18.間章①~バーナードの話~
嘲笑のような形をした三日月が、夜道をおぼろに照らしている。
公務を終えた殿下を後宮まで送り届けたところで、サーシャを筆頭とする侍女たちに捕まって、先ほどまで仕立て屋や針子たちに囲まれていた。無論、殿下の私室とはちがう一室での作業だったが、後宮は原則として近衛隊が長く留まっていい場所ではない。チェスターは先に帰らせ、隊室に残っている連中にも帰るように言づけた。
三日後という無理のあるスケジュールに目を血走らせている針子たちから解放されたのは、夜も更けた頃合いだ。
近衛隊の隊舎への帰路は、すれ違う足音一つ響かない、静かなものだった。
俺は、冬の名残りを滲ませる冷えた空気を深く吸い込んだ。
───この冷たさが、俺の頭まで冷やしてくれたらいいんだが。
そう思ってから、自嘲混じりに笑う。
血がのぼっているのは頭なのか、それともこの狂った胸の内なのか、自分でもわからなかった。
俺の悪評などどうでもいい。殿下に伝えたその言葉に偽りはない。
俺は殿下の剣だ。殿下を守るために存在し、殿下の命令によって戦う。そこに私情は挟まない。かつて俺はそう決めたのだ。
まあ、殿下と出会う前のガキの頃の俺も、別に血を好む殺人鬼というわけではなかったし、戦い自体に興奮する戦闘狂でもなかった。
ただ、あの頃の俺に枷はなく、戒めるものもなく、繋ぎとめるものもなかった。
あれは自由だったというわけではないんだろう。何も無いことを自由とは呼ばない。それは空っぽというのだ。
とはいえ、剣を振るうかどうかは、俺の気分で決められていた。
今の俺はちがう。俺の剣は殿下の剣。
俺が剣を抜くか否かは、殿下が決めることだ。
殿下を侮辱した屑の首さえ飛ばせないとは不自由なものだとも思うが、それでも俺は、俺をつなぎとめるこの鎖が心地良い。この檻の中にいる限り、俺は殿下の傍にいられるのだと思う。
だからそう、私情は挟まない。私情で剣は抜かない。
そう決めているというのに───俺は頭の中で何度、あの男の首を落としたことか。
これがまだ、ギルベルトが殿下に対して無礼な態度を取ったというならわかるのだ。それなら俺は、自分のこの精神状態について理解できる。
殿下は、物理的な攻撃を仕掛けてこない相手に対しては剣を抜いてはいけないというので、俺は今まで数えきれないほど必死で我慢してきたが、それでもクソな台詞を吐いたクソどもの首は脳内で散々落としてきた。奴らの顔は今でも忘れていない。あいつらの首を落とせるチャンスがあるといいと俺は願っている。
だが、ギルベルトはちがう。
あの男に殿下への害意はない。侮りも蔑みもない。それは見ればわかる。
あの男が何を目的にしていて、何を企んでいるのだとしても、そこに殿下への悪意はない。殿下は怒っていたが、ギルベルトが敵視しているのが殿下以外ならば、俺にとっては“敵”ではない。
そう理性は判断する。けれど、胸の内で、蛇の舌のようにちろちろと炎が燃える。
清廉の騎士なら王妹殿下にふさわしい? へえ?
高潔な騎士と美しい姫君ならお似合いの二人? なるほど、なるほど?
───ああ、殿下はもう『俺の殿下』なのだと、世界中に示してやることができたら、どれほど気分が良いだろう?
……殿下は噂を消したいという。そのためにも俺の評判を正したいという。
だが、俺が思うに、ふざけたことを抜かすギルベルトや、好き勝手な噂で盛り上がる奴らを黙らせる方法は、もう一つある。
恐怖だ。
連中が滑らかに舌を動かせるのは、俺への恐怖が足りていないからだ。
発想が冷静に狂っているタイプの男