36.祝祭
冬の終わりと春の訪れの境目で、空は青く澄み渡っている。
祝祭『種子の息吹』の最終日は、王立円形闘技場にて祭事が行われる。
七代前の国王が造らせたという円形闘技場は、中央に巨大な石作りのリングが置かれており、メインのステージとなるそこから階段を上るように観客席が広がっている。
建設当初は剣闘士と呼ばれる人々が剣を握って殺し合う見世物が人気を博し、観客たちはその勝敗を予想して賭けるギャンブルにこぞって夢中になったそうだけれど、これは王都の治安を著しく悪化させる原因となったため、次の王の時代に禁じられた。
今ではこういった祭事に用いられる以外では、野外で行われる演劇や音楽祭などの舞台になっている。一番遠い席までぎっしりと観客を詰め込んだら、最大収容人数は二万人を超えるという。
今日は祭事としての使用であり、王家を筆頭に高位貴族や大商人なども多く観覧に来ているため、一人一人の座るスペースはゆったりと広く取られている。
北側の騎士団勢の観覧席と南側の近衛隊勢の観覧席は、それぞれの騎士たちが詰めかけているため混雑しているが、ほかの席、特に舞台に近い前方の席は、まるでお茶会の場のように煌びやかだ。
各家の者によって采配されたのだろうその空間は、敷布や日よけ以外にも、その家の権勢を示すかのように彩られ、飾り立てられている。
その筆頭ともいえる王家の席で、わたしはお兄様とともに並んで座り、王都でも著名な歌姫たちが見事な歌声を響かせるのに聞きほれていた。
祝祭の最後を飾るのは御前試合だけれど、その前には、王立楽団による演奏会や、伝統の踊り手たちによる祝いの舞、名高い歌姫の春告げの歌なども行われる。剣の戦いに興味のない者など、こちらを本命として楽しみにしている観客も多いだろう。
美しく心地よいメロディに、ときに激しく、ときに心弾むリズムのうねりにより、広大な闘技場の空気も十分に温まっていく。
歌姫が最後の一音を終えると、熱狂的な拍手が沸き起こった。
───そして、ついに御前試合が始まる。
「それでは、お兄様」
「ああ、またな」
お兄様とわたしがそれぞれ立ち上がり、移動するために分かれると、観客席からは戸惑いのざわめきが漏れた。
通常なら、祝祭の最後、春告げ鳥が足を止めたといわれる聖なる枝を捧げるまで、王家は貴賓席で見守るものだ。
まさか御前試合を前にして王家が闘技場を去ってしまうのかという驚愕の視線を肌で感じながらも、無言で一番近い通用口へと進む。洞穴のような形をしたそこへ入ってしまうと、もはや観客席は見えなくなる。
近衛隊とともに階段を下り、足早に進むと、やがて目指す入り口が見えてきた。
すでに待機していた三人に合流すると、絶妙なタイミングで場内が静まり返った。国王陛下がこれからお話しになるという前触れを、側近の誰かが示したのだろう。静寂が降りたところで、朗々とした声が聞こえてくる。もう一つの貴賓席へ移ったのだろうお兄様だ。
「永久の繁栄と、春の訪れに祝福を!」
円形闘技場にお兄様の声が響き渡り、場内中から応える幾重もの声がまた「祝福を!」と重なる。そこには声だけでなく、鳴り響く打楽器や、槍を石造りの床に打ち付ける重い音なども含まれていた。
やがて残響すら消えて、再び静寂が戻ったところで、お兄様がまた口を開く。
「春の訪れとともに、私にはもう一つ祝い事がある。我が最愛の妹であり、このディセンティ王国を支える柱が一つ、王の右腕たる執務官、アメリア・ディセンティの婚約だ!」
わっと割れんばかりの拍手が起こる。
この巨大な円形闘技場であっても、お兄様の声はよく通る。一軍の将たる者の貫禄とでもいうのだろうか。戦場で指揮官の声が弱々しくては話にならないというのはあるだろう。
騎士団長であるエバンズ卿の号令も凄まじいし、バーナードやチェスターも、その気になったらお兄様同様に声を遠方まで通すことができる。
残念ながら、こればかりはわたしには難しい。全力で声を張り上げたとしても、場内の隅々までは響かない。
お兄様の明瞭な声が続く。
「御前試合は己の才覚のみを頼りに戦う場、剣以外が勝敗を左右することはあってはならん。しかし、王家の姫の婚約者が近衛隊隊長とあっては、やりにくさを感じる者もいるだろう。そこで今回は、私が騎士団の側に立つことにした!」
どよめきと納得が闘技場を揺らす。
そう、通常なら王家の席はちょうど石畳みのリングの中央近く、騎士団側と近衛隊側の中間地点に位置している。しかし今回は、もう一ヶ所席を用意してもらった。北側の騎士団勢側に作られた広々としたスペース、そこが御前試合用のお兄様の席だ。
「我が国の精鋭、死者の国の王すら恐れぬ勇ましき騎士団だ。よもや、麗しい姫君の応援でなくてはやる気が出ない───などとはいうまいな?」
お兄様の笑いを含んだ声に、場内がどっと沸く。
「このたびの御前試合、姫たる妹は近衛隊に、王たるこの兄は騎士団につこう。さあ、戦うがいい! 勇士たちよ、その武を示せ!」
わああっと、歓声が沸き起こり、ありとあらゆる音が打ち鳴らされる。場内の熱気が一気に高まっていく。
同時に、密やかな戸惑いも満ちる。南側の近衛隊勢の中に貴賓席は作られていない。それでは、アメリア姫はどちらに───? と、そんな囁きがさざ波のように広がる。
その問いかけを黙殺するように、石畳みのリングの中央に年配の男性がのぼる。
近衛隊と騎士団が戦うこの御前試合において、審判役を務める衛士兵総官長だ。小柄な方で、一見すると好々爺だけれども、ひとたび戦いとなれば、その鋭い眼光だけで敵を震え上がらせるのだという。
わたしは総官長が戦う姿は見たことがないけれど、幼い頃に後宮で無茶をして叱られたことはあるので、怒ると怖い方だというのは知っている。
衛士兵総官長は、その体格からすると信じられないほどの声量で、観客たちと、待機している騎士たちへ告げた。
「春告げ鳥の翼の下に、名を呼ばれし勇士は進み出よ! 近衛隊の一の騎士、ガルド・オーガス! 騎士団の一の騎士、イザク・ハート!」
オーガス家直系の次男、ガルト・オーガスが、わたしに一礼してから場内へ進み出て行く。途端にあがった歓声は、もはや戦場の怒号に近かった。
これは近衛隊の観覧席ではなく、オーガス家の一族からの声援だ。
武のオーガス、五大公爵家最大の軍事力、北の盾。本家のご子息の活躍を一目見ようと集まった戦士たちによる雄叫びである。
「うおおおおおっ!」
「オーガス! オーガス!」
「集結せよオーガス! 団結せよオーガス!」
「我ら千にして一つ! 万にして一つ! 軍勢にして一振りの剣なれば!」
オーガス! オーガス! と繰り返される家名と一族の名上げが凄まじい。彼らの雄叫びによって、実際に闘技場が揺れているようにすら感じられる。
「うるさい」
「殿下、耳をふさいで大丈夫ですよ」
忌々しそうにいったのはバーナードで、笑顔で勧めてきたのはチェスターだ。
五大公爵家の筆頭格であるルーゼン家とオーガス家は、建国の時代から延々と仲が良くないのだ。加えていうと、チェスターは家同士の不仲に関係なく、個人的にガルド・オーガスが嫌いだ。まあ、過去に色々とあったので、そこはわたしも口出しはできない。
さらにいうと、ガルド自身はチェスターのことを宿命のライバルくらいに思っている節がある。嫌われていることに気づいていないのではなく、嫌われていても気にしないのだ。彼にとっては強いか弱いかがすべてなので。
ガルドが片手を上げたことにより、オーガス家からの声援がぴたりと止まる。あの家は本当に統率が取れている。