5.二人きりの乾杯(前)
知ってはいたけれど、わたしの近衛隊隊長は怒るととても怖い。
わたしを見下ろす瞳は、射殺すという言葉の意味をありありと体感させてくれる。怒りで膨れ上がった気配は、まるで森の中で大型の獣に遭遇してしまったかのような錯覚を覚える。生命の危機を感じさせる恐ろしさがある。
第三者から見ると、わたしは怒られても気にしていないように見えるのだろうけれど、それは誤解だ。わたしだって、怒っているバーナードは普通に怖い。
ただ、彼がわたしを傷つけることは決してないと知っているのと、今までに両手の指では足りないくらい怒らせてきたので、少々慣れがあるだけだ。
「俺が護衛についていないときに王宮を抜け出すのはやめてくださいと、何度もお願いしているでしょう」
「チェスターたちがいましたから、何も危険はありませんでしたよ。それに、目的地にはあなたがいるとわかっていましたからね」
「そんなものは結果論です。殿下が危険に晒されていた可能性は十分にある。その可能性から潰していくのが俺の役目なんですよ」
だいたい、と、忌々しそうにバーナードは続けた。
「飲み会に来たかったなら、最初からそういってくれたらよかったでしょう。俺が今日の護衛につきましたよ」
「計画していたわけではないのですよ。公務がありましたから、今夜は来られないだろうと思っていたのです」
そこでバーナードは、わたしが本来会食の予定だったことを思い出したらしい。
怪訝な顔で口を開きかけて、結局は閉じる。
わたしを見下ろすと、眉間の皺を深めながらもいった。
「立ち話も何ですから……、どこかに席を用意させましょう」
渋々といった口調だったけれど、この場に残る許可を得たも同然だ。
わたしはいそいそと丸テーブルに近づこうとした。総隊長と、なぜか騎士団長も同席していたのだから、バーナードがいたのもあのテーブルだろうと思ったのだ。
けれど、すぐに制止される。
「酔った男どもと、あなたを同席させられると思いますか。全員の首を落としてからでなければ、許可できませんよ」
「バーナード、首なし死体と同席させられるほうが恐怖ですよ」
「殿下はどこか、隔離した席に……」
バーナードが、店内をぐるりと見回していったときだ。
店員らしき男性と話していた総隊長が、こちらへ戻ってきていった。
「奥に半個室のテーブル席があるそうですよ。目立ちたくない客人の要望に応えて用意したそうで、中を確認しましたが問題はなさそうです。殿下……の遣いの方は、そちらをご利用になってはいかがですかな。ああ、お一人でなどとは申しません。腕利きの護衛をお付けしましょう。近衛隊の中でも最強の男ですよ」
※
バーナードが皆と楽しく飲んでいるのを邪魔するわけにはいかないから、わたしも丸テーブルに同席させてほしいといったのだけど、皆に揃って首を横に振られてしまった。
バーナードいわく「あれ以上説教が続いたら俺は寝ていましたよ」とのことだったし、総隊長は「やれやれ、酒癖の悪い男は最悪ですな」といって騎士団長に胸倉を掴まれていた。オーガス副隊長とチェスターは、火花が散りそうな空気を漂わせながらも、表情だけは取り繕って奥の席を勧めてきた。
わたしは、わたしがいない場に二人の副隊長を残して大丈夫だろうかと ─── 二人とも名門貴族の子息だ。王妹であるわたしがいるなら抑えが効く ─── 少しばかり心配になったけれど、バーナードは意に介さず奥の席へ進んだ。
「あの二人が戦ったらチェスターが勝つから大丈夫ですよ」とのことだったけれど、わたしとしてはまず戦わないでほしいところである。
ルーゼン家もオーガス家も、この国を支える大事な柱だ。競争心は有用だけれども、いがみ合ってほしくはない。
まあ、二人の場合は個人的な遺恨があるから、難しいだろうこともわかっているのだけど。
あの二人は根本的な価値観がちがうのだ。
あれはまだお兄様の即位前のことだ。チェスターの愛情深さと騎士精神は、手酷い裏切りを受けてもなお、元婚約者への侮辱を許さなかったけれど、強さと名誉を重んじるオーガス副隊長は、自分にとって好敵手であるはずの人間が、彼いわく「役立たずの豚ごとき」に打ちのめされているのが忌々しかったらしい。
わたしはその場に居合わせていたから知っているけれど、当時はまだ副隊長ではなかったオーガス家の次男は、悪意というものを感じさせない、いっそ親切心すら滲んでいる顔でその失言をしていた。彼はおそらく未だに、何がチェスターの逆鱗に触れたのか理解していない。
※
店員の男性に案内された席は、総隊長のいう通り、壁で区切られた半個室のような空間だった。
バーナードが仕切りの壁側に、わたしはテーブルを挟んで向かい合った奥側に座る。目深く被っていたフードも外して、ほっと息を吐いた。
バーナードはちらりとわたしを見ると、席を立って、店員の男性から小さな毛布を借りてきた。
「膝掛けにしてください。足元は冷えるでしょう」
わたしは礼をいって受け取った。
毛布を膝にかけると、じんわりと温かく、それはまるでバーナードの真心のようだった。
わたしは自然と顔をほころばせて、彼を見つめて ─── 、それからそっと目をそらした。
こげ茶色の瞳は、未だに厳しかった。
王宮を抜け出したことは、そろそろ水に流してくれる頃合いだと思っていたけれど、そうでもなかったらしい。
不意にわたしの脳裏に、以前、恋愛小説を愛読する侍女が「わたしが怒っているときでも『怒った顔も可愛いね、子猫ちゃん』と褒めてくれる人こそが素敵な恋人というものです!」と力強く主張していた姿が浮かんだ。
わたしは胸の内で一つ頷いて、バーナードに「怒った顔も格好良いですね、子猫……いえ、大型犬ちゃん……?」と囁こうか、真剣に悩んだ。けれど、バーナードが余計に怒る未来しか浮かばなかったので断念した。
気まずい思いをしていると、店員の男性がグラスを二つ運んできてくれる。
まだ何も注文していなかったけれど、皆が飲んでいたのと同じ麦酒だろう。
わたしは笑顔で受け取ろうとして、バーナードに遮られた。
「この方には酒以外を持ってきてくれ。俺はこれでいい」
そういいながら、バーナードがグラスを二つとも受け取ってしまう。
店員の男性はすぐにメニューを持ってきてくれて、果実水や花蜜水はこちらですとわざわざ開いていってくれたけれど、わたしは憤然としてバーナードを見つめた。
「わたしも皆と同じように麦酒が飲みたいのです」
「殿下は酒に弱いんだから駄目です」
「公の場ではないのですから、いいではありませんか。馬車で来たのですよ。酔って落馬する危険もありません」
「殿下。ここが近衛隊の男しかいない飲み会だとわかっていますか?」
「あなたがいるのだから問題はないでしょう?」
わたしだってさすがに、バーナードがいないなら、男性ばかりの飲み会に顔を出そうとは思わない。近衛隊の皆を信頼しているけれど、それでも酒の席だ。万が一のことは考える。だけど、最強で最高の婚約者がいるなら話は別だ。この人がいるなら、何があっても問題はない。
わたしはそう言外に告げたのだけど、バーナードは賛同してくれなかった。
彼は片手で顔を覆って、呻くようにいった。
「問題はないですよ、ええ。問題など起こさせませんし、起こしません。ええ、決して、何があろうとも、何もしません。ですが、駄目なものは駄目です……ッ!」
バーナードは、目を据わらせて続けた。
「そんなに飲みたいなら、後宮の自室で飲んでください。サーシャが傍にいるときにでも、お好きなだけどうぞ。それなら俺は何もいいませんから」
「こういう賑わいのある雰囲気の中で飲むのが楽しいと聞きますのに……」
わたしは未練がましくそういったけれど、バーナードの猛反対を押し切ってまで飲みたいわけではない。おとなしくメニューを眺めて、花蜜水を一つ注文した。
バーナード「俺の殿下が俺に対して無防備すぎる」