7.二人きりの乾杯(下)
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わたしは、意気揚々と続けた。
「残念ながら、あなたの肉親の方については、あなた自身も知る術がないとのことでしたから、除外しました。ですが、身内というのは、血縁者だけではありませんからね。あなたが日々親しくしていて、信頼関係を築いている人々 ─── そう、つまり、近衛隊です!」
バーナードがとても渋い顔で「それで、この飲み会に突然やって来たと?」と聞いてくるのに、深く頷く。
わたしの世界一格好良い婚約者は、苦さと渋さと諦めが絶妙にブレンドされたような表情を浮かべた。
「殿下のお気持ちはわかりました。わかりましたが ─── 、それはそれとして、俺が護衛についていないときに王宮を抜け出さないでください」
「そこに戻るのですか?」
「あいにくですが戻ります。殿下も重々ご承知でしょうが、王宮から一歩でも外へ出るなら相応の警備体制が必要です。普段、護衛騎士が二人ですんでいるのは、王宮内 ─── 特に殿下が足を運ばれる場所に対しては、厳重な警備体制が敷かれているからです。王宮全体への警備があってこその少人数体制なんですよ」
「わかっていますけれど、少人数で来たわけではありませんし、チェスターもいましたし……」
「チェスターの腕はそれなりですが、あいつは数で力押しされたら負けます」
それは皆そうでしょうねと、胸の内だけで頷いた。
どれほど名高い英雄であっても、数で圧倒されたなら限界がくる。例外なのは、わたしの近衛隊隊長くらいだろう。
次からは気を付けるといったところで、二皿に分けられたタルトが運ばれてきた。
たちまち、わたしたちのテーブルには、甘く香ばしい匂いが満ちる。
わたしがパッと目を輝かせると、バーナードは忍び笑いを零した。
彼の長い指先が、彼の側に置かれたタルトの皿を、こちら側へと押しやってくる。
「どうぞ、殿下。食べられるようでしたら、こちらも召し上がってください」
「それはあなたの分でしょう。他人様のものを狙うほど、わたしは食い意地が張っていないつもりですよ」
「そうおっしゃらずに、ぜひ。俺は殿下ほど甘いものに執着がありませんので」
バーナードが笑いをこらえた声でいう。
わたしは、ムッとしつつも、自分の分にフォークをさっくりと入れて、口へ運んだ。
美味しい。甘くひんやりとした舌触りが、ほろほろと口の中で溶けていくようだ。
わたしは上機嫌でフォークを動かした。二口、三口と食べながらも、その一方で、麦酒を片手にこちらを眺めているバーナードの表情を崩す方法について考える。
彼は笑いを我慢しているつもりだろうけれど、どう見ても口角が上がっていた。楽しそうに緩んだ口元に、ランプの小さな灯の下でも鉱石のように輝く瞳。……そんな風に、幸せそうにこちらを見るのはどうかと思う。変に気恥ずかしくなってしまって、食べづらいといったらないわ。
わたしは、自分の分を食べ終える頃には、反撃方法を思いついていた。
バーナードの分のタルトの皿を引き寄せて、その上に乗せられていたフォークを手に取り、何気ない口調で罠を仕掛ける。
「そういえば、バーナード。今夜のわたしは、従者のアルベルトなのですよ」
「近衛隊にそんな制度はありませんね。騎士団じゃあるまいし」
「新設されたのです」
「しれっと嘘を吐くのはやめてください」
「まだ試用段階ですので、従者のアルベルトは、王妹殿下の近衛隊隊長付きとなりました」
「試用段階なら俺につけるわけがないでしょうが。どんな従者も泣いて嫌がりますよ」
「わたしはまったく嫌ではありませんし、喜んであなたのお世話をさせていただきたいと思います」
そこでわたしは、言葉とともにタルトを切って、フォークに乗せた。
設置の完了した罠へと獲物を手招きするように、にっこりと微笑む。
そして、従者のアルベルトがお仕えする近衛隊隊長のもとへ、フォークを差し出した。
「はい、どうぞ、ご主人さま。あーんしてくださいませ」
バーナードが、麦酒を呷った姿勢のまま、石像のように固まった。
瞬きすら忘れたように微動だにしない。こげ茶色の瞳は唖然としたようにこちらを見つめ続けている。
わたしは内心であくどく笑った。「ご主人さま」という普段とはちがう呼び方は、狙い通り、彼の意表を突くことに成功したようだ。それに加えて、いつもとは立場が逆転しているといってもいい、このバーナードの世話を焼こうとする姿勢だ。いかに豪胆な彼といえども、虚を突かれた気分になるだろう。バーナードをびっくりさせるには十分だったに違いない。
わたしは内心で勝利を確信しつつ、表面上は微笑んだままフォークを差し出し続けた。
不意にバーナードが、麦酒のグラスを叩きつける勢いでテーブルへ置く。
そして、片手で口を覆い ─── 、盛大にむせ込んだ。
「ゴホッ、ぐっ、げほっ、はっ、かはっ」
「バーナード!?」
わたしは飛び上がった。
彼が麦酒でむせるところなんて、初めて見た。この店の麦酒はそれほど辛口だったのだろうか。わたしはフォークを手放し、慌てて飛び出した。店員の男性を探して、バーナードの横を通りすぎようとする。
「待っていてください、すぐに水をもらってきますから!」
「いいっ、いいから、行くな、あなた、フードを、げほっ」
ハッとしてフードを被ろうとすると、その隙にバーナードに柔らかく手首を掴まれた。
抵抗する間もなく、彼の腕の中へと引き寄せられる。
気がつけば、わたしは長椅子に膝をついた姿勢で、横向きに座ったバーナードに抱きしめられていた。
彼の大きな手が、わたしの手首を優しくつかみ、もう片方の手がわたしの背中に回っている。
彼の服越しに、その鍛え上げられた身体のたくましさと、温もりが伝わってくる。
わたしは、一瞬で、自分の全身の熱がぶわりと上がるのがわかった。
抵抗がないことを察したのか、バーナードはわたしの手首を離すと、空いた手もまたわたしの背中へ回した。しっかりと抱きこまれる。あぁ、前言撤回だ。これはわたしの抵抗を予想しての捕獲態勢なのかもしれない。そうでも思わないと、この頬の熱さをやり過ごせない。わたしはきっと、耳まで赤くなっている。
バーナードは、コホッと小さく咳き込んでから、ため息混じりにいった。
「ここにいてください、殿下」
「でも、水を……」
バーナードは、わたしの耳元へ唇を寄せて、囁くようにいった。
「あなたは今、俺の従者なんだろう? なら、俺の命令に従うべきだと思わないか?」
「そっ、それは、そう、ですけど……っ」
「命令だ。 ─── ここにいろ、姫様。俺の腕の中にいてくれ」
「……っ」
「なぁ、いうことを聞いてくれよ、姫様」
そう、かすれた声で囁かれる。
わたしは、ぎゅっとバーナードにしがみついた。
昔も今も、ここは世界で一番安全な場所だった。
そのくせ、今となっては、世界で一番落ち着かなくて、心臓が馬鹿みたいに大きな音を立ててしまう場所だった。世界中から集めた愛しさが、ここに詰まっている気がした。
バーナードの温もりを感じるだけで、わたしの熱が上がっていく。くらくらと眩暈がするような幸福感がわたしを満たしていく。
そして、わたしは、おずおずと顔を上げた。
バーナードもまた、まるで夜の灯りに導かれたかのように、そこにいて、わたしを見ていた。
わたしたちは見つめ合い、そして……。わたしはそっと瞼を下ろして、それから。
残り2話で完結予定です。