1.迫りくる暗殺者
シリアスっぽく始まりますが、いつものラブコメです。
走る、走る、スカートの裾をひるがえし、ブーツで王宮の回廊を蹴りつけながら、ひた走る。
美しい装飾を施された飾り窓も、繊細な彫刻が刻まれた太い柱頭も、瞬く間に後ろへ過ぎ去っていく。王宮の中枢からは遠ざかり、人々の声も気配も遠くなる。薄暗く細い通路にはすれ違う者すらいない。
わたしは最後の扉へ向かって走る。吐く息は荒く、吸い込む息は浅く、思考はうまく回らない。
けれど足をとめるという選択肢はなかった。
追っ手はすぐそこまで迫っている。わたしを守る近衛騎士たちは、暗殺者を足止めするために、一人、また一人と、櫛の歯が欠けるようにいなくなった。彼らが戻ってくることはないと、もはやわたしにもわかっている。
今、傍にいるのは、最後の一人、近衛隊副隊長のチェスターだけだ。
そのチェスターも、近づいてくる露骨な足音に目元を歪めた。
あれはわたしたちを追い詰めるために鳴らされるあからさまな靴音だ。逃げまどう憐れな獲物への嘲笑だ。
わたし付きの最古参の近衛騎士は、一瞬で覚悟を決めたようだった。駆けるために踏み出されていた足が、今度は力強く彼をその場に押し留める。
「行ってください、殿下!」
「チェスター!」
思わず後ろを振り返ったわたしに、チェスターが「行って!」と叫ぶ。
それ以上、押し問答をしている時間はなかった。わたしは歯を食いしばり、前を向いた。走る。走る。ひた走り、建物の出口を目指す。
けれど、背後に気配を感じた。
ああと呻く。暗殺者はすぐそこまで来ている。あと少しで出口だというのに、これでは到底間に合わない。わたしは最後の扉まではたどり着けない。ここで捕まるのだ。嬲るような冷たい気配が背後に迫る。息が乱れる。思考がまとまらない。肌に突き刺すような殺気を感じる。すぐ後ろに追っ手がいる。こみあげてくるのは恐怖だった。
とっさに、助けを求めて声が出る。
「バーナード……!」
───それがどれほど無意味な叫びか知っているのに。
けれど、追っ手は確かに一瞬怯んだようだった。だけどそのことに安堵する間もなく、次の瞬間には、わたしは奪われていた。
二の腕にしっかりと巻いた青の布が、背後から伸びてきた手にするりと解かれる。たまらず後ろを振り返ると、そのまま腕を掴まれた。
追っ手の男がわたしの両腕を抑える。
それから彼は、少し困ったような顔をしていった。
「───はい、殿下。あなたの負けですよ」
わたしは荒い呼吸のまま、あらん限りの悔しさを込めて、最愛の騎士を睨みつけた。
※
事の始まりは、二週間前。いつものように午後の休憩時間に、近衛騎士たちと軽い世間話をしていたことに遡る。
「最近、運動不足だと思うのです」
春の陽射しが差し込む温かな室内で、その日の護衛だったバーナードとライアンに向かって、わたしはしみじみといっていた。
「王女だった頃は、国内を駆けまわっていましたから、朝も夜もなく馬を駆けることもよくありました。長い距離をひたすら歩き続けることはもちろん、冬山を登ったこともありました。ですけど、今では移動はほぼ馬車なのです」
「当たり前です」
バーナードがそっけなく答える。
わたしは上目遣いにじいっと彼を見上げながら続けた。
「歩く範囲も、王宮内や視察に行った先で多少歩き回る程度で、何日も歩き続けることも、野宿をすることもなくなりました」
「何よりです」
「運動不足だと思うのです。これでは必要に迫られたときに、再び冬山を登ることができないかもしれません」
「そのような事態に陥ることが二度とないように手を尽くしますので、ご安心ください」
「バーナード、わたしは非常時でも機敏に動ける王妹でありたいのです」
「殿下は十分に、これ以上ないほど、嫌というほど、俺がいくらお止めしても聞いてくれない程度には、有事の際に機敏に動いて危険に突っ込んでいかれております。もう少し動けなくなってくださってもよろしいのにと、俺は殿下の近衛隊隊長として日々思っております」
「まあ……」
わたしは両手を口元に当てて、悲しいわという演技をしつつも、形勢不利を悟ってバーナードから目をそらした。
そして、その先に立っているもう一人の護衛騎士に話を振る。
「あなたはどう思いますか、ライアン?」
「えっ、俺っスか!? 巻き込まれたくな……いや違うっス、考えてるっス、ううんと……」
ライアンはバーナードの反応を窺うようにちらちらと横目で見ながらいった。
「運動するっつっても、殿下は政務がお忙しいんスから、無理のない範囲で身体を動かすのがいいと思いますね。後宮の庭をぶらぶら散策するとか、気分転換に軽く乗馬するとか、そういうのでどうっスか?」
「そうですね。後宮の庭を走ることなら毎朝しているのですけど」
「嘘でしょ!?」
「ああ、侍女のミカや衛士たちが付き合ってくれていますから、危険はありませんよ。服装も動きやすい物を仕立ててもらっていますからね。ただ、毎朝走るだけでは足りないと思うのです。仕事が立て込んでいるときは、走ることさえできない日もありますしね」
ライアンがなぜか助けを求めるように隣の上司を見上げた。
バーナードは白けた顔をしている。
彼は昔、わたしがこの朝の習慣を始めた頃から「なんでその分も休まねえの? 姫様あんた、体力つけてこれ以上の無茶をやりたいってことか……?」と信じられないといわんばかりの顔で見てきたのだ。
大いなる誤解である。わたしはただ、有事に際して素早く行動できる姫でありたいだけだ。
バーナードの助力は得られないと悟ったのか、ライアンは両手の拳をぐぐぐっと握りしめたかと思うと、上へ向けてパッと開いた。自棄になったように、眼を据わらせていう。
「殿下、俺に名案があるっス。俺の行きつけのお店の子がよく言ってるんスよ。『お金がなくてスミレブドウ酒の赤紫が頼めない? それなら、紫を頼んだらいいじゃない~!』と」
「グレードが上がりましたね」
スミレブドウ酒の紫は最高級クラスだ。お値段は赤紫よりぐんと上がる。
「殿下も、どこぞの恐ろしい隊長のせいで剣の訓練を受けさせてもらえないっていうなら、弓の訓練を受けたらいいんスよ! 『剣が駄目なら弓でいいんじゃない?』という最高のご提案っス!」
「まあ───、素晴らしいアイディアです、ライアン。弓というのは考えたことがありませんでした」
わたしが感嘆の声を上げると、ライアンは得意そうに胸をそらした。
「でっしょー!? さすが俺! さすが近衛隊一の切れ者! 副隊長なんか眼じゃないっス!」
「あなたの柔軟な発想はわたしも見習いたいと思っていますよ。どうやら固定観念に囚われていたようです。剣にこだわる必要はありませんでしたね。弓、ぜひ挑戦してみたいです」
「それなら俺の知り合いに上手い奴がいますよ! 実家が狩りで生計を立てていたって奴で、弓矢を作るところからできる奴っス!」
「素晴らしいわ。ぜひご教授いただきたいものです。弓矢を作ることができるようになったら、有事におけるわたしの頼もしさが増すのではないでしょうか。ねえ、バーナード?」
「いつでも紹介するっスよ~!!! 隊長の許可さえ下りたらっ!」
ライアンが笑顔で言い切る。
わたしは、あらあらと微笑み、ライアンは耐えるように表情も身体も動かさなかった。
執務室はしんと静まり返る。冷や汗をかきながら待ち続けても、彼が口を開く様子はない。
わたしもライアンも、じわじわと膨らむ緊張感に耐えかねて、恐る恐る、無言を貫いている近衛隊隊長へ視線を向けた。
「あの……、バーナード? 冗談ですよ?」
「そうっスよ!? これはちょっとしたユーモアですからね!?」
「ええ、その通りです。わたしも逃げることが最優先であるとは理解しています。あなたのお説教を忘れているわけではありません。ただ、弓の訓練は体力づくりには最適かもしれないと少し思っただけです」
ライアンが「なんで最後を付け加えちゃうんスか殿下!?」と悲鳴を上げた。
しかしバーナードは、わずかに首を傾けただけだった。
わたしたちの予想に反して、彼は怒るそぶりもなく冷静な口調でいった。
「殿下がそれほど運動不足を気にされているのでしたら、丁度よかった。俺も前々からご提案したかったことがあるんですよ」
「なんでしょうか……?」
「逃げる訓練です」
バーナードは淡々と続けた。
「俺がいないときに襲撃を受けたと想定して、逃げる訓練をしていただきたい。緊急時において最善の逃走経路を選んで一目散に逃げるというのは、不慣れなままできることではありません。まずは謁見に来た貴族の中に暗殺者が紛れ込んでいたという設定で、逃げる訓練をしましょう」
バーナードはうっすらと笑みを浮かべた。
「訓練中は、俺以外の近衛隊が殿下の護衛につきます。そして暗殺者役については───、微力ながら、この俺が精一杯務めさせていただきます」
薄い笑みを浮かべるバーナードの唇が、にいと、三日月のように吊り上がる。
なるほど、と、わたしは現実逃避のように納得した。
───怒るそぶりもないと考えたのは、まったくの見当違いだったということですね。
いつも読んでくださってありがとうございます。
感想もとても嬉しく拝見しています。
二巻の発売日や書き下ろしについての詳細も、近日中にはお知らせできると思います。どうぞよろしくお願いいたします。