第115話・犬殿下
「フェアネス殿下、お体の具合はよろしいのですか?」
ここ数日、フェアネス殿下はあまり部屋から出てきていませんでした。
イェルン姉さんに、僕がダンジョンに潜っている間の様子を聞いても、同様の状況のようです。
少しタチの悪い風邪を引いて、それが長引いているのかもとも思いましたが。
「うん、大丈夫だよ。体調は悪くないから」
とのことなので、僕もそれ以上はお聞きしませんでした。
「それではいったい、どういったご用でしょうか。曲がりなりにも僕は男で、殿下はうら若き乙女です。あまりこのような時間に僕が殿下のお部屋にいるのも、よろしくないかと思いますが」
そう訊ねると、フェアネス殿下はニコリと笑いました。
……うわっ。
「ナナシ。帝国に残って。……一生のお願いだから」
そう告げる殿下の笑顔。
表情的には笑っているはずなのに、目が一切笑っていません。
これはなかなか……。
いえ、というか、そもそも。
「フェアネス殿下。僕の記憶が確かなら、そのお話はすでにお断りをしていて、殿下から皇帝陛下にその旨をお伝えいただけるということではなかったのですか?」
殿下はニコリと笑ったまま、コクリと頷きます。
「以前に、お伝えいただいているのですよね?」
殿下はコクリと頷きます。
「……それなのにまたその話が出るということは、皇帝陛下が僕のことを諦めてくれないということでしょうか」
再度殿下は頷きました。
…………そうですか。
「それはつまり。この国のトップは、僕の意向を聞くつもりがない、という認識で、よろしいんですね?」
「……ナナシ、それはね、」
僕はここまで、殿下を通じて色々なものをこの国に寄与してきたと思っていますが。
それを踏まえたうえで出てくる要求が、それというわけなのですね。
もしくは、この国に居候している身だからと、そちらに対して気前良くしすぎたということでしょうか。
そうであるというなら。
献上したものを返していただきに、今からお城に出向くのもやぶさかではありませんが。
「ナナシ」
はい。
「約束も守れず、君の気持ちも守ってあげられなくて、ごめんなさい」
そう言って、深々と頭を下げる殿下(ロコさんたちの反応を見るに、たぶん皇族としてはありえないことなのでしょう)は、しかしそれでも「もう一度、話だけでも聞いてくれないかな」と続けます。
僕は、少しだけ考えました。
「……皆さん、最後まで怒らないで聞いてほしいんですけど」
今の僕には、二つの選択肢があります。
一つ目は、今から僕は怒りのままにこの家を飛び出してゲヘナダンジョンに突撃し、百階層を攻略するまでダンジョンから出てこない。
そして、しかるのちに皇帝陛下の御前に出向き、話し合いをさせてもらいます。
二つ目は、僕はこの場では怒りを鎮めることにし、かわりに殿下たちに無理難題を言って、それが叶えられたら話の続きを聞く。
話の内容がどのようになるかは存じ上げませんが、皇帝陛下ではなく、フェアネス殿下と話し合いをさせてもらいます。
という感じなんですけど。
どちらが良いですか?
「無理難題って、どんな?」
そうですね。
ですが、その前に。
「結界作成」
僕は、殿下のお部屋を防音遮光と魔力遮断の付与された結界で覆いました。
これでこの部屋の中の出来事は、外から見えもしませんし聞こえもしません。
当然、誰かが入ってくることも、この部屋から出ていくことも不可能です。
それではまずはフェアネス殿下。
四つん這いで犬のようになって、三回回ってワンと鳴いてください。
するとフェアネス殿下は一瞬の躊躇いも見せずに四つん這いになり、その場でくるくると三回回ってから「ワン♪」と鳴きました。
なるほど。
それなら次はロコさん。
「な、なんだ……」
僕は、壁際で息を潜めるようにして立っているロコさんに呼びかけます。
ちょっとこちらに来てください。
それからこれを、殿下につけてあげてください。
僕は、結界製の首輪をロコさんに渡しました。
ロコさんは、怒りと驚きと絶望が混ざったような表情で、とっさに僕の胸ぐらを掴もうとしますが、
「ロコッピ」
フェアネス殿下の言葉に、ピタリと動きを止めました。
「いいよ、つけて」
ロコさんは、それはそれは苦渋に満ちた表情を浮かべ、唇の端を血が垂れるほど噛み締めて唸ったあと、震える手で殿下の細いお首に首輪をはめました。
それでは殿下。
この国で飼われている犬って、服を着ているものなのですか?
「……いや、着てないね」
あと、この国の犬は、人間の言葉を喋るものなのですか?
「……ワゥン」
首を横に振った殿下は、襟元のリボンを引っ張って解き、カーディガンを脱ぎました。
靴と靴下を脱いでからスカートを下ろし、ブラウスのボタンを一つずつ外していきます。
僕は口の中で思いっきり舌を噛み、痛みで自分を誤魔化しながら、殿下をじっと見つめます。
やがて、肌着も脱いでコルセットも外して、おパンツも脱いで全裸になった殿下が、四つん這いになってこちらを見上げます。
僕は殿下を見つめたまま、フラーさんの名前を呼びます。
「フラーさん。服が脱ぎ散らかされていますので、きちんと畳んでいただけますか?」
フラーさんは青ざめたお顔で、いつになくノロノロと緩慢な動きで、殿下の脱いだ服を畳んでいきます。
「はい、畳んだらきれいに揃えて殿下の隣に置いてください。あ、パンツは畳まずに、内側が見えるように広げて畳んだ服の上にお願いします。……殿下」
「ワン」
「……こちらをつけますね」
僕は、結界製のイヌミミカチューシャを殿下の頭に乗せ、お腰のあたりにイヌシッポを粘着結界でペタリと貼り付け(世の中には挿すタイプもあるらしいですね)ました。
これで完成。犬殿下です。
そのまま僕は、おすわりポーズの犬殿下をじっと見つめます。
後頭部で編み込んだライトブラウンの髪。
輝くような金色の目。
可愛らしいのと美しいのの中間のような、それでいてどこか愛らしさも含んだ顔立ち。
均整のとれた細身の身体ですが、お胸にはしっかりと膨らみがあり、小ぶりなお尻はきゅっと締まっています。
手足の長さと肉付きのバランスも良いですね。
思っていたより、美味しそうなお足をしています。
白磁器のように白くキメ細やかなお肌は、今は羞恥のためかほんのり赤みがさしています。
いやほんと、お肌のキメがすごいですし、首から下は一切毛が生えていません。
お肌ツルツルのスベスベです。
今のキャベ子さんにも負けていませんし、ツルツル具合でいえば僕と良い勝負かもしれません。
「…………クゥン?」
……はい、分かりました。
最後にもう一度、三回回ってワンと鳴いてください。
あ、お尻は高く突き上げてくださいね。
殿下は一瞬動きが止まりましたが、無言で三回回ったあと「ワン!」と鳴いてみせました。
分かりました。
それなら。
「殿下。一つだけ誤解のないように言っておきますが、……僕は、犬が嫌いです。マジのマジで大嫌いです」
「…………ワン」
殿下が「いまさらそんなこと言う……?」みたいな表情を浮かべましたが、嫌いなものは嫌いなんですよ。
「ですので、今から僕は後ろを向いて目と耳をつぶっています」
「……ワフ?」
「殿下が犬ではなく、一人の人間に戻れたら、僕の肩を叩いて呼んでください」
「…………!」
そのまま僕は後ろを向くと、自分の頭を防音遮光の結界で覆いました。
そして、殿下に肩を叩かれるのを、じっと待ったのでした。
◇◇◇
どれぐらい時間がたったのでしょうか。
十分かもしれませんし、一時間かもしれせん。
夜が明けているということはないと思いますが、なにぶん音も光もないので分かりません。
ずっと女神様の美しいお姿とお嬢様の素晴らしいお姿を思い起こしていたので、余計に時間の感覚が曖昧です。
しかし、僕の肩がトントンと叩かれたのは分かりましたので、頭を覆った結界を解除して振り返りました。
そこには、きちんと服を着込み、先ほどよりは幾分マシになった笑顔を浮かべたフェアネス殿下が立っていました。
殿下の後ろに立っているロコさんとフラーさんも、気合を入れ直したような表情です。
うん。良いですね。
それなら僕も。
僕はするりと殿下の足元にひざまずきます。
「殿下。……無茶苦茶なことをさせて本当にごめんなさい!!」
そして全力土下座をキメたのでした。