9.気持ち悪いと騎士はいった
そもそも、彼に、いずれは結婚して家庭を築きたいとか、そういった望みはあるんだろうか?
わたしは、頭に入ってこない書類を、諦めて机に戻すと、少し休憩するわといって、ソファへ移動した。
サーシャが、心得た様子で、新しい紅茶を用意してくれる。
バーナードは、気づかわしそうにわたしを見ていた。彼は、わたしの政務に関しては、わたしから聞かなければ、口を出すことはない。護衛としての職分をわきまえており、沈黙を守る。ただ、その眼差しに、案じる色が混ざるだけだ。
わたしは、その焦げ茶色の瞳に、わずかに微笑みを返して、それから、思い切って尋ねた。
「バーナードは、将来的には、結婚を考えているのですか?」
「……俺の結婚、ですか? 殿下のではなく?」
「ええ、その……、一般的な意見を聞いてみたいと思ったのです。サイモンにも教えてほしいわ。二人とも、結婚に対する考え方や、理想というのはありますか?」
バーナードが、サイモンに顎をしゃくっていった。
「殿下がお尋ねだぞ。答えろ」
「えっ、俺からいうんですか!? 順番的には隊長じゃ!?」
「殿下は一般的な意見が聞きたいとおっしゃってるんだ。どう考えても、俺よりお前のほうが適任だろう」
バーナードも聞かせてちょうだいね、と、わたしがいうと、彼は露骨に嫌そうな顔をした。
なんだろう。結婚願望がないという程度なら予想していたけれど、なにか嫌な思い出でもあるのだろうか。
わたしが内心で首を傾げていると、サイモンが、ううんと唸りながらいった。
「俺は、家族中から、食の好みを直さないと結婚できないといわれてまして」
「まあ。それほど偏食なの?」
「好き嫌いはないんです。ただ、俺、辛党なんですよね。香辛料をぶちまけて、皿を真っ赤に染めて食べるのが大好きなんです。特にフィッテを真っ赤にするのは最高ですよ。王宮の食堂ではさすがに我慢してますけど、朝晩は真っ赤にしないと気がすみません」
「まあ……」
フィッテというのは、よく練った粉物を、細長く伸ばして茹でてから、肉や野菜などと一緒に炒める料理だ。ピーネという香草が練り込まれているので、油でいためると、香ばしい匂いが漂って、とてもお腹が空く。
地方へいくと、それぞれ各地の特色ある味付けもある。特に沿岸地方では、肉の代わりに魚介類をたっぷり入れたフィッテが味わえる。
フィッテは我が国では定番の食事の一つであり、使われる食材に差はあるものの、貴族から平民まで幅広く親しまれている。
わたしも、王女時代には、国内を飛び回っていたので、各地方のフィッテを食べたことはあるけれど、そんな真っ赤なものは見たことがない。というか、基本的に、香辛料を大量に入れて食べる料理ではない。
わたしとバーナードにまじまじと見つめられて、サイモンは、照れたように頬をかいた。冗談をいったわけではなく、本気の辛党らしい。意外過ぎる。
まあ、こればかりは、見かけで判断できるものではないだろうけど、サイモンは、どちらかというと童顔で、可愛らしい雰囲気の青年だ。それほど辛い物が好きだとは思わなかった。
バーナードが、引いた顔になっていった。
「お前、それは、結婚できないな」
「隊長にいわれるとショックがデカいんですけど!? ……そりゃ、家族からは、俺の食べ方を不快に思わない料理人はいないし、奥方もいないといわれてますけど……。でも、探せばきっと、家柄もぴったりで、笑顔が可愛くて、そして辛い物大好きという女の子がいるはずなんです! 俺はそういう素敵な女性と結婚したいと思ってます!」
サイモンが元気よくいう。
わたしとバーナードは、「そうね、探せばどこかには……」「いないと思いますけど」「きっと辛党の女性もいますよ」「辛党でも嫌でしょう、皿を真っ赤に染める男なんて」と、言葉を濁しつつ頷き合った。
それから、わたしは、視線をバーナードへ向けた。
「バーナードはどうですか?」
「俺は食べ物にこだわりはないですよ。食べられるなら何でもいいです。自分の分だけなら、毒入りでも気にしません」
「そこは気にするべきですよ」
「知ってるでしょう、殿下。俺は毒の効かない体質です。俺にとっては、毒なんて、調味料と変わりませんよ」
サイモンが「ひえっ、隊長が『どうやっても殺せない呪いの魔剣』って噂は本当だったんだ……」と怯えた声を漏らす。
わたしは「それでも気にするべきです」と繰り返してからいった。
「話がそれてしまいましたけれど、食の好みではなく、結婚への考えについて聞かせてくれますか?」
「あー……」
バーナードは、嫌そうな顔で、眼をそらした。なんだろう。それほど苦手な話題だったのだろうか。
「殿下。俺に、一般的意見なんてものを求めるのは、時間の無駄だと思いますよ」
「一般的でなくとも構いません。……でも、無理に聞きたいわけではないですよ。ごめんなさい。突然尋ねるには、不適切な話題でしたね」
「いえ、そんなことはありません。ただ……、なんていうかな」
バーナードは、自分の首筋に手をやり、しきりに目をさまよわせた後で、渋々といった様子で口を開いた。
「……結婚したら、赤の他人と、一緒に暮らす羽目になるじゃないですか」
「そうですね」
「俺は、それが、どうにも気持ち悪くて……、だから、結婚する気はないですね」
えっと、声を漏らしたのは、わたしではなくサイモンだった。
だけど、わたしもまったく同じ気持ちだった。思わず、まじまじとバーナードを見てしまう。
結婚を考えていないとか、結婚について考えたことがないという返答だったら、予想していたけれど……、気持ち悪い? 他人と暮らすことが、そんなに苦手だったの? 知らなかった。
バーナードは、困ったようにいった。
「結婚を馬鹿にしているとかじゃないですよ? 俺は、結婚しているかどうかに関係なく、プライベートで他人が近くにいるのが苦手なんですよ」
そういった途端、サイモンが、ほとんどジャンプする勢いで、バーナードから距離を取った。
「おい、持ち場を動くな」
「だっ、だって、俺、隊長を不快にさせて死にたくないです!!」
「プライベートで、といっただろ。職場では何も思わない。殿下も、殿下がお傍にいることは、何の問題もありませんからね。変な気遣いで、俺から離れようなんてしないでくださいね」
念押しのようにいわれて、わたしはなんとか頷いた。
「え、ええ……。あなたが大丈夫だというのなら……。でも、無理はしないでほしいのだけど……」
「無理なんかしてません。あなたが俺から離れる方が、よほど無理です。そちらのほうが、俺にとっては耐えがたいので、絶対にやらないでください」
バーナードは、苦々しい顔になって、深いため息をついた。
「それに、プライベートでも、ただの人混みとか、俺に関心のない人間がいる分には、気にならないんですよ。ただ、俺を欲しがる連中が気持ち悪いんです」
話の意図を図りかねて、わたしがかすかに首を傾げると、バーナードは、諦めたように嘆息していった。
「昔……、殿下に出会うより前の、昔の話ですよ。……せっかく確保した寝床に、無理やり押しかけられるとか、そういう類のことが、何度もあったんですよ」
えっと、今度声を上げてしまったのは、わたしだった。
だって、わたしと出会うより前といったら、バーナードは、まだ少年だったはずだ。
「あなたは、自分の歳を覚えていないといいましたが、おそらく15歳前後でしたよね……?」
「ええ。ただ、俺は、ガキの頃から、化け物呼ばわりされる程度には強かったんですよ。それで、俺を欲しがる人間が、まあ、うんざりするくらいにはいました。自分の部下になれと押しかけてくる男どもも、逆に配下にしてくれと追いかけてくる男どももいましたし、俺の女にしてくれと、ああ、いえ、その、……俺の恋人になろうと、股を開い……、いえ、あの、服を脱い……、じゃなくて、その、積極的な女性というのもいたんですよ」
初めて聞く話だった。