30.フォワード家②
※今回の話(30話)から34話まで、親によるネグレクトと、親から子への言葉の暴力などの描写を含みます。
レイティスはひどく自虐的に「一時的な処置です」と繰り返した。
「兄が大人になっても病弱なら私を後継者に、兄が成長とともに頑丈になるようならば兄を後継者に。そのときには母も納得するだろうと父は考えていたそうです。まあ、問題を先送りにしただけですね。母のことは何も解決していません。……とはいえ、当時の父に、あの荒れる母を相手にする余裕がなかったのだろうことはわかりますが」
そしてレイティスは後継者として教育を受けたのだという。
一方でランティスは医師や使用人たちに世話を焼かれてはいたけれど、寝込むことが多かったこともあり教師はつかなかった。
「ですが───、兄は天才でした」
レイティスは噛みしめるようにいった。
「誰にも教えられなくとも、我が家の蔵書を片っ端から読みふけって、瞬く間に知識を吸収していきました。知識だけではありません。私は盤上の模擬戦で兄に勝てたことは一度もなかった。兄のあの機知、決断の速さ、劣勢に揺るぎもしない鋼の精神と強い意志。どれをとっても比類なきものでした。私は未だに、兄ほど才覚のある人物に出会ったことがありません。兄は素晴らしかった」
「……お兄様を尊敬されていたのですね」
レイティスは、大きく首を横に振った。
「いいえ、いいえ、殿下。これはそのような美談ではないのです。美しい思い出ではない。……病弱だった頃の兄は、将来は私の補佐をしたいと語ってくれました。自分が弱いばかりに私に苦労をかけて申し訳ないと恥じていました。私は……、その頃の私は、兄を励ましたものです。兄上は頼りになると、兄上の頭脳はこの家の宝だと、……いずれ母上もわかってくださるなどと、そんな愚かなことをいいました。母の愛情が私にしかないと薄々気がついていながら、そういったのです」
夫人のランティスに対するそれは、無関心と呼ぶのもまたちがったのだという。
夫人は病弱な長子のことを、ひどく恐れていた。まるでランティスがいるだけで世界が壊れてしまうかのように。
「これもあとになって聞いた話ですが……、母は実家では非常に厳しく育てられたそうです。完璧であることが当然であり、一つでも過ちを犯したものは無能な役立たずであると。父は母の実家のそういった態度を嫌い、政略結婚でありながら関わりを断ちました。父は武骨な武人でしたが、女性への態度は丁寧だった。母にとって父は……、自分を救ってくれた英雄のような存在だったのだと思います」
夫人は夫を愛し、懸命に尽くした。
辺境伯家当主の妻として、何もかもを完璧に行おうと必死で努力した。
けれど努力ではどうにもならないこともある。彼女にとってその最たるものが、我が子の体調だったのだろう。
おそらく夫人にとって、長子が病弱であり後継者にふさわしくないということは、自分自身に役立たずの烙印を押されるのと同じことだった。夫人は、ようやく得た居場所も、愛する夫も、何もかも失ってしまうかもしれないという恐怖に支配されていった。
そして、その過去の傷から来る歪みの発露は、先代辺境伯には理解できなかった。理解のための話し合いを重ねることもなく、そのための時間もまたなかった。問題は先送りにされた。
「それでも、ある程度の時期まで……、兄が本当に病弱だった頃までは、かりそめの平和がありました。母に認めて欲しいと、寂しそうに微笑む兄を犠牲にした平和でしたが」
母親に顧みられることはなかったけれど、使用人たちは病弱な若君を大事に育てた。元気な弟もまた、母親の言いつけを破って、こっそりと兄の部屋を訪れては二人で遊んでいた。
しかし、変化は徐々に訪れる。
ランティスは、歳を重ねるごとに熱を出すことが少なくなっていき、寝込むことも減っていった。
「今でもよく覚えています。あれは月の輝く夜でした。私と兄は、夜中に中庭で会う約束をしていました。兄は私に、見て欲しいものがあるといったのです。珍しい虫でも見つけたのだろうかと、私はそんな幼いことを考えていました。ですが、あの夜、私の前で披露されたのは、子供の眼にもわかるほど見事な兄の剣技でした」
月光の下で、ランティスの振るう剣は光の一閃のようだった。風を切り裂くように鋭く、鈴の音よりも軽やかで、どんな舞よりも優雅だった。
「誰も兄に教えていません。兄は教本で読んだとおりにやってみたのだといいました。そして私にアドバイスを求めたのです。上達するための指導を、この私に……!」
レイティスには幼い頃から教師がついていた。だから自分より達者で当たり前だとランティスは考えていた。弟が頑丈なだけが取り柄であることを、病弱だった兄はわかっていなかった。
レイティスはその晩、初めて、足元が崩れ去ってしまうような恐怖を覚えた。
兄が健康になったら、後継者は自分ではなくなるだろう。それはまだいい。兄が長子だ。本来なら兄が後継者のはずだった。
───でも、母上は……?
今度は自分がいらない子になるのか。
そう思ってしまった後は、もう駄目だった。兄への嫉妬と恐怖で胸の内は荒れ狂い、不安と焦りにとりつかれていった。
「ですが……、当時の私は母の性格をわかっていませんでした。今にして思えば、あの母が、変化を受け入れられるはずがなかったのです」
先代辺境伯が考えたように、丈夫になったなら後継者を変更したらいいとは思えなかった。なぜならそれは、ランティスを外したことが、夫人の過ちだと認めることだからだ。
実際のところ、過ちなどとは先代辺境伯も誰もいわなかった。願ったのが夫人でも、最終的な裁量は当主にあるのだ。責任を追及するならば辺境伯その人であるし、まだ息子二人とも子供だ。その必要があるほどの問題でもなかった。
しかし、夫人はそうは考えなかった。今さらランティスを後継者に戻すことは、辺境伯夫人としての能力に欠けると認めることだと恐れ、頑なにレイティスを支持した。
ランティスが熱を出さなくなっても、夫人は彼に教師をつけさせなかった。
周りが進言しても、後継者ではないのだから必要ないといって聞かなかった。
ランティスが一人でこっそりと剣の練習をしていたことを激しく咎めて、彼から剣を取り上げた。
「兄は勇猛な父に憧れていました。フォワード家の人間であることに誇りを持っていました。だから、せめて剣だけは許してほしいと、教師はいらないから剣だけはとそう懇願しました。ですが、母は許さなかった」
───お前は弟の地位を狙っているの!? この誇り高きフォワード家を壊すつもりなの!? ちがうというなら黙っていなさい! お前は剣など持たなくていい! 戦う術などお前にはなくていいのよ! お母様はお前のためにいっているの! お前が力をつけることなど誰も望まないわ! お前は無力なままでいなさい! 家族のためを思うなら、お前にできることはそれだけよ!
荒れ狂って叫ぶ母の声を今でも覚えている。そうレイティスは語った。
「それから……、兄は母の望むようにふるまいました。本を読むことすら母に禁止されたため、自室にこもりきりで、何をするわけでもなくぼんやりと窓の外を眺めていました。少なくとも、周りからはそう見えるようにふるまっていました」
わたしが思わず首を傾げると、レイティスは声を立てて笑った。
「あの兄がそう簡単に諦めるはずがなかったということです。兄は、いつの間にか、辺境伯家の城からこっそりと抜け出す通路と手段を見つけていました。使用人たちが兄を気の毒がっている頃、兄は城下を駆け回っていたというわけです」
「それは、また……、勇敢なことですね」
「ええ、信じられないほどの不屈の意志と度胸がありますよね。私もそう思います。兄には多くの才能が有りましたが、一番は凄まじいのはあの決断の速さではないかと」
確かに、一般的な人物であれば、王妹の婚約者が悪逆非道だと誤解したとしても、王都中に噂の火をつけようとは考えないし、実行に移しもしないだろう。わたしは苦く笑った。あなたは昔からそういう性格だったのですね、ギルベルト。