44.ギルベルトとアメリア
西の砦の英雄は長く王都を避けてきた。功績を立て、英雄と呼ばれ、爵位を与える話が出たときも、かたくなに拒んできた。なぜなら彼は、その容姿が先代フォワード家当主によく似ていたからだ。
ランティス・フォワードは死んだままでいなくてはならない。
今さら生きているとわかったら、それが西の砦の英雄だとわかったら、生家を惑わせ、弟をまた苦しめることになる。
ギルベルトは恐らく、ずっとそれを怖れてきたのだ。
けれど今回、彼はわたしを守るために王都へ来た。
その時点で、既に覚悟は決まっていたのかもしれない。名実ともに死んでしまえば、後から似ているという噂が経ったとしても、もはや何の意味もないからだ。
バーナードに殺されることは彼にとって一石二鳥の策だった。
レイティスのいう通り、彼はあまりに決断が早く、行動もまた速い。
「あなたは西の砦の英雄です、ギルベルト」
橙色の灯りに照らされる室内で、傷だらけの青年が、感情を押し殺すように息を吐く。
そこにいるのは、かつて見事に草原国ターインの侵略を退け、今回もまた瞬く間に最強の騎士を舞台へ引きずり出してみせた策謀の青年だ。
けれど、ここにきて、わたしには彼が酷く疲れているように見えた。若葉色の硬質な瞳の奥には、生きることに疲れ果ててしまったような諦めがのぞいていた。
おそらく……、彼にとっても過去は未だに振り切ることができないまま、そこにあるのだ。
レイティスが怖れていた通りに、両親と弟を恨み許せずにいるのであったら、まだギルベルトは楽だったかもしれない。恨み切ることができたなら。いっそ憎むことができたなら。
けれどギルベルトにはできなかったのだ。彼は家族を愛していて、愛されたかったから。
怒っていても恨んでいても、許せなくても、それでも愛していて、愛されたかった。
……だから今でも、母親を死なせてしまったという自責の念が、茨のようにギルベルトの首を絞めつけている。
先代辺境伯夫人は事故死であり、そこにランティスの責任は一切ない。
それを恐らく彼自身、頭では理解している。
けれど心が、自分が自分を責め立てるのだ。
あのとき、ちがう言葉を口にしていたら。母親を動揺させるような態度を取らなかったら。自分が親の望み通りの子供であったなら、何もかもちがっていたのではないかと思わずにはいられない。
それがどれほど間違った考えか、ギルベルト自身わかっているのだろう。
先代辺境伯夫人にどんな過去があったとしても、彼女が息子へした仕打ちは間違っている。ランティスはランティスという一人の人間であり、親の望みを実現するための人形ではない。
その事実を理解できないほどギルベルトは幼くはないし、視野が狭くもない。
それでも……、心がついていかないのだろう。
わたしは密やかに息を吐いた。彼の気持ちがわからないとはいわない。その痛みが理解できないとはいわない。けれど……。
ギルベルトは疲れているのだろう。本当はもう綺麗な幕引きがしたかったのだろう。姫を守り、弟を守って死ぬ。そうやって満足して終わりたかったのだろう。
けれど、わたしは、それでいいとはいわない。
もう十分頑張りましたよといって見送ることはしない。
目の前にいる民を、死神の鎌に差し出すのはわたしの役目ではない。
───わたしはあなたの手を掴みます、ギルベルト。あなたに生きろといいます。あなたの前に未来はあると示します。それが王家です。
太陽の光が届かない室内で、月の輝きのような銀の髪の青年を前に、わたしは穏やかに微笑んでみせた。
「今回の一件で腹を立てなかったといえば嘘になりますが、それとは別に、わたしはあなたに感謝しています。あなたはこの国と民を守ってくれました。ありがとう、ギルベルト。あなたは素晴らしい騎士です。ずっと感謝の言葉を伝えたかったのです。あなたが西の砦にいてくれて本当によかった」
ギルベルトはひどく困ったような顔をして、ためらいがちに目をそらした。
そして震えを押し殺したような声でいった。
「俺が……、殿下にそういわれたら簡単に心が揺れてしまうような、弱い男だと知っていて、そのような甘い言葉をかけられるのですか……?」
「わたしは心からの思いを口にしただけですよ。ええ、とはいえ、あなたにとってわたしは神であると聞いていますからね。どうしてそれほど崇められているのかは知りませんけれど、利用しない手はありません」
自分の胸に手を当てて、傲慢に笑ってみせる。
「わたしはあなたが欲しいのです、ギルベルト。あなたという人材が欲しい。このディセンティ王国の王の右腕として、あなたを死の国の王などには渡しませんよ」
ギルベルトが眼を細め、頬を歪めて、泣き笑いのような顔をした。
「……俺が騎士団に入ったのは、わずかでも殿下の力になりたかったからです。貴女はご存じないことですが、俺は昔、貴女を見かけたことがあります。……あの頃の俺は、母を死なせた自分が、どうしてまだ生きているのかわからなかった……」
ギルベルトは血を吐くような声で呟いた。
それから「だけど」と、意志の力で唇を引き上げるようにして微笑んだ。
「だけど、あのときも、貴女が俺に道を示してくれた。この国を守ろうとする貴女の姿に、俺は、光を見ました。この世界の何もかもが信じられなくとも、俺自身が信じられなくとも、貴女だけは信じられると思った。……だから、せめて、姫の役に立ちたかったのです」
「無欲ですね、ギルベルト。それがあなたの願いなら、すでに十分叶っていますよ」
彼の手に巻かれた包帯の上に、ぽたりと雫が落ちた。
「俺は、守りたかったものを守れずに、逃げ出した、弱い男です。俺は、守ろうとして、全部壊してしまった。俺は卑怯者で、俺に守れるものなど何もなかったのです。それでも、貴女が……、あのとき、貴女が揺るぎなく前を向く姿を見て……」
ギルベルトの頬を涙が伝う。
彼はもはやそれを隠そうともせずに、ただわたしを見つめていた。
「俺はまだ、貴女のお役に立てるでしょうか、姫……?」
「あなたが必要です、ギルベルト。この国を守るために、この先も力を貸してほしいと思っています」
力強く断言してから、でも、と続ける。
若葉色の瞳を覗き込んで、そこにいる迷子の子供のような彼に、穏やかに告げた。
「でも、ギルベルト。そうでなくてもいいのです。戦わなくてもいいのです。騎士でなくてもいいのですよ」
疲れたなら休んでいい。苦しいなら泣いていい。ただ、どうか。
「たとえば、今日の食事は美味しかったとか、花の香りがしたとか、空が綺麗だったとか、そんな日常を積み重ねていってください。一つずつ、一つずつ、あなた自身のための毎日を過ごしていってください」
若葉色の瞳が見開かれる。
「ギルベルト。あなたには未来があって、自由なのですよ。その手に固く握りしめている過去を、もう手放してもいいのではありませんか」
彼はしばらく呆然としたように動かなかった。
やがて、ぎこちなく頷く。二度、三度と繰り返し、幼子のような仕草で頷いた。
それから彼は、透き通る瞳で微笑んだ。苛烈でもなく、凍り付いてもいない。涙とともに何かが流れ落ちていったかのような、初めて見る彼の瞳だった。
殺風景な室内に、穏やかな沈黙が降りる。
ギルベルトが照れくさそうに頬を拭い、バーナードが面倒くさそうに息を吐いた。
わたしはそこで少々企みのある笑みを浮かべて、エバンズ卿を見た。
もらい泣きを耐えるように眉間に力を入れていた騎士団長は、すぐさまこちらの意図を察して扉を開けた。
そこには、銀の髪に若葉色の瞳の青年が立っていた。
ギルベルトがぎょっとしたように身体を引く。
しかし寝台の上では逃げ場はない。
青年はぼたぼたと大粒の涙を零しながら室内へ足を踏み入れた。
「兄上───!」
「なっ……、どうしてお前がここに……、姫!?」
わたしは早々に立ち上がり、にっこりと微笑んでギルベルトを見下ろした。
「あなたの決断力と行動の速さは素晴らしいですけれど、もう少し対話も重視したほうがいいと思うのです。まずは兄弟で話し合うところから始めてみてはいかがでしょうか?」
「兄上、俺はあんな酷いことをいったのに、ごめんなさい、兄上……っ」
「いやっ、俺は君の兄ではないし、話し合うことなど何も! 姫! 待ってください、俺にどうしろと!?」
「安心してください、この再会は外部には漏れないように手配してありますから。お互いの気がすむまで語り合って大丈夫ですよ。エバンズ卿、あとはよろしくお願いします」
「感謝いたします、殿下」
エバンズ卿が深く頭を下げる。
それではわたしは失礼しますねと告げて、バーナードとともに部屋を出た。
背後からレイティスの泣き声とギルベルトの引き留める声が響いていたけれど、すべてまるごと無視した。
後ろでバーナードが「姫様は他人にはああいうことが言えるんですよねえ。どうしてその言葉をご自身に向けてくださらないんですかねえ。姫様だって戦わなくていいし、いつ『姫君』を辞めてくださってもいいんですけどねえ」とわざとらしい独り言を呟いていたけれど、それもきれいに聞き流した。
残り三話で完結です。