6.書庫会議(前)
それが、二年前の話だ。
流血夜会事件として、恐怖とともに語られるようになったこの一件は、ただでさえ少なかったわたしの縁談話を、ゼロにまで減らした。
各国の要人が、あの事件を目撃していたし、その後も、暗殺者集団を壊滅させたことや、お兄様が王位につくまでに、いかにバーナードが敵を殲滅してきたかということが、おひれはひれもついて広まったのだ。
今では、諸外国では、バーナード一人が、一万の軍にも匹敵すると囁かれているらしい。わたしを妻に迎えることで、バーナードも一緒についてきたら、それは無傷の大軍に侵入を許すも同然である……と考えられているそうで、あの一件以来、夜会に出席しても、誰にもダンスに誘われなくなった。
まあ、それは構わないのだけど、わたしが結婚しないと、お兄様が結婚できない。そちらは困る。
─── だけど、だからといって、バーナードと結婚なんて、無茶です、お兄様……!
わたしは何度もそう訴えたけれど、お兄様は、これは王命だと譲らなかった。
しまいには、「どうしても受け入れられないというならば、アメリア! この首を刎ねて、王位につくがいい! 私とて、非道な命令をしているとわかっている。お前が玉座を奪うならば、私はそれを受け入れよう!」とまでいわれてしまった。お兄様はときどき、変な方向に大袈裟すぎる。
わたしだって、王族だ。王の子として生まれたのだ。政治のために結婚することは、覚悟してきた。
だけど、バーナードはちがう。彼は、国のためになんて割り切れはしないだろう。今でこそ爵位を持っているけれど、彼は貴族に生まれたわけじゃない。わたしたちが出会ったとき、彼は騎士ではなく、旅人だったのだ。
彼は、騎士になることを望んだわけでもないのに、わたしの身を守るために、騎士の位を受けてくれた。その後も、爵位も隊長職も、受け入れてくれた。彼には何の義務もないことだというのに、その心ひとつで、わたしに付き従ってくれたのだ。
お兄様は「騎士バーナードといえば、昔は、おとぎ話に出てくる、勇敢で心優しい騎士を思い出したものだ……。今では恐怖の象徴だがな、ハハッ」なんていうけれど、わたしはそうは思わない。バーナードは立派な騎士だ。
※
わたしは、自分の執務室に戻ると、書類仕事を再開しようとしたけれど、書かれている内容が、まるで頭に入ってこなかった。
バーナードのことばかり考えてしまう。書類に目を通しているふりをして、扉の前に立っている彼を、ちらりと覗き見る。
わたしの護衛騎士は、とても格好良い。
わたしがつい、見惚れてしまっても、仕方のないことだと思う。
バーナードを好きにならずにいることは、わたしにはとても難しいことだった。
過去形だ。だって、もう、ずいぶん前に、自分の心に抗うことをやめてしまったから。
今では、わたしが胸の内でこっそりと彼を好きでいることくらい、問題にはならないはずだと開き直っている。
口に出すわけじゃない。気持ちを伝えるつもりもない。
子供の頃から培ってきた自制心は、恋心相手でも、十分に機能している。
わたしにとってバーナードは『信頼できる騎士』だ。それ以上でもそれ以下でもない……と、そう振舞う演技だけは、自分でもなかなかのものだと思う。
一方、心の中では『今日も格好良いわ……』と感嘆のため息を零してみたりしている。
『これほど格好良い人が傍にいて、好きにならない人間が存在すると思う? しないわ。100人中100人が好きになるわ』と一人問答をしてみたりもしている。この気持ちを分かち合える同志がいないことだけが残念だ。
政務が忙しくても、バーナードの顔を見ると心が安らぐ。表情には出せない片想いも、慣れてしまえば楽しいものだった。
バーナードは背が高く、身体も鍛え上げられている。こげ茶色の瞳は茶目っ気があって、わたしを見ると、だいたい優しい色になる。たまに、意地の悪い冗談をいわれるときもある。そんなときの彼は、とても楽しげだ。悔しいけど、笑っている顔が、ちょっと可愛いとさえ思ってしまう。
バーナードは、誰よりも強いのに、その強さを、これといって誇示することもない。彼は、戦いになれば容赦がないけれど、その力を誇示して、弱い立場の者を虐げるような真似はしない。
それにバーナードは、容姿からして、ものすごくハンサムだ。目の保養というのは、彼のような人のことをいうのだと思う。わたしは、彼以上に格好良い男性を見たことがない。多分、百年に一度の美形だとか、そういう人なのではないだろうか?
前に、わたしの長年の侍女に、それとなく『バーナードはとても美形だと思わない?』という話を振ったら、怪訝な顔で「あの狂犬の容姿ですか……? 気にしたこともなかったといいますか、気にする余裕を持てたことがありませんでしたね。あの狂犬が、いつまた姫様の足を引っ張るような真似をするかと、気が気でなくて」といわれてしまったけれど。
でも、これはわたしが、恋で盲目になっているわけじゃない。
実際に、バーナードがとても格好良いと、女性たちが話をしているのを、うっかり立ち聞きしてしまったこともあるのだ。
※
あれは数ヶ月前の話だ。
その日、バーナードは、非番だった。
彼は、放っておくと、一日も休まずに護衛につこうとするので、毎回、わたしが強引に休みを取らせている。
バーナードは「俺がいなかったら誰が殿下をお守りするんです」「休みなんかいりませんよ。やることもないし、暇なだけです」「俺に一日中ボーっとして過ごせというんですか? 休日なんて虚無ですよ、虚無」と悪あがきのようにいい募るけれど、わたしはそれらをすべて却下している。
─── 内乱が続いていた頃ならともかく、今は危険な状況ではありません。あなた以外にも、近衛隊の護衛騎士はいます。彼らが守ってくれます。心配ありません。それよりも、あなたの超過勤務が問題です。……と、そう押し切っている。
その日の護衛騎士は、副隊長のチェスターと、最年少のコリンだった。
わたしは、二人とともに、王宮のはずれにある、古めかしい書庫を訪れていた。
確認したい書物があったのと、朝から書類仕事に追われていたので、軽く身体を動かしたい気持ちがあったのだ。わたしの補佐官にいえば、誰かが取りに行ってくれただろうけれど、わたしは、気分転換も兼ねて、書庫へやってきていた。
古く、がらんとして、人影もない。ただし、広さだけはある書庫だ。
わたしは奥へ奥へと歩いていき、棚をざっと見ながら、背表紙を確認して、一冊の古い文献を抜き出した。そのときだった。
誰かが、書庫の錆びついた扉を開ける音がした。
チェスターとコリンは、即座に警戒態勢を取ったけれど、響いてきたのは、賑やかなお喋りの声だった。
「アメリア殿下の近衛隊の中で? あの中で選ぶなら、あたしは断然、隊長がいいわ。ああいうワイルド系のハンサム、すっごい好みなんだよね」
「たしかに顔はいいわね。顔と身体はいい。付き合いたいとは思わないけど、まあ、酒場で声をかけられたら、まず断らないかな。一回くらい相手してほしいって思っちゃうわ」
「二人とも、嘘でしょ? あの隊長、すごく危ない人だって評判じゃない。夜会で人を切り殺したって噂よ? 狂犬なんて呼ばれてるし、わたしは絶対いや。……わたしだったら、副隊長が一番格好良いと思うな。優しそうだし、紳士的だし、立ち振る舞いも格好良くて……、本物の王子様って、ああいう人のことをいうと思わない?」
「いや、本物の王子様は、即位前の陛下だけでしょ」
「副隊長は、ルーゼン公爵家の三男だっけ? まあ、王子様に近くはあるわね」
「でしょ!? お名前はチェスター様っていうの。チェスター・ルーゼン様!」
わたしの眼の前で、チェスターが、頭を抱えた。
わたしは、ぽんぽんと彼の肩を叩いた。
こうなってしまっては、今さら出て行くのも気まずい。おそらく、書物を取りに来た下級官吏辺りだろうから、彼女たちが出て行くのを待とう。わたしはそう、チェスターとコリンの二人に目配せした。
チェスターは、よろめきながらも頷き、コリンは、ワクワクした顔で、コクコクと首を振った。