよ、な。
ソナタは、体育の前の授業が終わるとすぐにジャージを持って教室をあとにする。体育が終わったあとも同じく、俺がやっと教室に帰ってきたと思えば彼は既に制服に着替え終えて、隅の方で単語帳なんかを眺めていることが多い。俺は特段気にならないが、他はいささか気になることもあるようで、その日も授業が終わりさっさと体育館を出ていったソナタについて、男何人かが話していた。
やはり、教室にたどり着くころには彼はいつも通り単語帳を見ていた。あれでも彼は陽の気の者だから、先程彼について話していたやつらとも仲が悪いことはない。
「ソナタ、なんでいつもトイレで着替えてんだよ。変なパンツ履いてたりするわけ」
ついに声をかけたのは空手部所属のクラスでいちばんの陽キャ、ソナタが比較的一緒にいることが多いやつ。
「別に、着替え見られたくないだけ」
「女子かよ。俺ら男だぜ」
視界の端に映る肩に回された手を払うソナタの表情は、嫌悪感を取り繕えていなかった。
「男にも羞恥心はあるだろ、それだよ」
まともに取り合わないソナタを気に入らないらしく、そいつは他のクラスメイトに一瞥を投げる。俺が言えることじゃないが、このクラスにいるってことは頭が著しく弱い、一部例外を除いて。単語帳を携帯するやつなんかソナタ以外にいない。それで脳みそのレベルが同じやつって、どうしてか考えていることが手に取るようにわかる。そして俺らの脳みそのレベルが未だ小学生と同レベルなのは先ほど触れた通りだ。未だ単語帳から目を離さないソナタにやつら二、三人が束になって近づく。はじめに声をかけた空手部のやつ、こいつは体が馬鹿でかい。もやしみたいなソナタの脇に背中側から腕を回して、ひょいと持ち上げればもうソナタは逃げられない。
「おいやめろ、離せ。下ろせよ」
ソナタは声を荒らげる。カーテンで隔てられた向こう側が静かになる。空手部のやつが教室の角で壁を向いていたソナタに正面を向かせ、他二人がソナタのベルトに手をかける。俺はそこで目を逸らした。スクールカースト最下位がどうこうできる問題じゃない。せめてできるのは見ないことくらいだ。
シャツの小さなボタンをひとつずつ留めている間、背後からはソナタの声、机を蹴る音、はやし立てる声、事態を察してカーテンを開けても良いか訊ねる女子の声、全部全部やかましく思えてどうしようもなかった。
「誰が誰になにしてんの」
流れるような滑車の音、金切り声。水を打ったような静寂が教室全体に重く被さる。どさっと鈍い音を立てて床に落ちたのはなんだろうか、俺はなにも見ていない。ネクタイを結ぶ。
「……っ」
布ずれの音、それからベルトの軽い金属音。引き戸は大きな音を立て、誰かが走って出ていく。ブレザーを羽織った。
「チッ、んだよ」
振り返ったとき、彼らはカーテンの開いたまま、堂々と着替えはじめた。
「馬鹿」
乗り込んできた女子らはまたカーテンを引いていく。ぐちゃぐちゃになった机の並びの隙間に、気持ち悪い犬のイラストが描かれた単語帳と持ち主の知れぬスリッパが片方だけ落ちていたのを、見なかったことにした。
そのあとの授業は、ソナタの席は空いたままだった。
「岡部は欠席か。ん、早退?」
教科担任が座席と出席簿を見ながら首を捻る。誰も答えなかった。
「まあ、いないのな」
それ以上触れられずに授業ははじまって、彼が帰ってこないまま終わった。囁き声って大声とかよりも耳障りで、上手い具合に入眠を妨げてくる。おかげで寝不足に拍車がかかる。
「牧さん」
休み時間、担任が声をかけてきた。
「岡部さんの、帰る準備をして、保健室までかばん、持って行ってくれませんか」
皆から弱腰と呼ばれる彼女の声は注意しなければ聞き取れない。
「なんで俺……」
「牧さん名指しで言われたから……気分悪いんですって。熱はなかったけど、今親御さんに迎え来てもらってるから、できれば急いで」
ソナタは、先のことを彼女に言っていない。
「……はい」
傍観を叱られるだろうか。教卓の横に置いてある単語帳を攫い、かばんを取って机の教材を詰める。ひどく重いかばんを背負った。
「ソナタ早退? 弱いって」
聞こえていないふりをして、教室を静かに出た。
保健室に行けば、ソナタの母親が養護教諭と話しているだけで、本人はそこにいなかった。彼女に重たいかばんを預ける。そのままソナタに会うことなく教室まで帰ってきてしまった。手ぶらで帰ってきた俺をちらりと見て少し教室全体の会話が途切れる。
「なに、あいつ。空気読めないやつ」
「自意識過剰すぎて草」
俺は、なにも聞いていない。
その次の日に、ソナタが普通に登校してきたのは正直驚いた。机に身を預けていても聞こえるのは例の空手部とか陽キャ。
「ごめんってソナタ、ちょっとふざけただけだって」
「なに、俺人気者じゃん。知ってる」
彼は吹っ切れているみたいで、不気味だった。
「なあ、そんな言うなって。まじ悪かった」
しきりに許しを請うあいつらに誠意は見当たらない。けれど、ソナタは上手だった。
「ねえ、邪魔。どけよ」
腕の間から覗いたときに見えたソナタの表情は、まったく読めなかった。けれど近づいてくる彼が怒っていることくらい、肌で感じられた。
ソナタは、存外穏やかな人間で、それを怒らせるのは至難の業だ。居心地の良かったらしいコミュニティを外れて俺とばかり付き合うようになったのは、きっとその日からだ。俺が直接彼を怒らせたことは未だないと思いたいが、そんな爆弾を抱えさせられてしまい、大変迷惑に思っている。