33.夜の後宮の庭にて①
やがてわたしは、ため息を一つ吐き出していった。
「落ち込んでいるつもりはないのですよ。ただ少し……、昔を思い出しました」
多分これは少しだけ、レイティスの話に心が引きずられているのだ。
わたしは冬薔薇の向こう、月の光すら届かない暗闇を見つめた。方角がちがうから、その先にはいないと知っているのに。
「わたしのお母様の話は、あなたも知っていますよね、バーナード」
「……殿下を産んだ後は離宮に引きこもって、それ以来、誰の前にも姿を現していない女性でしょう?」
あえて『誰の前にも』といってくれる彼は優しい。その声に抑えた怒りが滲んでいることも。
わたしは小さく微笑んだ。
「ええ。わたしも会ったことはありません」
母の姿は肖像画で知った。髪の色と眼の色は同じだった。似ているといえば似ているのだろうか? 今となってはわたしの前で母のことを話題に出す人はいないし、自分では鏡を見てもよくわからない。
母は出産後、長年の侍女一人だけを連れて、王宮の広大な敷地の片隅にある離宮に閉じこもった。その後は誰の呼びかけにも答えず、扉を固く閉ざしている。
わたしも幼い頃は、どうしてもお母様に会いたくて、サーシャに無理をいって離宮まで連れて行ってもらったこともある。それも一度や二度ではなかった。
けれどわたしがどれほど外から呼びかけても、幼い王女を憐れんだ見張りの衛士が大声で娘の訪問を告げても、扉が開かれることはなかった。それがお母様の答えだった。
サーシャにしがみついて涙を耐えるわたしのもとへ、お兄様だけが、家庭教師の授業も何もかも放り投げて飛んできてくれた。
───大丈夫だ、アメリア。私がそばにいる。この兄が、ずっとそばにいるからな。なにも心配はいらない。大丈夫だ。
そんなささやきが、思い出せば今でも優しく耳朶を打つようだ。
お母様は、お兄様とわたしがお父様を諫めようとしたときも、お兄様が決定的にお父様と対立したときも、お兄様が即位したときでさえ、離宮から出てこなかった。食料や日用品などは定期的に運び込まれているので、生きてはいるのだと思う。わたしの婚約についても、お兄様が人をやって知らせはしたらしいけれど、いつものように返事はなかったという。
だからもう諦めてはいるし、受け入れてもいる。ここまで来ては何の期待もしようがない。
ただ、そう、あの兄弟の話に引きずられるように、揺れてしまう感情があるだけで。
「お母様が離宮に閉じこもった原因と思われることは、いくつもあって、色々なことの積み重ねとしかいいようがないのですけど……」
わたしは隣に座るバーナードを見上げる。
彼もまた、わたしと眼を合わせるようにこちらを見てくれる。
「決定打が何だったか知っていますか?」
月明かりの下で、夜色に染まった瞳に一瞬、隠しきれない激しい怒りが滲んだので、あぁやはりこの人も噂を耳にしたことがあるのだと思った。
「わたしが生まれたときに、お父様がいったのですよ。『なんだ、女か』とね」
お母様は、お兄様のときからして難産だったのだという。長く苦しんだ末にお兄様を産んだ後は、出産に対する恐怖心が強く残っていた。
しかし子供は一人でいいとは誰もいってくれなかった。王妃の務めとして、当然のように第二子が望まれた。出産は一人目よりは二人目のほうが楽になるというのが定説だそうだけれど、お母様は二人目のわたしも難産だった。
苦しんだ末に産んだ赤子を見て、夫が悪意すらなくいい放った言葉は、すでに色々なことが重なって崩れかかっていたお母様の精神にとって致命傷だったのだろう。心を許していた侍女以外は、何もかもを捨てて、放り投げて、離宮に閉じこもってしまった。
女性二人の立てこもりだ。
兵を動かせば、力尽くで離宮から連れ出すことは簡単だっただろう。
しかしお父様はそうしなかった。
その頃には夫婦仲は冷え切っていて、妻の身勝手な行動はお父様にとって都合がよかったのだ。
そこにもまた、王家の絡み合った事情があるのだけど、端的にいうなら、お父様は本来、王位を継ぐはずのない第三王子だったのだ。
兄二人とは母親がちがうため、後継者争いにおいて名前が上がることもなく、五大公爵家のうちの一つ、青蔓のセーデル家に婿養子として入るはずだった。
先々代の王の命によってお父様を当主の夫として迎え入れることになったセーデル家は、そのために長男を分家へ養子に出すはめになり、長女が当主の座を継ぐことになった。
しかし政変が起こり、お父様の元には玉座が転がり込んできた。
そのときに、婚約者であったセーデル家長女をそのまま妻として、王妃として迎えていたらよかったのだろう。しかしお父様は、よりにもよって婚約者の妹と恋に落ちた。婚約者である長女には次期当主としての務めがあるから王妃にはなれないといい張り、当時まだ健在だったセーデル家当主夫妻が猛反対するのも押し切って次女を妻に迎えた。次女はセーデル家の分家に嫁ぐ予定で、上に立つ者としての教育など受けていなかったのに。
王になるはずではなかったお父様と、王妃になるはずではなかったお母様だ。
責任と重圧と、周囲の騒音に押し潰されるように、二人の仲が冷えていくのはあっという間だったらしい。しかしお父様にとっては、本来の婚約者を裏切ってまで迎えた妻だ。ただでさえセーデル家に対して後ろめたいのに、結婚生活が上手くいかなかったなどと認めるわけにはいかなかったのだろう。
そんなときに、お母様が勝手に離宮に引きこもった。
お父様は妻の身勝手な行動を嘆きながらも、寛大な夫として、無理に離宮から出そうとはせずに、妻が自分から出てきてくれるまで待つと宣言したらしい。
セーデル家の人間が無理やり押し入ろうとするのも許さなかった。無理強いは良くないという建前のもとに。
これによって、お父様とセーデル家の立場は逆転した。
加害者は被害者に、被害者は加害者に。王は自分を受け入れるために長男を養子にまで出したセーデル家を裏切ったのではなく、王妃として迎えたセーデル家の娘に裏切られたのだと。
セーデル家の娘が、王妃の務めを放棄して引きこもっている。
これはどうしてもセーデル家の肩身を狭くした。それでも二年ほどは離宮の外からの呼びかけなども行っていたらしいけれど、やがてお父様は、周囲の甘言に乗せられるようにして、王妃の不始末を盾にセーデル家所縁の人々を一斉に王宮から追い出した。お兄様やわたしの世話をしていてくれた人々もだ。
サーシャの身分が侍女でありながら、わたしの乳母のような立場でもあるのは、本来乳母を務めていた女性がセーデル家の分家筋だったため、このときに職を奪われ、王宮から追い出されたからだ。
わたしは軽いため息をついて、バーナードの腕にもたれかかるように、ぽすりと頭を預けた。
「幼い頃は何度も考えました。もしもわたしが男子に生まれていたら、何もかもちがっていたのかもしれないと」
「殿下」
「わかっています。わたしのせいではない。性別を選んで生まれてくることなど誰にもできません。わたしが娘として生まれたことはわたしの罪ではない」
ギルベルトが病弱に生まれたことが、彼の罪ではないように。
わたしがどう生まれようとも、それはわたしの罪ではない。
それに、わたしが男子に生まれたとしても、今と同じ結果だったかもしれない。あるいはもっと状況は悪化していたかもしれない。
……そう、頭ではわかっている。
「それでも……、昔は何度も思いました。もしわたしが男子だったら、お母様は閉じこもらずにすんだだろうか。お父様とお母様が仲直りする日が来ただろうか。家族の仲がもっと良くて、お父様もわたしたちの話を聞いてくださっただろうか。そうしたら、この国が荒れることも避けられただろうかと……」
泣くつもりなんてないのに、眼のふちが勝手に潤んできてしまう。
顔を隠したくて、バーナードの腕にぐいとひたいを押し付けた。
「昔の話です。今はもうちがいます。……ただ、昔のことを思い出して……、少し、悲しい気持ちになっただけなのです……」