成田悠輔氏の「高齢者は集団自決した方がいい」発言は仏説である。
成田悠輔氏は経済学の学者さんで、日本の将来を考える際に、高齢者が今の地位にしがみつき、若者にチャンスがないと世代交代ができないということで、その解決策としては「高齢者は集団自決したほうがいい」と発言したようだ。
まあ言葉のイメージが強すぎるってことで怒られているみたいだけど、わたしの解釈では、仏説じゃんと思った。
仏説。お釈迦様の考え。
仏教をほんのちょぴっとでもかじったことがある人ならわかると思うけど、仏教の最終目標は解脱……つまり、煩悩から解放されることだよね。
煩悩っていうのは苦しみを生む。
たとえば、誰かとセックスしたいとか、偉い人になって多くの人に傅かれたいという煩悩があるとする。
それら煩悩は脳内で作り出した幻想……「空」であるが、誰かとセックスしたいのにできないから「苦」しいとなる。あるいは、実際に好きな子とセックスできたとしても、もっとセックスしたいとなったり、あるいは誰か他の子ともセックスしたいとなったりして、欲望が充足することはない。それもまた「苦」しいとなる。
仏教的な考え方によれば、アニメのキャラクターでオナニーするのも、現実の誰かとセックスするのも、変わらない。
性関係は存在しない(ベル子はキメ顔でそう言った)。
わたしは他者にたどり着けない。脳内で加工された「現実」を生きている以上、他者とまじわるということは原理的に不可能だからだ。
――いや、でもオレはセックスしたいんだよ。
そりゃそうよね。
色即是空を唱えたところで、殴られたら痛い。
それが脳内で加工された現実だとしても殴られたら痛い。
なんでもかんでも幻想だと主張するのなら、おまえを殺してやろうかと言いたくなる。物理的な肉のこすりあいこそが現実ではないか。
わたしも煩悩に塗れているのでわかるよ。
生物的にセックスしたいのが多数派だろうし、自己を拡大するという意味で権力を持ちたいと思うのは、普通だと思う。普通な異常性。人間性という病理。
つまり、欲望の根源がいくら幻想に過ぎないと言ったところで、それこそ普通の人間にとっては空虚な言葉に過ぎず、なにも響かない。
我々は煩悩を生きたがっている。
ところで、この煩悩だけど、人間というのはケッタイなもので、ずっと解放全開フルオープンじゃないというのは、社会を見ていてわかるよね。
自分自身のふるまいを見なおしてみてもわかると思う。
例えば、好きな子とセックスしたいと思っても、その子が傷つくかもしれないから無理やりレイプするのはやめとこうとなる。
対象に対しておもんばかりをしているのだね。
だって、対象が脳内の幻想だとしてしまうと、それはセックスじゃないから、セックスしたいという煩悩(欲望)が充足できないからだ。
対象が存在すると信じているからこそ、欲望を抑圧してしまう。
ここでは主体がセックスしたい欲望を抑圧するというのは、矛盾しているようだけど、主体が性関係があるという幻想を維持するために必要なことなんだ。
抑圧はこころの防衛機制であり、欲望を守っている。
だから、欲望はその身のうちに内在的制約――ブレーキのようなものが存在する。
ブレーキがあるから、欲望が充足されることはない。
苦しい。
では、ということで解脱を目指してみても、それは自我を捨てるのと同義だ。ファルスという空欠が存在する定型発達者には、悟りを開けというのは死ねという言葉と同義であるから。
これは甚だ難しそう。悟りを開くなんて無理ぽ……。
話がプリミティブになりすぎて、わけわからんようになってきたから、社会学とかの話に移ろう。
先の「高齢者は集団自決した方がいい」についてだけど、わたしは「高齢者は集団解脱した方がいい」というふうに読んだわけだ。
まあ、欲を言えば、「人間は集団自決した方がいい」のほうがもっと適切な感じもするけど、でもそれは、成田氏の発言の意図とはズレまくるだろう。
これもひとつの解釈になるが、「高齢者は」と限定したのは、高齢者のほうが欲望に塗れていると考えたからだろう。要するに、「おまえら老害は若者よりも地位に固執して欲望まみれなんだから、欲望から解放されるよう努力しろ」ということなのだと思う。成田氏が若者の立場で言ったかはわからない。学者は個人という視点で語るものではないからね。
ともかく、高齢者。
高齢者は長ずるにしたがって、幻想を生きてきた時間が長い。ゆえに、若者よりも幻想により強く囚われていると言えるかもしれない。相対比較すれば、若者の立場からは、老害は欲望に執着するなという資格があるように思う。
まあ、欲望のない人間のほうが珍しいんだから、五十歩百歩のようにも思えるが、あくまで相対値としては。
先にも言ったとおり、普通の人間は解脱できないのが多数派だ。この前提から出発する限り、煩悩にとらわれるなといっても、言葉は空転する。
多数の人間が構成する社会は、多数の人間が煩悩にとらわれているがゆえに、煩悩まみれの社会だと考えなければならない。
社会学や経済学は、人間の欲望を外部的にコントロールしようとする。もっと言えば、抑圧の外部装置――補助輪だと、わたしは考えている。
要するに、欲望はあると考えて、その欲望を適切にコントロールするというのが社会学や経済学の考え方なんじゃないのかな。
経済で言えば、独占禁止法なるものがあるよね。ある特定の団体が独占してしまうと、利益の総取りになってしまうから、やめとこって話。
これも資本を拡大したいという欲望にブレーキをかけているといえる。
社会には仏性がある。
すなわち、欲望の本質として、欲望から解放されたい指向性がある。
お釈迦様はそれを「本願」、本当の願いと位置づけたわけだ。
社会が(普通の)人間により構成されている以上、社会もまた仏性を有しているだろう。
社会をひとりの人間と見立てた場合、煩悩から解脱するということはおよそ想定できない。けれど、抑圧というレベルでなら、普通の人間にも備わっている自然な機構であるから、達成可能だろう。少なくとも達成可能だと考えて努力すべきだろう。
人はセックスしたいという欲望を持つが、相手の気持ちを考えないでセックスしちゃダメって思える。それを複合誘引によって、抑圧をスムーズにするというのが社会の機能である。悟りにいたれない凡人だらけの社会が苦しみを少なくするための次善策である。
カンタンに言えば、経済学者や社会学者は「よりよい社会」なるものを構築すべく日々がんばってるわけだ。
だから単純に「高齢者ではない者」が「高齢者」を分断し、攻撃するための言葉ではないと捉えるべきだ。
いやまあ、成田氏がそう思って発言したかどうかは別よ。
ただ、わたしは「高齢者は集団自決したほうがいい」という発言に仏性を感じたという話です。
な~むなむ。