40.狂犬騎士の蹂躙
そして次の瞬間、バーナードの姿は消えていて、あるはずのない場所にあった。
ギルベルトの真正面だ。
刃を潰した剣がギルベルトの首に当てられていた。
「おい、ちゃんと避けろよ。危うく首を落とすところだっただろう?」
バーナードが笑う。愉快そうに笑う。
身じろぎもできずに眼を見開いているギルベルトに笑いかけて、剣の柄でその肩を打つ。それはひどく軽い動作で、けれどギルベルトが声も上げられずに崩れ落ちた。
しんと、闘技場内が静まり返る。それは水を打ったようというよりは、絶望によって凍り付いたような静けさだ。
わたしもまた自分の身体を抱きしめるような形で、ぞくりと粟立つ両の二の腕を抑えた。
「バーナードがあの速さで動けると知っていても、それでもなお、いつ見ても鳥肌が立ちます……」
思わず呟くと、隣のチェスターも頷いた。
「瞬きすらしていないというのに、いたはずの場所からいなくなって、いないはずの場所にいますからね……。あり得ないものを目にすると、人間はやはり恐慌状態に陥ってしまうものではないでしょうか」
「お二人とも十分冷静でしょうがっ! クソ、何なんだあれは。何度見ても存在が狂ってる。人の皮を被っているだけのなにか、神の手違いで人に生まれてしまったなにかだ」
ガルドが怖れを滲ませて呻く。
凍り付いていた観覧席にも、泡がはじけるように恐怖が伝播していく。
リングの上のギルベルトは、苦痛に顔を歪めながらも再び距離を取り、体勢を立て直そうとしていた。剣を握りしめるその指からも、バーナードを睨みつける眼差しからも、依然として戦意は失われていない。
ギルベルトが深く息を吸い込み、バーナードへ剣先を向けたときだ。
何が起こったのかはわからない。
チェスターのいう通り、瞬きすらしていなかったのだ。
けれど気づいたときにはギルベルトはリングの上に転がっていて、バーナードはその傍に無造作に立っていた。
ギルベルトが眼を見開き、遅れてやって来た痛みに耐えるように身体を固くする。バーナードがその肩を嬲るようにゆっくりと踏みつけた。
悲鳴が上がったのは、ギルベルトではなく、観覧席からだった。
「弱いな」
バーナードはつまらなそうに呟く。
それから闘技場内をぐるりと見まわして、自身に集まる怯えた視線を前に愉快そうに唇を歪めた。くつくつと空虚に笑い、やがて楽しげな声を立てる。
バーナードの嘲りに満ちた哄笑が闘技場内に響き渡った。
「弱い。あぁ、人間は本当に弱いな」
ギルベルトを踏みにじり、軽い動作で蹴り飛ばす。
それだけでギルベルトの身体が、石造りのリングの上で跳ねた。
悲鳴があちらこちらから発せられる。「いや」「やめて」「誰か止めてちょうだい」そんなご令嬢方の涙混じりの声が聞こえる。
わたしは真っ青になっていた。
隣を見なかったけれど、チェスターもおそらく真っ青になっていた。
誤解されがちだけれど、バーナードは決して残虐な性質ではない。彼は一瞬で勝負をつけるし、敗者を蔑むことも嬲ることもしない。そういった振る舞いに関心がない。彼にとって戦いとは手段であって目的にはなり得ない。
だからこれは、わざとだ。
わざとギルベルトを嘲笑い、わざと痛めつけている。それは目的を達成するための手段だ。人々に恐怖を刻みつけるための方法だ。
───あっ、ああ、どうしましょう。試合を長引かせていたのは、これが目的だったのですか? あのときいっていた『少し悪いこと』というのは、これだったのですか?
わたしは思わず悲鳴混じりの声で呟いていた。
「皆に恐怖を刻み込むことで、悪評を事実上消そうというのですか……!? 怖れによって皆の口を閉ざさせることで……!?」
「はっ、はは……、たしかに、その名を口にすることさえ不吉に感じられて恐ろしい存在っていますよね……、神話の中にならいますよね……」
───それは伝承の中の悪魔。不吉の象徴。大いなる災厄の手。静寂なる死者の国の大地に突き立つおぞましい闇。気軽に噂話を口にすることなどとてもできない、人ならざるもの。死と終焉をもたらす呪いの魔剣。
「目指す方向がちがいます、バーナード……!」
「自分から悪夢になろうとする男がどこにいるんですか隊長…!!」
悪評を消すというのは濡れ衣を晴らすということであって、恐怖によって沈黙を強いることではない。ないはずだ。
わたしとチェスターはそろって両手で顔を覆った。どうしてこうなったのだ。わたしはバーナードの悪評をどうにかしたいだけだったのに。まさか本人が恐怖の象徴になろうとしてくるとは思わないだろう。どうしてこうなったのです? なぜ?
しかし視界を覆っても現実逃避にしかならない。わたしたちは揃って両手を下ろした。するとバーナードが片手でギルベルトの肩を掴み、立ち上がれずにいる彼をやすやすと引きずりあげている姿が目に入った。
本当にどうしよう。
もはや闘技場内は恐怖に染まっていた。
ギルベルトの猛攻を見た後だ、彼が弱いだけだとは誰も思わない。西の砦の英雄が弱かったのではなく、対戦相手が異常なのだと、誰もが悟っていることだろう。
人の皮を被った呪いの魔剣。生き物としての格がちがう、神の手違いで人に生まれてしまったなにか。その気になったなら、この場の全員をたやすく皆殺しにしてみせるだろうと、そうわかってしまう。
場内に悲鳴やすすり泣きが満ちる。
騎士団側の騎士たちですら、これ以上見ていられないというように眼をそらし、「誰か止めろよ!」「怪物相手にどうやって!?」といい争うような声が聞こえてくる。
それでもバーナードはギルベルトを嬲る手を止めない。それどころか、闘技場内に響き渡るような声で笑いながらいった。
「簡単には死なないでくれよ。お前が死んだら俺が反則負けになってしまうだろう? ほら、あがけよ。どうした? それでも西の砦の英雄か?」
無邪気に首を傾げながら、言葉で嘲笑い、まるでゴミ屑のようにたやすくギルベルトを放り投げる。何もかもが噛み合わず、狂っていて、異常だ。───そう見えるように振舞っている。恐怖を与えるために。
誰かが「化け物だ……!」と怯え切った声で叫ぶ。
そのときだった。
観覧席からひときわ大きな声が上がった。
「頑張ってください! 頑張って! 頑張って! あに───ギルベルト殿! 頑張ってください!」
その声に、リングの上に倒れ込んでいたギルベルトが、びくりと身体を震わせる。
そして彼は、痛みに呻きながらも、必死に立ち上がった。
左腕はだらりと下がり、右足もまっすぐには立たない。誰が見てもわかるほどに満身創痍だ。それでもギルベルトは剣を握りなおし、荒い呼吸の中で、必死にバーナードへ剣先を向ける。
その英雄の姿に、わあっと騎士団席が沸き上がった。
「頑張れ! 頑張れギルベルト!」
「頑張ってください!」
「頑張って! あなたは俺たちの英雄です!」
「いや無理すんな! もう棄権しろ! リングから降りろ!」
「降参しろギルベルト! お前は十分よくやった!」
「お前にはまだ未来がある! ここは引け!」
「やっちまえギルベルト! お前には騎士団がついてるぞ!」
応援する声に案じる声と、さまざまな声が入り乱れる。
その熱はあっという間に観客席中に広まり、騎士団以外の貴族や商人たち、何なら近衛隊の中からすらギルベルトを応援する声が聞こえてきた。
これが神話の一幕だったら、ギルベルトは正義のために立ち上がった勇敢な騎士で、バーナードは世界を滅ぼそうとする邪悪な竜などだろう。すごい。ひどい。完璧に悪役である。
しかし、応援の盛り上がりは長くは続かなかった。
バーナードが唇の端を上げて観客席を眺める。そしていっそ無機質な声でいった。
「黙れ」
それだけで、誰もが気圧されたように口を閉じた。実際にそれは圧されたのだろう。無造作に発せられたたった一言に、まるで空気で殴られたかのような圧を感じたのだろう。
さらには、必死に立ち上がったギルベルトが、次の瞬間にはこめかみから血を噴き出しながら倒れ込んだ。
抑えきれない悲鳴が上がる。目の前の光景が信じられないというように、誰もが恐慌状態に陥る中で、バーナードだけは嫌そうに顔をしかめて、よく通る声でいった。
「汚いな。お前のせいで、俺の剣が汚れたじゃないか」
刃は潰されている。それは間違いない。けれど、剣としての重さと硬さには変わりはなく、尋常でない速さと強さで振るったなら、皮を切り肉を抉ることもあるのだろう。
闘技場内に、その理解と恐怖が沁み込んでいく中で、バーナードは疎ましそうに、血だまりの中でかろうじて息をしているようなギルベルトを見下ろした。
「このゴミが」
そう言い放ち、彼はギルベルトの顔を踏みつけにしようと、ゆっくりと足を持ち上げる。悲鳴が上がり、やめろと怒鳴る声が上がる。騎士団側の席からヒュー・クランヘルが駆けてこようとするのが見える。
わたしは深く息を吸い込み、そして告げた。
「そこまでです、バーナード」