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落花生と初詣

作者: 佐藤瑞枝

 ねぇ、見た?

 えいちゃんたら

 真っ赤な顔しちゃってさ

 結局、黒板一度も見なかったね

 かわいいっ


 少女たちの密やかな笑い声。

 チャイムと同時に逃げるように教室を出て行ったえいちゃん。


 子供じみている。

 先生を馬鹿にして、何が面白いんだろう。


 席を立ち、わたしは教壇に続くバージンロードをまっすぐ歩く。


 黒板に貼りつけられた生理用のナプキンを指でつまんで剥し、そのままゴミ箱に投げ捨てた。


 こんなことして、何が面白いんだろう。

 えいちゃんのことが好きなら、もっと他にやるべきことがあるだろう。


 右手で黒板消しを握り、ナプキンをはがした跡をゴシゴシこすりながら、左手でカーディガンのポケットに触れた。文庫本を差し込んだ、その厚みの確かさに優越感を覚える。


 中勘助の『銀の匙』

 表現がすごくいいんだ。

 そう言って、えいちゃんがすすめてくれた。


 毎週水曜日、わたしは図書室でえいちゃんと会っている。


 はじまりは、『こころ』だった。

 書架の一番上にあるのをとろうとして、背伸びをしていたわたしの背中で、いつのまにやってきたえいちゃんがとってくれた。


「ほら」


 まるで天から降ってきたみたいに、目の前に差し出された『こころ』をとまどいながら受け取った。


「夏目漱石か」

「はい。教科書に載っていて、続きが知りたかったから」

「そうか。相原は勉強熱心なんだな」


 えいちゃんのやさしい眼差しがわたしだけに注がれている。去年、はじめてうちの女子高にやってきた、先生になりたてほやほやのえいちゃん。お兄さんみたいなえいちゃんを「柏木先生」と名字で呼ぶ子はほとんどいない。先生のくせに朝が苦手で、いつも遅刻ギリギリでやってくる。寝ぐせのある髪も、上手にアイロンをかけられなかったしわの目立つシャツも可愛いすぎると生徒に人気だ。


 水曜日、えいちゃんはいつも図書室にやってくる。木曜の授業で使う教材をさがしにくる。わたしは、本を返しにくる。えいちゃんが選んでくれる一冊を次の水曜日まで借りる。


 今日、わたしはえいちゃんと窓辺に並んで『銀河鉄道の夜』について話した。死者を乗せた列車に乗り合わせたジョバンニがなぜ死なずに生きてもどってきたかわたしは知りたかった。


「ずいぶん難しいことを考えるね」

 えいちゃんは驚いて眉をひそめた。

「でも、相原さんらしいけど」


 開け放した窓から吹奏楽部のスーパーマリオの演奏が聞こえてきた。それはあまりにも賢治の世界観とかけはなれていて、二人して思わず笑ってしまった。


 それが、夏。



 えいちゃんの結婚のニュースをいち早く教室にもたらしたのは、黒板にナプキンを貼り付けることを思いついた子だ。


「見た? えいちゃんの左手くすり指」

「指輪が光ってた」

「うそぉ」

「絶対そうだと思ってたんだ」

「最近妙に明るく機嫌よかったじゃん」

「そうそう」

「トレードマークの寝ぐせも見なくなったし」

「服の趣味も前と変わったと思わない?」


 どうでもいいし。そ知らぬふりして窓の外を見た。秋。グラウンドをかこむように植えられたケヤキの木は、どれも真っ赤に染まっていた。はっきり言って、しらける。


 その日、えいちゃんは質問攻めにあった。


「どこで知り合ったんですか?」

「奥さんのこと、なんて呼んでるんですか?」


 みんな芸能レポーターみたいだ。

 えいちゃんは、終始斜めを向いて頭をかいたり鼻の下をこすったりしていたけれど、みんなの質問にどれもちゃんと答えていた。えいちゃんの顔は、どこか秘密を打ち明けたくてたまらない子供にそっくりだった。


 奥さんの名前は、夏織さん。えいちゃんの大学の後輩で、同じ教員だ。えいちゃんは奥さんのことを「かおちゃん」って呼んでいる。夏織さんから、えいちゃんは「えいくん」って呼ばれている。偶然に同じ日が誕生日で、一緒に食事に行き意気投合した恋のはじまり。


 くだらない。

 それなのに、ひとつ残らず脳みそに刻もうとしているわたし。

 馬鹿みたいだ。

 テストにも出ないのに。


 水曜日、えいちゃんは、もう図書室に来なくなった。わたしのカバンには、返しそびれた『野菊の墓』が入ったままだ。


 二学期の期末テストはさんざんな結果だった。追試の代わりのレポートを職員室に提出しに行くと、美術の森沢先生がえいちゃんに話しかけていた。


「デッサンの授業で使ったんですけど、食べます?」

「ぼくひとりじゃ食べきれないんで」

「何?」


 持っていた紙袋をガサゴソ言わせて、森沢先生がえいちゃんの前で手のひらを広げてみせた。まるで手品で鳩を出すみたいに。


「うわっ」

 えいちゃんがさけんだ。

「おれ、無理」

「なんで? 落花生、だめ?」

 森沢先生が首をかしげている。


「そうじゃなくって、奥さんがアレルギーなんだ」

「でも、先生はアレルギーじゃないんでしょ」

「いや。でも、おれも食べるのやめてるんだ」

「ふうん」

「気をつけてるんだ。ピーナッツバターを食べた夫が、その口でキスして妻を殺してしまったっていう話だってあるんだ」


 えいちゃんの表情は真剣そのものだった。

 えいちゃんから落花生をひっこめた森沢先生は、指でつまんだ落花生を蛍光灯にかざしながら美術教員らしいことをぶつぶつ言っていた。


「絶妙なフォルムをしているだろう」

「この殻がいいんだよな」

「ゴツゴツしているようで案外さらっとしている」

「無数のしわは、眠っているピーナッツをやさしく包んでいるのか、それともただただ絡まっているのか」


「失礼します」


 声をかけると、えいちゃんはやっとわたしに気づいたようだった。えいちゃんのデスクの提出箱にレポートを置いた。その脇に飾ってある写真。否が応でも目に入る。


 えいちゃんと並んで笑っている女の人。きっと、夏織さんだ。


「相原」


 そのまま帰ろうとすると、えいちゃんに呼び止められた。


「W大狙うなら、もう少し頑張らないと、だぞ」

「わかってます」


 それだけ言って職員室をあとにした。もうじき冬休みがやってくる。先生が学んだW大をずっと目指し、勉強してきた。けれど、わたしはW大が夏織さんの母校でもあることを知ってしまった。

 わたしは何のために二人と同じ大学を目指すのだろう。

 受験勉強は地獄だ。



 元旦。みのりからLINEがきた。一緒に初詣に行く約束をしていたのに、前の晩から熱が出て、インフルエンザにかかってしまったという。


「あー、これで今年の運勢まっくらだわ」

「そんなことないよ。熱が出たのが大晦日なら、今年はきっといい年になるって」

「静香、初詣行くでしょ」

「みのりが行けないのに?」

「お守り買ってきて」


 スウェットとジーンズの上にダウンコートを着て家を出た。本当はみのりと晴れ着で行くはずだった。電車は思っていたよりずっと混んでいて、駅に着くと、自分の意思とは関係なしに押し流されるよう外へ吐き出された。

 そのまま波に乗り、名物のうなぎ屋や土産物屋が立ち並ぶ参道を歩いた。一番右端の列だけ、流れが逆だった。きっと、除夜の鐘の鳴る深夜からお参りにきていた人たちだ。眠そうで、だるそうな顔をしているくせに、これからお参りをするわたしたちをどこか上から目線で見て通り過ぎる。


「お嬢ちゃん、買っていかない? うまいよ」


 目の前ににゅっと差し出された手が、土産物屋の店員さんのものだと気づくまで時間がかかった。店員さんの指先にあるもの。


 殻付きの落花生。


 買う気なんてなかった。正直、殻を割って食べるのは面倒だし、ピーナッツなら柿の種のおまけに入っている程度で十分だった。けれど、その日に限ってわたしは、総門に続く長い参道の途中で、落花生を買うのも悪くないと思ってしまった。


「まいどあり」


 威勢のいい店員さんの声に押されて、わたしはまた人の波に乗り歩きはじめた。やがて総門をくぐると、黒だかりの人山のむこうに、大しめ縄が飾られた本堂が見えた。


「おお。相原も初詣か」


 声をかけられてびっくりした。えいちゃんだった。となりで笑っている和服の女性が微笑んでいる。きっと夏織さんだ。きれいなひと。わたしは普段着のまま来てしまったことを後悔した。今すぐどこかへ消えてしまいたかったけれど、挨拶をしないと礼儀を知らない子だと思われそうで、


「あけましておめでとうございます」


 そう言って頭を下げた。


「あ、こいつ、うちの奥さん」

「でもって、この子は教え子」


 夏織さんとわたしを交互に見て、どこか焦っているようなえいちゃんがおかしかった。


「ひとりか」

「みのりがインフルエンザにかかってしまったので、お守り頼まれたんです」

「そうか」


「相原も、体調管理ちゃんとしろよ」


 教師らしいことを言って、えいちゃんは夏織さんとはぐれないように手をつないでお参りの列に並び直していた。


 二人の後ろに並び、わたしは受験生らしく英単語アプリを立ち上げた。そんなことしたって集中できるわけないのに。わたしの目の前で、えいちゃんと夏織さんは、互いの顔を見つめあったり、ささやきあったり、笑ったりしている。


 馬鹿みたい。


 なんだか無性にイライラして、さっき買ったばかりの落花生の袋をあけた。そっとひとつつまむと、冷え切った指先に乾いた殻の感触が伝わってきた。


 わたしは、それを夏織さんの帯に忍ばせた。


 家に帰って、帯をほどくとき、気づくだろう。

 畳に転がった落花生を見て、夏織さんはどんな顔をするだろうか。


 さよなら。


 そのままお参りの列を抜け、みのりに頼まれた合格祈願のお守りだけ買って帰った。家に帰ると、ただいまも言わず部屋にこもった。


 乱暴に破ったノートの上に落花生を広げ、握り潰した。

 全部壊してやりたかった。

 それなのに。

 どんなに強く潰しても、落花生はいつだって幸せそうな顔をして、ふたつ寄り添い並んでいた。



 どうしてわたしじゃなかったんだろう。どうしてえいちゃんだったんだろう。泣きたくなんかないのに、涙があふれて止まらなかった。落花生を潰しすぎたわたしの指先は真っ赤に腫れて、感覚がなくなっていた。皺だらけで、落花生みたいだ。


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