12.騎士の欠落と姫の愛の力
「違いますよ、バーナード。これはあなたの健気さの表れなのです。あなたは身を引く決意を固めながらも、せめて最後に一度だけ、わたしと夜を過ごしたいと願ったのですよ」
わたしは自分の胸をそっと押さえて、涙なしには読めない二人の別れの場面を思い出しながら語った。
しかしバーナードは、せせら笑いながら返してきた。
「殿下、結婚の約束までしておきながら失踪する男も、その前日に思い出作りなどと抜かして手を出す男も、ただの屑ですからね。変な男に騙されないでくださいね」
「それは……、そういわれると……、おかしいですね? ここはやはり、わたしが失踪するべきでしょうか。ですが、わたしが黙って一人で王宮から姿を消すと、大騒ぎになってしまうので」
「そうですね絶対やらないでください許しませんからねいくら殿下でもそれだけは怒りますよ俺は」
バーナードがひと息にいった。こげ茶色の瞳は瞳孔が開いて爛々と輝いている。怖い。まだ失踪していないのに、すでに怒られた気分だ。
わたしがときめきとは別種の動悸を抱いていると、バーナードはため息を一つついていった。
「俺の悪評などはどうでもいいですがね。……それは、まあ、あなたとギルベルトがどうこうなどという噂に、何も感じないとはいいません。ですが、俺が健気にも身を引くなんてことはあり得ませんよ、殿下」
バーナードが、じっとわたしを見下ろす。
護衛とは呼べない距離で、こげ茶色の瞳もまた、護衛騎士のそれとはいいがたい奇妙な色合いを見せていた。
「俺はこの場所を誰にも譲りません。あなたの婚約者という椅子に座るのは俺だけだ」
それは燃え盛る地獄の炎を映し出したかのような瞳だった。
バーナードは、わたしの知らない顔をしていった。
「奪いに来る者はいるでしょう。当然です。あなたはこの国の王妹殿下、あなたの微笑みは一国を照らす蒼天の輝き、その高貴な光に引き寄せられて虫どもが集まるのは道理です。───ならば俺は、その虫けらどもを全員踏み潰して、この椅子に座り続けるのみだ。誰にも譲らない。誰にも渡さない。辺り一帯を血の海に変えてでも、あなたに触れる権利は俺だけのものだ」
ぞくりと震えてしまうような声だった。
死の気配を漂わせるような眼差しだった。
わたしは息を呑み、彼を見上げた。
バーナードは、そこでふと表情を和らげて、困ったような顔でいった。
「殿下、あなたが真に懸念するべきなのは、俺が噂を気に病むなんてことではなく、俺がこういう、何かが欠けている男だってことですよ。俺は俺の欠落を気にしませんが、殿下はたぶん……、怯えるべきです」
俺を警戒するべきなんですよ、と、バーナードは穏やかに続けた。
わたしはじっと彼を見つめた。
こげ茶色の瞳がはらむその恐ろしさと愛情深さを考えて、それからいった。
「あなたの言葉を纏めると、つまり、わたしのことが大好きであるという意味ですね?」
バーナードは、なぜか、自分の耳を疑うような顔をした。
「なにをどう要約したらそんな意味になるんです?」
「そうとしか聞こえませんでした。わたしのことを愛しているから、誰にも渡さないと」
わたしは胸を張ってそう告げた。とはいえ、その内容に、少しばかり頬が熱くなってしまう。
「もう、バーナードったら。どうしてそれをギルベルトにビシッといってくれなかったのですか? あぁいえ、わかっています。あなたは照れ屋なところがありますからね。公衆の面前で口にするのは恥ずかしかったのでしょう? ふふ、わかります。わたしも今すこしだけ恥ずかしい気持ちです」
「いや俺がいっているのは俺に用心しろって話で……、あぁもう信じられねえな、姫様はどうしてそう解釈が前向きなんですか……」
「ふふっ、これぞ愛の力ですね」
「本当は血の匂いも人死にも怖いくせによくいう。あなたはいつも、その意志一つで前を向いているだけでしょうが。───……ああくそ、そうだよ姫様。降参だ。俺はあなたを愛してるんだ。あなたが好きでたまらない」
「……っ! そっ、そうですか……、そうだと思いました!」
「姫様、耳まで赤くなってる」
「なっ、なっていません!」
「なってるよ。今さら隠しても無駄だって。クソ可愛いな。姫様は全部可愛い。なんでそんなに頭からつま先までぜーんぶ可愛いんだ? 俺の姫様はいつも信じられないくらい可愛い───ってちがう! いやちがいませんがちがいます! 駄目です殿下、じっとこっちを見ないで、俺に近づかない! 朝から俺の理性を燃やしに来ないでください!」
「なっ……、濡れ衣です! 朝からドキドキさせるようなことをいっているのはあなたのほうではありませんか……!」
バーナードは勢いよく後ずさり、わたしから距離をとった。ひどい。わたしだって頬が赤いままでは、公務に出られないというのに。
熱を冷ますように、両手で頬をぺちぺちと叩いていると、その点についてだけは即座にやめるようにバーナードから注意が飛んできた。
ふん、聞いてあげません。わたしの頬を叩くのはわたしの自由です。
わたしは高速で頬をぺちぺちぺちぺちっとした。
ついにはバーナードが一瞬だけ近づいてきて、わたしの両手を下へ降ろさせて、そしてまた即座に離れた。人間離れした速さを、こういうところで発揮しなくてもいいと思う。
わたしは胸の前で両腕を組むと、つんと傲慢に顔をそらした。
「いいでしょう。あなたが噂を気にしていないということは理解しました」
「何よりです、殿下。付け加えますと、俺は照れ屋ではありませんし、ギルベルトにビシッといったつもりです」
「わたしの予想したビシッとは『アメリアは俺のものだ、お前には渡さない!』という類の返答だったのですが」
「俺は殿下の御心を尊重しない奴は死ねばいいと思っています」
「なんという過激発言」
「あの男が『殿下にお近づきになりたいが、貴様が邪魔なので殺す』といってきたなら理解を示しましたよ、俺は」
「理解を示せる余地がどこにあるのですか?」
「筋が通っているじゃないですか。俺がいたら殿下に近づけない。近づけないままでは殿下の御心を得ることも不可能。だからまず俺を殺す。わかります。ですが───、たかが決闘ごときに殿下の婚約を賭ける? 殿下の御心を無視して、二人の男が勝手に戦ったところで何だというんです」
「まあ……、決闘されても困りますけども」
「そうでしょう? 殿下の婚約は殿下の御心次第です。決闘ごときでどうにかなると思っているなら戦って二人とも死ね! と思いますよね」
「それは思いませんね」
わたしはきっぱりと否定してから、公務へ向かうべく歩き出した。
私室の扉の前まで来ると、扉を開けようと前方に立ったバーナードは、すっとわたしへ視線を向けて微笑んだ。
「俺を婚約者から外すことができるのは、殿下だけです。殿下の愛が俺にある限り、俺は誰にもこの場所を譲りません。───愛しています、美しい俺の殿下」
わたしの頬が、再び真っ赤に染まってしまったのは、いうまでもない。