42.戦い終わって日が暮れて
「お怒りですか、殿下」
「やりすぎです」
御前試合のときと同じ会話を繰り返しながらも、あのときは飲み込んだ言葉を続けた。
「わたしだって、あなたという婚約者がいるのに、ほかの男性を勧められることには腹が立ちましたし、わたしたちのことを似合いの二人だと皆に認めてほしいとは願っています。でも、それは、あなたの悪評をさらに悪化させて、恐怖の象徴とその制御者のように扱われることではないのですよ。わたしはあなたが悪くいわれるのは嫌なのです」
わたしは怒りを込めていった。
しかしバーナードは軽く笑っただけだった。
「俺はどうでもいいです。俺のことをどうこう言われても、雑音よりも耳に入ってきません。残念ながら、こればかりは意見の相違ですね」
「バーナード」
「俺はですね、殿下」
彼は言葉を探すようにいいあぐねてから、こげ茶色の瞳に穏やかな優しさを宿していった。
「俺は悪評なんて立って当たり前だと思います。くだらない連中がいう通り、俺は出自の知れない流れ者で、戦いしか取り柄のない野蛮な成り上がり者です。それが本来は身元確かな貴族しか入れない近衛隊に入って、王妹殿下付きの隊長までやっているんです。普通ならありえないでしょう」
「近衛隊が出自を重視するのは他国からの間諜や暗殺者が潜り込むことを避けるためです。あなたが裏切ることはないとわたしもお兄様もわかっているのですから、何も問題はありません」
「さらには夜会で血を流した狂犬で、人とは思えないほど異常に強い。人の皮を被った呪いの魔剣です」
「あなたのその強さがなければわたしもお兄様もとうに死んでいました。あなたは命の恩人です。ああ見えてお兄様も、本当は深く感謝しています」
「殿下の兄君の感謝とやらは犬の餌にしたいくらいどうでもいいですけど、普通はね、俺みたいな奴は怖いものです。悪評が立つのも当たり前でしょう」
そこで彼は言葉を区切ると、困ったようにわたしを見つめた。
「姫様は、自分と婚約したせいで俺が余計に悪くいわれると気にしていますけどね、客観的に考えてくださいよ。俺はあなたに望んでもらえたんですよ? これほど幸運な男がどこにいるんです」
彼は笑みを浮かべて、堂々といってのけた。
「俺はあなたの心を得ることができた。これほどの幸福がほかにあるものか。俺はあなたに触れる権利を持っている。俺はあなたの愛を得ている。俺はそれが狂おしいほど嬉しい。俺にあるのはこの胸を焼く歓喜だけです」
「バーナード……」
「愛しています、殿下」
彼は目線の高さを合わせるように、身体を傾けて、わたしを見つめて微笑んだ。ランプの灯に照らされたこげ茶色の瞳は、揺るぎなく力強く、そして深い愛情に満ちていた。
わたしはたまらない気持ちになって、ただ小さく頷いた。
バーナードは嬉しそうに笑うと、続けていった。
「俺にとって許しがたいのは俺の悪評などではなく、あなたにはほかの男のほうが相応しいという声だけです。それを叩き潰せたので、俺は今とても気分がいい」
「わたしは今少し腹立ちを思い出しました」
「殿下は俺を褒めてくださってもいいと思うんですよ」
「恐怖の象徴になるとは素晴らしいですねとでも?」
「いえ、よくギルベルトを殺さずに我慢しましたねと」
「バーナード」
睨みつけても、彼は楽しげに笑うだけだ。
ちょっとした腹立たしさを込めて、わたしは手を伸ばし、正面にある彼の頬を軽くつついた。えいと怒りを込めて人差し指でぺちぺちとすると、バーナードが悪巧みをするような目をして、わたしの手をつかむ。
そして突然、わたしの人差し指にキスをした。
唇の柔らかな感触が皮膚に当たり、わたしはのけぞるように身体を引いた。
だけどバーナードは、強さは感じないのにしっかりと手を掴んだまま離さず、にやにやと意地悪くわたしを見た。
「仕掛けてきたのは殿下でしょう?」
「ちっ、違います、そういう意図では……」
たぶんない。なかったと思う。心臓がばくばくいっていて考えがまとまらない。頬が熱い。
「おや、許しを得たと思ったのは俺の勘違いでしたか。申し訳ない」
「い、いえ、謝ることでは」
「では許可を取りましょう。アメリア様、あなたのこの美しい指に口付けたい。許していただけますか?」
「えっ、あの、バーナード、それはあの……っ」
無駄に口を開いては閉じる。身体中が熱くて、了承の声も喉で止まったまま、まるで魅入られたように彼を見つめてしまう。
バーナードはなにか耐えるように目を細めた。
その大柄な身体は、しなやかにするりと音もたてずに動く。彼は椅子から腰を浮かせて、ゆっくりと、わたしに覆いかぶさるように近づいてきた。
「殿下、どうか……」
そのときだ。
通路とは逆側のドアから、ノックの音が響いた。
バーナードは一瞬、心底忌々しそうな顔をしてから、息を一つ吐き出した。こげ茶色の瞳が尋ねるようにこちらを見る。わたしが頷くと、彼は立ち上がって扉を開いた。
そこに立っていたのは騎士団長のエバンズ卿だった。
「お待たせして申し訳ありません、殿下。準備が整いましたので、どうぞこちらへ」
わたしは激しく高鳴っている心臓を抑えながら、平然とした振りで頷いて立ち上がる。
外套のフードを目深に被り、エバンズ卿の後に続いた。バーナードがわたしの後ろを歩く。
部屋から部屋へと進んでも、誰とも遭遇することなく、目的の部屋までたどり着いた。エバンズ卿が人払いをしてくれたのだろう。
わたしは扉の前まで来てから、面倒見の良い騎士団長を見上げた。
「バーナードが同席しても大丈夫ですか? 彼に恐れがあるようなら、ひとまずここで待っていてもらいますけれど」
殿下と後ろから咎める声がしたけれど、わたしは聞き流した。
エバンズ卿は苦く笑って、わたしを安心させるようにいった。
「問題ありません。あやつ自身が、殿下の近衛隊隊長殿と話がしたいといっております。お時間をいただいて申し訳ありませんが、付き合ってやっていただけますか?」
「わたしもギルベルトと話がしたいと思っていたのですよ」
エバンズ卿が扉を開ける。
窓もない殺風景な室内には、簡易ベッドが一つ置いてあるだけだった。
そしてベッド柵に背中を預け、上体を起こしてこちらを見ている、包帯だらけの青年が一人。
ランプの灯に照らされた室内で、わたしの姿を認めた途端に、ギルベルトは寝台から降りようとする。わたしは慌てて止めた。
「そのままで構いません。安静にしてください。動いたら怪我が悪化してしまいますよ」
「ですが……」
「殿下が動くなと仰ったら動くな。それともその両足を折ろうか?」
バーナードと咎める声で名前を呼んでも、彼は肩をすくめるだけだ。
ギルベルトは苦く笑ってベッドへ身体を戻した。
エバンズ卿が部屋の隅から椅子を持ってきてくれたので、ベッドの隣で腰を下ろす。バーナードはわたしの隣に立った。
エバンズ卿は扉の前に戻ると、ため息とともに告げた。
「私は口を挟みません。騎士団長として事の次第を見届けるため、そしてアメリア殿下の護衛としてここに立っております。───騎士ギルベルトよ、これはお前が始めたことだ。最後までその責任を果たせ」
「はい。───感謝しています、団長」
ギルベルトは静かに頭を下げた。
改めて見ると、彼はまさに満身創痍だった。顔色は悪く、包帯は額にも手にも巻かれていて、左腕は動く様子がない。この分では、服で隠れている場所も包帯だらけだろう。医官の手当てを受けて、鎮痛効果のある薬湯も飲んだと聞いているけれど、この様子ではどこまで効いているかわからない。日を改めようかという考えが一瞬よぎったけれど、彼と秘密裏に引き合わせることを考えると今日が最適だった。
わたしの逡巡を察したように、ギルベルトは穏やかに微笑んで、再び頭を下げた。
「申し訳ありません、殿下。俺の愚かさで、貴女に多大な迷惑をおかけしてしまいました」
「それは……、バーナードへの誤解は解けたという意味でしょうか?」
「近衛隊隊長殿の実力に関しては、完璧に」
若葉色の瞳が力なく下がる。三日月のような薄い唇が自嘲気味に笑った。
「人の皮を被った呪いの魔剣、一騎で万の軍勢に勝るなどというのは、作られた大袈裟な噂だとばかり思っていましたが……、まさかただの事実だったとは」
そう言いながらも、ギルベルトの面差しに恐怖はない。あれほど叩きのめされた後でも、恐慌に陥ることなく、冷静さは揺らがない。その点だけでも、彼は十分に傑物であるといえた。
「ここまで実力差を思い知らされた挙句、ご丁寧に手加減までされたというのに、それでもまだ信じられない気分です。呪いの魔剣の生まれ変わりなどという存在が、本当にこの世にいるとは思いませんでした」
「待ってください、新たな誤解が生まれています」