45.あなたとともに、どこまでも①
冬の厳しさの下で澄み渡った蒼天とはまたちがう、雲の白さが溶け込んだような淡い水色の空が広がっている。春の訪れが実感できる暖かな昼下がりだ。
今日は政務を午前中で切り上げて、午後は休みを取っていた。
バーナードと二人きりで連れだって後宮の庭を散策する。熟練の庭師たちが丹精込めて作りあげている庭園は、どの季節に訪れても色鮮やかで美しい。
御前試合からはすでに二週間近くが経っていた。
ギルベルトは未だに騎士団の本拠地《一の剣》で療養中だけれど、フォワード家一行は数日前に王都を離れている。レイティスは最後に挨拶に来た。国境を守る辺境伯家として、いつまでも領地を離れてはいられませんからと笑うその姿には、晴れやかさと自信が満ちていた。
先にエバンズ卿から報告を受けていたことではあったけれど、兄弟の話し合いは良い決着をつけられたらしい。
ギルベルトは回復でき次第、西の砦に戻るという。
『何かありましたらいつでもお呼びください。俺は必ず殿下のお役に立ってみせます。ご命令とあれば、敵国の王室を転覆させることもやり遂げましょう』
という物騒すぎる伝言を、エバンズ卿を通して受け取っている。
バーナードといい、どうして誰もかれも他国を滅ぼせるアピールをしてくるのだろう。その有能さはもっとこう、自分の人生の幸せを見つける方向などで発揮してほしい。
ちなみにバーナードは、御前試合の後、庶民層においても話題に上げられることが減ったらしい。
噂話を集めて報告したライアンいわく、
「口にするだけで災いを呼び寄せそうっつーか、呪われそうな気がするみたいっスね。話題に出すだけで騎士団の連中が真っ青になりますからね~。どんだけヤバいのかがそこから広まったみたいで、今じゃ立派な悪神扱い、呪いの魔剣の生まれ変わり、この世に降り立った死の国の王なんていわれてますね。いやあ、あんなヤバいもんを見せられちまったら、そうなりますよね~。俺も気持ちはよくわかります。こんな人外で呪いの魔剣な狂犬隊長の下で働いている俺は超えらいっス。給料上げてもらってもいいでしょぐほっ……、クソ、副隊長の顔面に呪いが降り注ぎますように……、えーっと、それから殿下については『王家として苦渋の決断をされたんだ……!』って感じで、呪いの魔剣の求婚を受け入れた尊い犠牲のように語られていますね。まあでも、隊長の話を避けると必然的に殿下の婚約話もしなくなるので、全体的に鎮火したといっていいんじゃないっスかね」
途中の異音はいつものようにチェスターの仕業だった。
バーナードはおおむね満足そうな顔をしていた。
わたしは片手で額を押さえて、やはり何か間違っているのでは? という思いを新たにしていた。
※
庭園の一角には、早咲きの桜の木が植えられている。今は七分咲きといったところだろうか。花が開いている枝もあれば、つぼみを膨らませている枝もあった。
その傍に置かれた石造りの長椅子に、バーナードと二人で腰を下ろす。
陽射しをたっぷりと浴びた椅子は、まるで暖火石のようにぬくもっていた。
ひとしきり桜の花を眺めてから、わたしは覚悟を決めて身体ごと隣へ向き直った。
「バーナード」
「はい、殿下」
「昨日予告した通りに、これからするのは、わたしの……、あなたに対するわがままな気持ちについての話です」
「はい」
バーナードがとろけるような笑顔を見せる。ただでさえ端正な顔立ちの彼がそんな風に微笑むと、まるでそこだけ世界が輝いているようだ。
わたしの心臓はたちまち高鳴って、その直後に思い切り沈んだ。この人はちゃんとわかっているのだろうか。
「バーナード、わたしは愉快な話をしようとしているのではありません。これからあなたにわがままをいうと宣言しているのですよ」
どんな無理難題をいわれるのかと警戒してもいい場面だ。こんな輝くような微笑みを浮かべてわたしを見つめる状況ではない。
警告するようにそう告げたけれど、こげ茶色の瞳は甘さを増すばかりだった。
「お忘れですか、殿下? 俺にとっては褒美をいただくのと同じことですよ。正直に申し上げるなら、あの夜から何度も想像を巡らせました。あなたが我慢している、俺へのわがままとはいったい何だろうと」
「これは無理難題なのです」
深刻さを伝えようと重々しく告げる。
するとバーナードは、わたしが知らず知らずのうちに固く握りしめていた手を、上からそっと握りしめた。思わずびくりと震えても、彼の手が離れていってしまうことはなかった。
バーナードの手は、大きくて温かかった。
緊張を解きほぐすようなその温もりに、自然と手から力が抜けていく。
バーナードはそれを待っていたかのように、するりと指を絡めてくる。わたしの指の隙間に、彼の長い指が通っていって、その硬い指先で優しく抱きしめられる。
思わず身体が跳ねそうになったのは、初めてのことだったからだ。
ダンスのときに手を繋いだことならある。だけど、何の必要もないのに、こんな明るい陽射しの下で、バーナードと指を絡めている。わたしはかあっと頬に熱が集まるのを感じた。
「殿下」
「はっ、はい」
「俺なりに推測してみたのですが、あなたのわがままというのは、もしかして、以前仰っていたように、恋人としての時間が欲しいということでしょうか?」
バーナードが低くかすれた声で問いかけてくる。
その形の良い薄い唇のそばへ、絡めたままのわたしの指を持っていきながら。
「もしそうであるなら、殿下、俺とて同じ思いです。あなたと二人きりで過ごせる時間が、俺にとってどれほど貴重で得難いものか、どれほど嬉しく幸福なものであるか……、とても言葉では言い表せないほどです。殿下が無理をせずに、今日のように休みを取ってくださるなら、俺はいつだってあなたと過ごしたい」
熱っぽい瞳で見つめられて、甘い声で囁かれる。
わたしはもう溶けてしまいそうだった。
今なら春の陽射しに溶ける雪の気持ちがわかる。限界を超えると溶けてしまうのだ。
いっそもう彼の言葉に頷いてしまいたいという衝動に駆られる。そうなのですと肯定して、こげ茶色の愛をはらんだ瞳にいつまでも見つめてほしい。このまま溶けてしまいたい。
しかし、わたしの理性は必死に立ち上がった。
このわがままについて打ち明けようと思ったのは、ギルベルトの何もかもを抱え込んで水底へ沈んで行こうとするような姿を見たからだ。
即断即決、そして即座の行動が必要なときもある。戦場では特にそうだろう。有事においては必要不可欠な資質だ。
けれど、穏やかな日常があり、話し合う時間があるなら、言葉を尽くすことも大切だ。レイティスのあの晴れやかな表情を見て、なおのこと強くそう感じた。
わたしもバーナードと話をしようと思ったのだ。
わたしたちは婚約者で、いずれは結婚して、この先の一生をともに歩いていくのだから。これがどれほど愚かな独占欲であっても、無理に抑え込むよりは、打ち明けてしまって一緒に対処方法を考えていったほうがいい。
そう覚悟を決めて、この場を設けたのだ。
だから、たとえ彼の輝く微笑みに、溶けかけの雪だるまのような心境になったとしても、雪解け水と化して流されてしまうわけにはいかないのだ。
このまま後ろめたいことは明かさずに、バーナードと甘い時間を過ごしたいというのは、誘惑という悪魔のささやきだ。
わたしは自分自身を奮い立てて、彼と絡めた指に力を込めた。
「ちがうのです、バーナード。わたしのわがままというのは、もっとひどく……、口に出すのもはばかられることなのです」
バーナードの喉が、ごくりと息を呑み込むように大きく上下した。
なぜか、こげ茶色の瞳は熱さを増したようだった。優しく甘い眼差しの奥に、爛々とした輝きが見える。そこに渦巻く熱をなんと表せばいいのだろう? まるで獲物に飛び掛かる寸前の獣のようだ。
そう思ってしまって、内心で首を横に振る。ここには騎士が剣を抜くような標的はいない。二人きりなのだ。バーナードはきっと強い警戒心を抱いたのだろう。彼の場合はその感情が、獲物を見定めるような鋭さとなって表れているのだ。
それに、バーナードがいつになく緊張しているのも感じられた。彼がその強い自制心で彼自身を抑えていることも。おそらく、わたしに何をいわれるのかと戦々恐々としているのだろう。