2.有事の備え
狂犬騎士2巻、2024年6月7日発売予定です。
書き下ろしもありますので、お手に取っていただけたら幸いです。
わたしは「まあ」と微笑んだものの、頬が引きつるのを感じた。視界の隅ではライアンが『絶対に嫌っス』という顔をして、猛烈な勢いで首を横に振っている。
わたしは努めて穏やかな口調で返した。
「暗殺者から逃げる訓練というと、わたしが王宮内を走るのでしょうか? それは皆を驚かせてしまいそうです」
「総隊長と騎士団長、それに衛士兵総官長には俺から話をしておきます。あくまで訓練であるとして、その三人から周知してもらえばいいでしょう」
「実際に行うのなら、わたしからも話を通しますけど、そうですね……」
改めて考えてみると、運動不足の解消になるかどうかは別として、訓練を行うというアイディアは悪くないように思えた。国内が安定してきた時期だからこそ、有事への備えに時間を割くこともできるというものだ。王妹と近衛隊が王宮を走り回るのはいささか奇怪な光景として映るかもしれないし、周りを驚かせてしまうだろうけれど、事前に丁寧に告知をしておけば、混乱を招くことはないだろう。
ただ、絶対的に難しい点も一つある。
「バーナード、逃げる訓練を行うにしても、暗殺者役はほかの者に任せたほうがいいのではありませんか? あなたが襲撃犯ですと、その……、訓練にならないと思います。あなたは監督役ということで、味方側にも敵側にも入らないというのはいかがでしょう?」
「お言葉ですが、殿下。俺ほど襲撃犯に適した人物はいないと思います」
今度はわたしがしらじらとした眼で彼を見た。
しかしバーナードは、自信たっぷりにいう。
「訓練とは実戦さながらの緊張感をもって行ってこそ役立つものです。殿下付きの近衛隊内で敵味方にチーム分けをしたところで、普段から顔を合わせている同僚同士です。なれ合いの遊びになってしまっては意味がありません。しかし俺ならばその問題点をクリアできます」
バーナードはわざとらしく瞼を大きく開けて、こげ茶色の瞳に狂気じみた笑みを湛えてみせた。
「俺ほど他人へ恐怖を与えるのに適した人物がいるでしょうか、殿下? たとえ毎日顔を合わせている相手であっても、俺ならば確実に恐れを抱かせ、実戦同然の緊張感をもって訓練に当たらせることができます」
「実戦より怖いっス。絶対いやっス」
ライアンの震えた声の訴えは、バーナードの笑みに黙殺される。
わたしは思わず額に手をやった。緊張感をもって行うべきという彼の言葉は正論である。正論ではあるけれど……、近衛隊の皆が瞬く間に床に倒れていく未来しか見えない。
「バーナード、あなたが実力を発揮したら、近衛隊の皆が無事でいられるとは思えませんよ」
「もちろん手加減はしますよ。仕事に支障をきたすような深手は負わせません。そうですね、首を落とすわけにはいきませんから、代わりに腕に布でも巻いてやりましょう。布を取られたほうが負けです」
わたしのたしなめる視線をものともせずに、最強の騎士がにこやかにいう。
「俺一人に対して、殿下及び殿下付き近衛隊という大人数の勝負ですよ。ご心配ならハンデはいくらでもつけますし、ハンデの内容もそちらで決めていただいて構いません。さらに、勝った側は負けた側に対して、何でも願いをいうことができるというのでいかがですか? 勝負事には、褒美も必要ですからね」
「あなたは負ける気がないのでしょう、バーナード?」
「おや、そういう殿下は怖いんですか?」
わたしは無言で彼を見返した。
こげ茶色の瞳は意地悪くわたしを見つめている。
あからさまな挑発だ。わかっている。
わたしが深く息をして、穏やかな返答を返そうとしたときだ。
「殿下が『怖いからできません』と仰るなら仕方ありません」
イラっとした。
「ええ、殿下は本来、荒事とは遠く離れた場所におられるべき御方です。たとえ相手が長年の護衛騎士で、大いに手加減するしハンデも付けるといっても、追いかけられるのは怖いと仰るなら、もちろん俺は従います。ああ、それとも俺に負けるのが怖いんでしょうか? 負けず嫌いな殿下としては、敗北が目に見えている勝負はしたくないと。いや、どちらにしても、怖がらせるようなことをいって申し訳ありませんでした」
バーナードがわざとらしく眉を下げて、すまなそうにいう。
わたしは「ふふ、ふふふふふ」と笑った。
「このわたしがそんな露骨な挑発に乗ると思っているのですか、あなたは?」
「挑発だなんてとんでもない。俺は本心を申し上げています。俺に負けるのが怖いと殿下が仰るなら仕方ないな、と」
沈黙する。
睨み合う。
「駄目っス殿下ァァァァァァ! 聞かないで! どっからどう見ても挑発!! 挑発ですから!!!」
わたしは唇の両端を引き上げてにっこりと微笑んで告げた。
「いいでしょう、バーナード。その勝負、受けて立ちましょう」
こげ茶色の瞳が愉快そうに笑った。
※
「───というわけで、バーナードを相手にちょっとした鬼ごっこをすることになりました」
翌日の夕暮れ時、わたしは政務を早めに切り上げ、近衛隊の訓練所を訪れていた。
この訓練所は近衛隊の隊員たちが集まるときの小ホール代わりにも使われる。チェスターに頼んで招集をかけてもらったので、今はわたし付きの近衛隊のうちの三十名ほどが集まっていた。
わたしは両手をぱしんと軽く合わせて、ことさら明るく告げたのだけど、隊員たちは阿鼻叫喚の地獄絵図といった様子になってしまった。
雄叫びのような悲鳴を上げる者、頭を抱えてうずくまる者、致命傷を負ったかのようなうめき声を上げる者、両手で顔を覆う者、魂が抜けたような顔をする者、しきりに悪夢を疑う者、固まったままぴくりとも動かなくなる者、惨憺たるありさまだ。
「そっ、それはさすがに、むっ、むっ、むちゃではありませんか……!?」
「まだ死にたくないですうううううう俺には愛する妻と娘がいるんですううううう俺の帰りを待ってるんですうううううう!!」
「自分なんか彼女がいたことすらないんですよおおおおお!!!」
「なんで止めなかったんだよライアン!?」
「そうだぞお前にしか止められなかったのに! 何をぼさっとしてたんだお前は!!」
「止めたっスよ! 俺は全力で止めたの! でも俺が殿下を止めきれるわけないっしょ!? 隊長ですら止められない御方っスよ!?」
「ボウフラ先輩は口が上手いのだけが取り柄でしょう!?」
「コリンお前ちょっと表でろや!」
訓練所内にバーナードの姿はない。作戦会議をするからといって締め出した。彼はこんなときでさえ、自分が護衛についていないことを危惧する様子だったけれど、近衛騎士たちが集まっている中で何の危険があるというのか。問答無用で退出させた。
わたしは皆をまあまあとなだめていった。
「ハンデはいくらつけてもよく、その内容はこちらで決められるというのですから、勝ち目はあります! ゲームにおいては、ルールを決める側が圧倒的に有利ですからね」
そうでしょう? と、同意を求めて最古参の騎士を見ると、チェスターは歯切れ悪く頷いた。王宮中の女性たちから「吸い込まれるような瞳」「この世に二つとない宝石のよう」と称えられる深緑色の眼差しが、今や気まずさを露わにそっとそらされる。
わたしは見なかったことにして続けた。
「どのようなハンデを付けるのがいいか、皆のアイディアを募りたいのです。どうぞ忌憚ない意見を聞かせてください」
騎士たちがざわめく。
特に古参の騎士たちの間からは、「ハンデが意味を成すのか、あの隊長が?」「人の皮を被った呪いの魔剣を抑えられるハンデってなに? 殿下を人質に取るとか?」「馬鹿、そんなことしたら次の瞬間には首と胴が泣き別れだろうが」というひそひそ声が聞こえてくる。