31.フォワード家③
「しかし、当時は兄もまだ子供でした。城下で密かに剣を買い求めたものの、その姿を親戚に目撃されてしまっていた。そしてやがて母の耳にも噂が届き……、あの日が訪れました。母が命を落とした日です」
それは積み上げてきた歪みが、ついに決壊したかのような日だった。
噂を聞いた夫人は今まで以上に荒れ狂い、怒鳴りながらランティスの部屋へやってきて、剣を取り上げようとした。
しかし、ランティスはそれまでとはちがい、初めて真っ向から母親に反抗した。
自分とてフォワード家の一員だ、剣を持って何が悪いのか、武芸を鍛えることは辺境伯家の者にとって義務ではないのか、我々は王家から国境と民を任された身、この国を守るためのフォワード家です、たとえ母上であってもそれを邪魔することはできないはずです───。
レイティスは母の様子を案じた使用人からの報告を受けて、急いでその場に駆け付けていた。当主が不在である今、夫人が耳を貸すとしたら次期当主であるレイティスしかいない。まだ十二歳の子供であっても、レイティスしか。誰もがそう思っていた。
しかし、ランティスは自らの力で堂々といい返していた。その姿は凛々しく聡明で、力強かった。夫人も怯んだ様子で後ずさり、そのまま逃げるように部屋を出て行った。
二人きりになった兄の部屋で、レイティスは、なにかいおうとした。弟としてふさわしい何かを。けれどできなかった。兄が眩しく輝けば輝くほど、自分が居場所をなくしていく気がした。
「母にいい返した後で、兄は手が震えていました。母に正面から抗うことは、兄にとっても苦しいことだったのです。それに気づいていながら私は、私に向かって微笑みかけてくれた兄に……、いいました」
───もう跡継ぎ気取りですか? 兄上が病弱じゃなかったら、こんなことにはならなかったのに。最初から兄上が丈夫だったら、母上だって安心できたのに! 私がどんな思いをしているか、兄上は知らないでしょう。全部兄上のせいなのに!
「兄が一番傷つくとわかっていて、その言葉を選んだのです。あぁ……、覚えています。兄上の表情が凍り付いていく……、それなのに私は眼をそらして……、そして、悲鳴が聞こえるんです」
奥様と叫ぶ声に、慌てて兄とともに部屋を飛び出した。けれどもうそのときには手遅れだった。怯えた顔で出て行った夫人は、階段で足をもつれさせて転がり、そのまま帰らぬ人となった。
ランティスが姿を消したのは、その数日後のことだった。
夫人の急な葬儀で辺境伯家内が慌ただしく、具合を悪くして寝込んでいる長子にまで手が回らないでいる間のことだった。
「兄は置手紙を残していました。そこにあったのは謝罪と、自分のことは死んだものとして扱ってほしいという短い文章でした。恨み言一つ書かれていなかった。兄は父に、母に、そして私に詫びていました。───何一つとして、兄のせいではなかったのに」
そこまで語り終えて、レイティスはうつむき、片手で顔を覆った。
そして深い深いため息を吐き出した。
やがて持ち上げたその面差しには、年月とともに積み重なった疲れが見えた。
「殿下。本心を偽りなく申し上げるなら……、私は今も母を嫌うことはできません。もしも第三者が母を非難したなら、それが正論であっても、私は母を庇うでしょう。母にもいいところがあった、優しいところがあった、愛情深いところがあったのだと必死にいうでしょう。ですが……、それは私の立場だからいえることです」
レイティスは視線を落として、悔いの滲む声でいった。
「母には辛い過去があり、父は仕事が忙しく、私は幼かった。そんなことが、兄に対して何の言い訳になるでしょうか? 我が家のかりそめの平和は、傷つく兄から目をそらすことで成り立っていた。兄が圧し潰されずにすんだのは、ひとえに兄自身の強さゆえです。しかしそれも、あの日に限界を迎えてしまった」
本当はずっと怖かったと、レイティスはぽつりと呟いた。
「あの行動の速い兄のことですから、自らの手で終わらせてしまっているのではないかと、だから捜索隊にも見つけられないのではないかと、そう恐れていました。……ですが、あれはそう、陛下が即位された頃のことです。西から来た商人の一行が、西の国境を守り抜いた英雄の話を盛んにしていました。月光のような銀の髪に、凍り付いた若葉色の瞳、恐ろしいほどに知恵が回り人心を掌握し、劣勢さえ逆手に取る若き英雄。……まさかと思いました。髪と瞳の色、それに歳の頃が同じ、たったそれだけのことでしたが、心臓が早鐘を打ったのを覚えています」
すぐにでも確認に赴きたかったが、その頃には父親はすでに亡く、新たな辺境伯として領地を離れるわけにはいかなかった。
レイティスはほのかに笑った。
「私が確信を得たのは、エバンズ卿の様子が変わったときでした。我が家の者ですら兄のことを諦めるようにいう中で、エバンズ卿だけは捜索を続けるといってくださっていた。その卿が、ある時を境に突然態度を変えて、私に諦めるようにいってきたのです。あれは、騎士団長として国内を巡回された後のことでした。それで私は確信したのです。エバンズ卿は西の砦で兄と再会したが、兄は家へ帰ることを拒んだのだろうと」
レイティスは、そこで言葉を切ると、長く息を吐き出した。
「私が知っていることは、これですべてです、殿下。……今はギルベルトと名乗っている人物が、真の名を捨てざるを得なかった事について、本人に非は一切ありません。ランティス・フォワードは、当主の座にふさわしい人物であり、殿下の伴侶としても何ら問題のない男性です」
わたしはあいまいな相槌を一つ打って、しばし沈黙した。
ぐらぐらと胸の奥で揺れるものがある。レイティスの話を聞きながらずっと引きずられそうになっていたものがある。自分を飲み込もうとする記憶の波がある。
わたしはそれを、強く強く奥底へ封じ込めた。
吸い込んだ息とともに喉の奥へ押し込める。いま必要なものは弱さではない。わたし自身の嘆きではない。そんなものは捨ててしまえ。ここにいるわたしは王家の姫。民を守り導き、この国の未来を背負う一族の一人。
細く、深く、息を吸い込んで吐き出す。
……なにをいおうか、なにをいうべきか。
真っ先に思い出したのは、あの仮面舞踏会の夜のことだ。
ギルベルトはいっていた。
───あの男は貴女のためといって貴女を縛ろうとする。貴女から自由を奪い、己の支配下に置こうとする。貴女から戦う意志すら取り上げようとするでしょう。あれはそういう人間です。
───手遅れになる前に。取り返しのつかないことが起こる前に、どうか。
───御前試合であの男が俺を殺したなら、貴女の婚約者としては不適格となるはずです。
ギルベルトの言葉、先代辺境伯夫人の言葉、そしてレイティスの言葉。
それらを考えると、おそらくこれは、わたしを守るためだけの策略ではないのだろう。弟を守るためでもあるのだろう。ギルベルトは最初から死ぬつもりでいる。バーナードに殺されたときこそ、彼の二つの目的は達せられるのだろう。
わたしはかすかに息を吐き出した。