冒頭 「眼精疲労」にはお気をつけて
これは、所謂「前世の記憶」ってヤツだ。
***
俺――立花千春は、その日の仕事を終え、いつも通り車で帰宅しようとしていた所だった。
変わった事と言えば、雨が降っていて、夕方だというのに暗かったことくらいか。
だが、そんなもの車のヘッドライトを付ければ何の問題にもならない。
だから、何度思い返しても、特に変わった事なんてなかったはずだった。
――ズキン。
「痛ッ……」
いや、一つあった。
その時俺は――直前まで10時間もモニターばっかり凝視していたが為に、酷い眼精疲労に襲われていた。
乾燥耐性ゼロの俺の眼は、1時間に1度は目薬を差さないと(もしくはホットアイマスクで温めないと)瞼を開けていられないほどに痛む。
例えば運転中――その時も運転していた――なんかには、最悪の病気だ。
俺の目がそうなった原因は分かっている。
子供の頃から、ずっとパソコンばっかり弄ってたせいだ。
医者にも「もう手遅れ」と言われた俺の眼は、大体いつも充血しているらしい。
ちらりとルームミラーをのぞき込んでみると、その時もやはり俺の眼は真っ赤だった。
「……ックソ、目薬切れてんだよなぁ、早く家に帰らないと……」
信号待ち、俺は自分の瞼の周辺を指でマッサージしながらそうぼやいていた。
グッグッ、と押すたびに涙腺から涙が分泌され、心地よさが染み渡る。
それだけ涙が出ていなかったのだろう。よほど疲れている証拠だ。
目薬の買い置きを忘れていた俺も悪かったが、労働者の眼をそこまで酷使させる会社もどうかと思う。
……ああいや、今更文句を言っても仕方ない。
だってこれは、“前世の記憶”なのだから……
***
信号が青になり、俺はアクセルを踏んで発進した。
そのまま10分ほど走らせて、街灯が少なくなってくるとそろそろ家が近い。
ただ、この辺は少し山がちで、路肩を外れるとすぐそこが急斜面になっている。
しかしその分カーブが少ない一本道になっているから、危険に思うことはそれほどなかった。
「……」
真っすぐに伸びる長い道、数百m先に見える車を、俺は対して気にしていなかった。
それもそうだ。なんせ相手は大型車とかいう訳でもなかったし、すれ違う道幅も十分。
ただ普通に、お互い通り過ぎればいいだけだった。
「……」
距離が百mちょっとの所にまで近づいていた。
特に取り上げるべきこともなく、俺はただ普通に道を直進していた。
そして、すれ違う間際。
チカッ!
「う……っ⁉」
相手が、通り過ぎるより一瞬早く、車のライトを「ハイビーム」にしたのだ。
ハイビームとは、夜間により遠くを照らすための、強い車のライトのこと。
そしてそれは――俺の疲れた目に、針のように突き刺さった。
「ぐう……ッ‼」
俺は突然の激痛に耐え切れず、反射的に目をつむってしまっていた。
運転中に突然視力がなくなると、どうなるか。
俺が必死にブレーキを踏みこもうとした足は、むなしくも空を切っていた。
そして、フワリという浮遊感が、俺を襲う。
「あ――――‼」
そのまま、ゴロン、ゴロンと車が大きく2回転したのが分かった。
世界が大きく回転していたが、それがやけにゆっくりに見えたのを覚えている。
ああ、これが臨死体験なのだと。
その時は、ひどく落ち着いた心持ちで、そんなことを考えていた。
***
最後に見たのは、グシャグシャになったボンネットと、割れたフロントガラス。
そして、奇跡的に無傷だったルームミラーに移る、自分自身の顔だった。
そこには、
「あ……俺の……右目……」
どれだけ運が悪かったのだろうか……
俺の右目には、深々と何か棒状のものが突き刺さっていた。
不思議と痛みはなかった。
だが、この右目が一足先に「死んで」いることは、その場で理解できた。
「何だよ……これじゃあ、目薬も差せねぇじゃねぇか……」
途端に口をついて出たブラックジョークに、ひとり苦笑を浮かべる。
笑いと共に、何かポロポロと零れ落ちるものがあった。
それはどろりとした赤い血潮ではなく、月の光にきらめく、透き通るような涙。
まだ「生きて」いる左目からあふれ出るそれは、静かに俺の膝に落ちていった。
「あー、俺、死ぬのか……」
ぼやける視界の中、その一言がやけに寂しく感じられた。
それは、きっと俺がこれまでに何も成し遂げられなかったからだろう。
中学、高校、大学と、やりこんだのはゲームと動画視聴のみ。
社会人になっても安月給で働かされ、仕事でもプライベートでも、ずっと画面を見続ける日々だった。
画面しか、見て来なかったのだ。
「もっと……色んなものを、広い世界を、見たかった……」
俺の最期の一言は、そんな虚しいものだった。




