34.夜の後宮の庭にて②
「殿下」
バーナードの両腕がわたしの背中に回る。
彼は壊れ物を扱うような優しい手つきでわたしを抱きしめて、その腕の中にすっぽりとわたしを隠してくれる。彼の胸元で、その大柄な身体が作る影の中で、わたしの頬を耐えきれなかった雫が伝った。
「……っ、……あまり……甘やかさないでください、バーナード……」
「嫌ですよ。殿下の言葉でもそれは聞けませんね」
「あなたは……、わたしを甘やかすのが世界で一番上手なので……、わたしはすぐ駄目になってしまうのです……っ」
「……正直なところ、この程度のことで甘やかすことができているとは、俺はちっとも思えないんですがね……」
バーナードの大きな手が、優しくわたしの背中をさする。
その温かさだけで、ほろほろと何もかもが緩んで、眼のふちから零れ落ちてしまいそうな気がした。
「俺にいわせればね、あなたは我慢しすぎだし、自分の気持ちを抑えることに慣れすぎていて、痛いという感覚まで鈍っているんですよ」
「え……、これは、怒られていますか……?」
「心配しています。姫様は、いつもいつも、自分自身よりも優先するべきものがあると考えていて、そのためには自分の感情は後回しで、我慢が当たり前になっているでしょう」
「そんなことは……」
「あるんですよ。あなたのそれはもう無自覚で、癖みたいになっている。切りつけられても痛くないという顔をしているうちに、自分でも傷口が見えなくなってしまうんでしょう。あなたの傷は確かにそこにあるのに」
バーナードの声は苦しげで、抑え込んだ怒りが潜んでいた。
でも、それがわたしへ向けられた怒りではないということはわかった。
「なぁ、全部捨てちまえよ、姫様。あんたを苦しめるものも縛り付けるものも何もかも全部捨てて、どこか遠くへ行こう。俺がずっと守るから。……そんな馬鹿げたことを、ときどきいいたくなります」
「バーナード」
「馬鹿げています。あなたが頷くわけがないとわかっている。あなたにとってこれはすでに選んだ道だ。あなたが背負っている重荷を投げ出すことはない。……ならばせめて弱音くらい吐き出して欲しいと思っても、あなたはときどき、自分が痛いということにも無自覚なので……」
わたしの背に回るバーナードの腕に力がこもる。ぎゅうと抱きしめられる。
わたしはふふと笑って、彼の背に手を回した。
「これはやはり甘やかされていますね」
「どこがですか」
彼は歯噛みするようにいった。
「俺に甘やかせるものなら、とうに殿下をさらって逃げています。あなたのことを誰も知らない土地へ連れて行って、あなたを大事に大事に囲い込んで暮らすんです。心身を擦り減らすような交渉も、正解のない決断も、あなたには一切させません。あなたは何もしないで、日がな一日、好きな歌を歌って、好きなだけ甘味を食べて暮らすんですよ」
「それは楽しそうですねえ」
「あなたは絶対に拒絶しますけどね。でも……、姫様だって、何もかもが嫌になったことが一度もないとはいわせない。すべてを投げたしたくなったことだって、一度や二度じゃないだろう? あなたはそのたびに、意志の力で必死に前を向いているだけだ。だから……、もう、頑張らなくていいんです。前を向こうとしなくていい。俺が代わりにすべて行って差し上げますから。どうか目をつぶっていてくれ。あなたはもう何もしなくていいんです」
「……昔から、あなたは、堕落の誘いのようなことをいいますね」
「ええ、殿下を堕落させたくて努力しているんですよ。あなたが傷つくくらいなら、いっそ駄目にしてしまいたいとね。健気なものでしょう?」
「努力の方向性が間違っていると思いますが……」
わたしはゆっくりと彼の腕の中から抜け出して、月明かりの下では夜色に輝く瞳を見つめた。
「あなたはわたしを無自覚だといいますけど、あなただって自覚していないことがあると思いますよ?」
「へえ、ぜひともお聞きしたいですね」
「それは……、あなたの心がどれほどわたしを守っていてくれるかということです」
夜色の瞳が見開かれる。
わたしは微笑んで、彼の右手に自分の手を重ねた。
「あなたがいてくれるから立ち上がれる。あなたがいてくれるから奮い立てる。あなたはいつだって、わたしの心も身体も護ってくれています、バーナード」
「殿下……」
「その上、あなたときたら、わたしが気づけていないわたしの心まで、丁寧に掬い上げようとしてくれる。こんなに嬉しいことがあるでしょうか」
バーナードの右手を両手で握りしめながら持ち上げて、そこに頬を寄せた。
「いつまでも痛む傷は確かにあります。結局、わたしは、今でも両親のことを振り切れていないのでしょう。でも……、わたしにはあなたがいてくれる。お兄様や、サーシャや、チェスターや、皆がいてくれる。わたしはこの幸福を大切にしたいのです」
バーナードの左手が、再びわたしの背中に回る。
先ほどより強く、それでいて激情を抑えていることがわかる優しい手つきで抱きしめられる。
「お守りします。この先もずっと。何があろうとも。あなたは俺が守ります。……愛しています、俺の殿下。俺の姫様」
わたしは「はい」とだけ頷いた。
それ以上はなにも言葉にできずに、ただ彼の厚い胸板に身体を預けるようにして、その温もりを感じていた。