17.手加減
否定できない。チェスターもまた、沈痛な面持ちをしている。バーナードだけが、にやにやと得意げな顔をしていた。得意になる場面ではないでしょうといいたい。
わたしはため息を一つついて、ティーカップを手に取った。
紅茶を一口飲んで、ほうと息を吐き出す。
それから、少しばかり拗ねた口調でいった。
「では、二人とも、ほかになにか良い案がありますか? 悪い噂は瞬く間に広まりますが、それを覆すのは難しいのですよ?」
貴族の社交界ならともかく、庶民層での噂なら、影響力が大きいのは教会だ。実際、お兄様が王太子だった時代には、現長官の手を借りたこともある。だけど、あの執念深い男に借りを作ると高くつくし、何より今回は教会が絡んでいる疑いが捨てきれない。
「わたしとバーナードが仲睦まじくしている姿を見せることが最も効果的ではありませんか。それともバーナードは、わたしといちゃいちゃしたくないのですか? ……はっ、まさか、したくないのですか……!?」
「売り言葉を自分で買わないでくださいよ。したくないなんて一言もいってないでしょう?」
「では、どういうことがしたいのですか? あなたの望むいちゃいちゃな行いについて、具体的にいってください。あなただって、わたしとしたいことをいろいろと想像したことがあるはずです!」
なぜならわたしはバーナードとのデートをたくさん想像したことがありますからね! という気持ちで尋ねると、なぜか最強の婚約者は無言で顔を覆った。
チェスターが珍しく、憐れむような顔でバーナードを見ている。
「姫様あんた何を聞いてるのかわかってるのか」
「もちろんです!」
「わかった。何もわかっていないことがわかった」
バーナードは顔から手を外すと、ぎろりとわたしを見た。
「申し訳ありませんが、殿下のご要望にはお応えできません」
剣呑な眼つきでこちらを見る。
そうかと思えば、一転して彼の眼差しが和らいだ。
夕闇とランプの灯が混ざり合う室内で、こげ茶色の瞳は、夜に近い色合いを見せていた。甘やかで、それでいて獰猛な夜のようだ。わたしを見つめるその瞳に、ひどく落ち着かない気分になってしまう。思わずうつむくと、バーナードはそれを見越していたかのように小さく笑う。
むっとして顔を上げたところで、これが罠だったことを悟る。
彼は、まるで狩りをする鷹のようにすうと眼を細めて、わたしを見つめていた。
身じろぎもできずにいると、低く甘い声が囁いた。
「俺の望みはね、姫様。人気のない場所で、誰の目からも隠れてしたいことばかりですよ。あなたと二人きりになりたい。そしてじっくりと……ね。誰にも見せるつもりはありません。詳細については、この場で口にすることもはばかられます。まあ、殿下がどうしてもとおっしゃるなら、考えますが……?」
「───そういうことなら仕方がありませんね! 無理を強いるのはよくありませんからね! 仕方がありません!」
「おや、それは残念です。いろいろとお教えしたかったのに」
バーナードが余裕の顔で笑う。くう、くやしい。
でもきっと、わたしの顔は今真っ赤になってしまっていることだろう。鏡を見なくてもわかるくらいに頬が熱い。
「隊長、俺の存在を忘れないでくださいよ」
「俺はいま手加減した。手加減したんだ」
「それはわかりますけど……」
バーナードと意味の分からない会話をしてから、チェスターがいった。
「殿下、悪評を制するために仲睦まじさを示すという案自体は有効だと思います。ですが、隊長のいう通り、殿下の安全の確保は必要です。そこで、俺からの提案なのですが、仮面舞踏会への参加はいかがでしょうか?」
「それは安全が確保できるのか?」
疑わしそうな顔で、真っ先にいったのはバーナードだった。
「バカどもがバカ騒ぎをしている場にも、広間中に煙草だか薬だかわからない煙が蔓延している屋敷にも、殿下をお連れする気はないぞ」
仮面舞踏会とは、仮面によって顔を隠し、素性を隠すことが許されている夜会だ。
高位貴族から下級貴族まで、国が定める要件を満たすなら主催することができる。名を隠すことで身分にかかわらず会話を楽しみ、好きに酒を飲み、誰とでも踊ることができる場だ。
息抜きの場だともいえるし、羽目を外しやすい場だともいえる。恋愛絡みの密会程度なら可愛いものだけれど、問題視されるのは、禁じられている薬の売買や大量の武器の取引など、いわゆる地下社会の者たちの隠れ蓑になってしまう場合もあるからだ。
危険性は高いけれど、娯楽性も高く人気がある。王家としても、どこまで制限をかけるか頭を悩ませている類の夜会だ。
「心配ありませんよ。主催はバカ騒ぎを好む人物ではありませんから。ただ少し……、テーマへのこだわりが強いんです。ルーゼンの分家筋のリットン卿なんですが、噂を聞いたことはありますか?」
「ええ、風変わりな経歴を持つ人物ですよね。確か、一時は舞台役者をしていたとか?」
「ええ、リットン家の三男に生まれて、騎士を目指して騎士団入りしたものの、興行に来た旅芸人の一座に惚れこんで後を追いかけ下働きになった人物です。その後、一座は解散してしまいましたが、知り合いの舞台でこれもまた下働きとして働いていたところで、たまたま親戚に見つかって、長男次男が亡くなっていたため実家を継ぐことになったんですよ」
「下働き? 舞台役者ではなかったのですか?」
「舞台役者志望ではあったらしいのですが、才能に恵まれなかったそうで……。特に歌が絶望的に下手だったとか」
「まあ……」
わたしはつい深い同情と共感を寄せてしまった。わたしも歌うことは好きだ。ただし好きであることと上手であることは必ずしも一致しない。
「幸い、領地経営の才能はあったようで、当主としては上手くやっています。ただ、今でも舞台に未練があるらしく、年に数回、仮面舞踏会を主催しているんですよ。王都の別宅を舞台に見立て、テーマを決めて、架空の人物になり切るという遊びらしいです。今回は祝祭の時期ですから、古神話がテーマでしょうね」
「それならあえて開催要件の厳しい仮面舞踏会にしなくてもいい気がしますが……、ああ、リットン卿としては身分にかかわらず招待状を送りたいのですね?」
「ええ、このなり切るという遊びへの情熱が強い者ほど、リットン卿の中では評価が高いので、身分の壁を取り払うためにも仮面は必須らしいです。貴族だけでなく、趣味を同じくする中小の商家や騎士、本物の舞台役者に、聖教会の聖職者まで戒律に反してお忍びで参加するらしいので、殿下のご希望に添えることができるのではないかと」
そこまでいって、チェスターはちらと隣の上司を見た。
わたしも期待を込めて、護衛隊長を見た。
四つの眼が集中して、バーナードはため息とともに一度目を閉じた。それからいった。
「いいでしょう。ただし、チェスター。当日の屋敷の警備体制に関しては口出しさせてもらうぞ」
「そこは問題ありません。うちの分家筋ですから、協力してくれますよ。ただ、一つだけ……」
チェスターはそこで気まずそうに言葉を切って、申し訳なさそうにいった。
「仮面舞踏会が開かれるのが三日後なんです。リットン卿はこだわりが強いので、テーマに沿った衣装を、お二人には急遽仕立ててもらう必要があるんですが……」
いつも読んでくださってありがとうございます。
次話からは別キャラ視点の間章が二話続いて、その後またアメリア視点に戻ります。